君主が位につくこと,また天皇が皇位につくこと。君主の即位については〈王〉の項を参照されたい。天皇の即位は,践祚(せんそ)と同義であるが,平安時代の初め,践祚(譲位)の儀と即位の礼が分離してからは,皇位継承の実質は践祚に移り,即位は皇位についた天皇がそれを天下に宣布する儀礼となった。
践祚=即位の儀についてやや具体的な内容を伝える最初は,690年の持統天皇即位の《日本書紀》の記述である。すなわち即位当日,物部氏が大盾を立て,神祇伯中臣氏が天神の寿詞(よごと)を読み,終わって忌部氏が皇后(持統)に神璽の剣と鏡を奉上する。皇后が天皇の位につき,公卿百官が列立拝礼する。《古語拾遺》に神武天皇の即位儀として記述するものも,大筋で上記の内容に一致するが,大宝・養老令にも中臣の寿詞奏上と忌部の鏡剣奉上を規定している。ところが697年文武天皇が践祚後十数日を経て,あらためて即位の詔を宣し,ついで781年(天応1)桓武天皇が践祚後,伊勢神宮に使を遣わして奉告し,さらに大極殿(だいごくでん)で即位の詔を宣するにおよび,践祚の儀と即位の礼が分離し,それぞれ別個の儀礼を形成するに至った。その儀制の大綱は,嵯峨天皇のとき《弘仁儀式》に規定されたというが,清和朝に制定された《貞観儀式》には,譲国儀,天皇即位儀および践祚大嘗祭(だいじようさい)儀が定められ,令条に見える中臣の寿詞奏上と忌部の鏡剣奉上は,大嘗祭の辰日の儀に編入され,さらに平安中期以降は,その鏡剣奉上も廃絶して,寿詞奏上のみが永く存続した。
天皇即位儀は,すでに唐礼に準拠して実施されていた元日朝賀の式を準用したもので,きわめて唐風の濃い儀式であるが,江戸時代末まで大きな変化がなく継承された。その大略を述べると,まず挙式に先立ち,勅使を伊勢神宮および山陵に遣わして即位の由を奉告する。ついで大極殿を装飾し,前庭に烏形および日像・月像・朱雀・青竜・白虎・玄武の幡を立てる。当日親王以下文武百官が唐風の礼服(らいふく)を着して大極殿の前庭に参入列立する。その間,隼人(はやと)が犬吠を発する。ついで天皇が冕服(べんぷく)を着して高御座(たかみくら)に登る。主殿と図書の官人が香をたいて天帝に奉告する。宣命使が即位の宣命を宣読し,群臣が拝舞し,武官は旗をふって万歳を唱える。
以上の儀礼の大綱は江戸時代末までほぼ遵守されたが,式場は内裏の変災,衰亡によって変遷をまぬがれなかった。陽成天皇は大極殿の焼亡により豊楽殿(ぶらくでん)で即位礼を挙げ,冷泉天皇は病身のため紫宸殿(ししんでん)で挙式し,後三条天皇はまた大極殿焼失により太政官庁で挙行し,安徳天皇も大極殿焼亡のため紫宸殿で即位の礼を挙げた。その後大極殿はついに再建されず,後鳥羽天皇が後三条天皇の佳例を追って太政官庁に即位してからは,長くこれが常例となったが,応仁の乱で太政官庁が焼失した後をうけて,後柏原天皇は土御門内裏の紫宸殿で即位礼を挙げ,以後もっぱら紫宸殿で挙行された。
また即位礼を挙げる時期は,践祚後吉日を選んで行うとするほか,とくに定めるところはなかったが,践祚の当年ないし翌年に行うのを普通とした。後柏原天皇が践祚後20年余,後奈良天皇が9年余を経てようやく挙式したのは,戦国乱世における異例であり,仲恭天皇が即位の礼を挙げずに退位したのは,承久の乱による変例である。
明治維新後に行われた明治天皇の即位式は,従前の中国風の儀礼を払拭することに努め,天皇の冕服や諸臣の礼服を廃して,束帯や衣冠に改め,烏形以下の幡に代わって,幣帛(へいはく)を付けた大幣旗,日月幣旗などを立て,香を焚く炉を廃し,奉幣案と大地球儀を置いた。ついで皇室典範の制定に当たり,〈即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ〉と規定し,さらに1909年〈登極令〉が制定されるにおよび,即位礼は先帝の諒闇が明けた年の秋冬の間,大嘗祭に先立って京都皇宮の紫宸殿において挙行されることになった。また〈登極令〉では,あらためて古来の伝統を重んじて儀注が定められ,大正・昭和の大礼はその規定により行われたが,1947年皇室典範が新定され,〈登極令〉が廃止されたため,現在は即位礼に関する規定は存しない。
→皇位継承 →践祚
執筆者:橋本 義彦
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皇嗣(こうし)が天皇の位を継承することで、「しょくい」とも読む。天皇が位につくことを国語では「アマツヒツギシロシメス」ということばで表現したが、これにあてられた漢語が践祚(せんそ)、即位であり、本来区別なく用いられていた。この即位(践祚)の規定は養老令(ようろうりょう)では神祇(じんぎ)令のなかにみえるが、持統(じとう)天皇(在位687~697)の即位の際、物部(もののべ)が大盾を立て、中臣(なかとみ)が天神寿詞(あまつかみのよごと)を奏し、忌部(いんべ)が神璽(しんじ)の剣鏡を奉り、百官が羅列して拍手し、新帝を拝したという記事もその規定とよく一致するので、さかのぼって浄御原(きよみはら)令におけるなんらかの規定も想定しうる。ところが、桓武(かんむ)天皇(在位781~806)が受禅ののち、日を隔てて即位の儀を行った例を初めとして、践祚と即位が別の儀式として分離されるのが例になると、即位の語は、皇位の継承を諸神・皇祖に告げ、天下万民に宣する儀式(即位式)をさすものとなっていった。『弘仁(こうにん)儀式』では譲国儀と即位儀が区別され、『貞観(じょうがん)儀式』に至って唐風を加味した盛大な次第が定まり、以後の範となった。その大要を示すと、式日に先だっては、即位の由を告げるために伊勢(いせ)神宮に幣帛(へいはく)を奉り(由奉幣(よしのほうべい))、諸陵墓に告陵使を派遣する。また当日着用の冠服を覧ずる(礼服御覧(らいぶくごらん))。当日は庭前に日月幢(じつげつのどう)、四神および万歳旗、陣鉾(じんのほこ)を立て、冕服(べんぷく)を着けた天皇が高御座(たかみくら)につき、宣命大夫(せんみょうのたいふ)が即位宣命を読むとともに、礼服を着用して列立する百官は拝舞し、武官は旆(はた)を振って万歳を称した。この即位の儀式は、大極殿(だいごくでん)で行う例であったが、1177年(治承1)に焼亡して以来再建されなかったため、安徳(あんとく)天皇は紫宸(ししん)殿、後鳥羽(ごとば)天皇以後は太政官庁で、さらに後柏原(ごかしわばら)天皇以後は紫宸殿で行われた。
明治天皇のときに至り、礼服、高御座にかえて、衣冠束帯を用いるなど、従前の唐風を改めてわが国固有の儀に従うという方針に基づく新様式の即位式が行われたが、その後、旧皇室典範(1889)、登極令(1909)において、即位の礼は秋冬の間に京都で行うことなどの詳細が定められた。現在の皇室典範では「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」(24条)と定められている。
[杉本一樹]
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皇嗣が皇位につくこと。またそのための儀式をさすこともある。本来は践祚(せんそ)と同義で,神祇令は中臣(なかとみ)氏が天神の寿詞(あまつかみのよごと)を奏上し,忌部(いんべ)氏が神璽(しんじ)の鏡と剣を奉呈すると規定している。しかし,8世紀頃には践祚と即位が分離しはじめ,桓武天皇の没時以来,剣璽渡御(けんじとぎょ)を内容とする践祚の儀が行われたのち,同年もしくは翌年に新天皇が高御座(たかみくら)に登っての即位の儀が行われるかたちが一般化し,それぞれ別の儀式を形成するようになった。以後このかたちが引き継がれたが,1947年(昭和22)制定の現皇室典範では,没後ただちに即位すべきことが規定され,践祚の語は用いられていない。
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…皇位につくこと。天子が位につくと,宗廟の祚(阼)=東階をのぼって祭祀をつかさどるという中国の古典に由来する語で,即位と同じ意味である。しかし平安時代以降,践祚と即位が別個の儀礼となる一方,譲位が常例化するにともない,おもに先帝の没後をうけた場合に践祚の語を用いるようになった。…
※「即位」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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