日本歴史地名大系 「喜美留間切」の解説 喜美留間切ちびるまぎり 鹿児島県:大島郡和泊町喜美留間切沖永良部(おきのえらぶ)島に置かれた行政区画の一。正保琉球国絵図には「きびる間切」と記され、間切高一千七九〇石余で、当間切のうちとして「あぜふ村」がみえる。当間切はすでに琉球王国時代に置かれていたと考えられる。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳には「枇留間切あぜふ村」とあり、田方九一八石余・畠方八六六石余、桑役五石余。元禄国絵図では木比留間切とする。現知名(ちな)町下城(しもじろ)の元禄一一年(一六九八)の要家文書に「女子思とかね 喜美留与人女房」とある。当間切域は島内の北東部を占めていたが、一八世紀以降は手々知名(ていーちや)・出花(でいぎ)・畦布(あじふ)・根折(にゆい)・玉城(いにやーとう)・内城(ぐすく)・瀬名(しにや)・永嶺(ながに)・皆川(いにやーぐ)、上城(かみしろ)・大津勘(ふーちかん)・知名(じんにや)・上平川(ひよー)・下平川(しむびよう)(現知名町)の一四ヵ村が所属したとされ(沖永良部島沿革誌私稿)、南西部にも及んでいる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報