日本歴史地名大系 「大島郡」の解説
大島郡
おおしまぐん
山口県の東南部にあり、
大島の名は「古事記」上巻の国生み神話に「次に大島を生みき」とみえるが、郡名としての初見は、東大寺正倉院文書の天平一〇年(七三八)の周防国正税帳である。
〔原始・古代〕
縄文時代の遺跡としては久賀町の
前述の天平一〇年の周防国正税帳には「大島郡 天平九年定正税壱拾万玖仟肆伯拾玖束伍把五分」とあって、相当の水田が開かれていた。「国造本紀」に「大島国造」があり、大島の国が大化以前に形成されていたことが知られ、大島郡として周防国の一部となったのはこの頃と思われる。また平城宮出土木簡に「周防国大嶋郡美敢郷凡海阿耶男御調塩二斗 天平十七年」などとみえ、大島郡で塩を生産、調として納めていたことが知られる。
「和名抄」によると大島郡には屋代・
大島郡
おおしまぐん
明治一二年(一八七九)奄美諸島に成立した郡。郡域は、鹿児島市から南下した遠隔の海域に飛石状に連なった八つの島嶼、すなわち喜界島・奄美大島・
〔郡の成立〕
慶長一四年(一六〇九)島津氏の琉球侵攻の結果、奄美諸島は琉球王国から分割され、鹿児島藩の直轄領となり、同一八年設置の大島代官をはじめ諸代官の支配を受け、明治四年の廃藩置県に至った。明治政府が次次と中央集権国家への政策を打出すなか、鹿児島県も同二年に藩の職制を改革し、同三年に在番所が設置され、在番伊東仙太夫が奄美に着任した。従来の代官・付役・横目をそれぞれ御在番・御検事・御筆者と改称したのである。明治五年に大区・小区制が施行され、大島が第九〇大区で第一小区から一三小区まで、喜界島は第九一大区で六小区、徳之島は第九二大区で同じく六小区、沖永良部・与論は第九三大区となっている。同六年に与人は戸長に、間切横目は副戸長に改称されるが、近世の統治機構はそのまま継続された。同八年六月
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報