大島郡(読み)おおしまぐん

日本歴史地名大系 「大島郡」の解説

大島郡
おおしまぐん

面積:一三九・九七平方キロ
久賀くか町・大島おおしま町・たちばな町・東和とうわ

山口県の東南部にあり、屋代やしろ(大島・周防大島ともいう)を中心として、うか島・笠佐かささ島・沖家室おきかむろ島・なさけ島・かた島などの諸島よりなる。

大島の名は「古事記」上巻の国生み神話に「次に大島を生みき」とみえるが、郡名としての初見は、東大寺正倉院文書の天平一〇年(七三八)の周防国正税帳である。

〔原始・古代〕

縄文時代の遺跡としては久賀町中津原なかづわら遺跡がある。弥生時代の遺跡としては久賀町の鳶の巣とびのす遺跡・久保河内くぼがいち遺跡、橘町の沓松くつまつ遺跡・飯の山いいのやま遺跡などがあり、弥生式土器や石器が発掘され、集落の存在が認められる。これらの遺跡のほとんどは丘陵地に存在するが、水田耕作による農耕文化を形成していたと思われる。古墳時代の遺跡は久賀町の庄地しようじ古墳群や大島町の北迫きたざこ古墳群など十数地域に残り、古墳時代後期の横穴式石室を主とする。

前述の天平一〇年の周防国正税帳には「大島郡 天平九年定正税壱拾万玖仟肆伯拾玖束伍把五分」とあって、相当の水田が開かれていた。「国造本紀」に「大島国造」があり、大島の国が大化以前に形成されていたことが知られ、大島郡として周防国の一部となったのはこの頃と思われる。また平城宮出土木簡に「周防国大嶋郡美敢郷凡海阿耶男御調塩二斗 天平十七年」などとみえ、大島郡で塩を生産、調として納めていたことが知られる。

和名抄」によると大島郡には屋代・美敷みふ(敢)務理むりの三郷があり、その郷域は、屋代郷が屋代を中心とした現大島町、務理郷は現久賀町と橘町の北半部、美敷郷は現東和町と橘町南半部にあたると推定されている。


大島郡
おおしまぐん

面積:一一一二・二九平方キロ(境界未定)
喜界きかい町・笠利かさり町・龍郷たつごう町・住用すみよう村・大和やまと村・宇検うけん村・瀬戸内せとうち町・徳之島とくのしま町・天城あまぎ町・伊仙いせん町・和泊わどまり町・知名ちな町・与論よろん

明治一二年(一八七九)奄美諸島に成立した郡。郡域は、鹿児島市から南下した遠隔の海域に飛石状に連なった八つの島嶼、すなわち喜界島・奄美大島・加計呂麻かけろま島・うけ島・与路よろ島・徳之島沖永良部おきのえらぶ島・与論島からなる。航路距離にして鹿児島から喜界島まで三八〇キロ、最南端の与論島まで五九二キロに及び、奄美諸島内そのものは長さにして二〇〇キロにもわたる。与論島から沖縄まではわずか二五キロしか離れていない。気候は亜熱帯海洋性に属し、四季を通じ温暖多雨である。年間平均気温は摂氏二一度前後で、毎日の日平均気温が一〇度以下になる日がない。

〔郡の成立〕

慶長一四年(一六〇九)島津氏の琉球侵攻の結果、奄美諸島は琉球王国から分割され、鹿児島藩の直轄領となり、同一八年設置の大島代官をはじめ諸代官の支配を受け、明治四年の廃藩置県に至った。明治政府が次次と中央集権国家への政策を打出すなか、鹿児島県も同二年に藩の職制を改革し、同三年に在番所が設置され、在番伊東仙太夫が奄美に着任した。従来の代官・付役・横目をそれぞれ御在番・御検事・御筆者と改称したのである。明治五年に大区・小区制が施行され、大島が第九〇大区で第一小区から一三小区まで、喜界島は第九一大区で六小区、徳之島は第九二大区で同じく六小区、沖永良部・与論は第九三大区となっている。同六年に与人は戸長に、間切横目は副戸長に改称されるが、近世の統治機構はそのまま継続された。同八年六月名瀬なぜ方戸長役所を廃止し、大支庁を設置し、戸長・一等副戸長・二等副戸長・三等副戸長制の役職を置いている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

防府市歴史用語集 「大島郡」の解説

大島郡

 周防大島全域を指します。郡には律令[りつりょう]時代に定められました。当時は塩の産地として有名でした。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

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