「永禄日記」慶長一六年(一六一一)に平川とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
青森県中南部の市。2006年1月尾上(おのえ)町,平賀(ひらが)町と碇ヶ関(いかりがせき)村が合体して成立した。人口3万3764(2010)。
平川市南西部の旧村。旧南津軽郡所属。人口3166(2005)。岩木川支流の平川上流の山地を占め,秋田県に接する。中心の碇ヶ関は天文年間(1532-55)に記された《津軽郡中名字》には〈瞋ノ関(いかりのせき)〉とあり,近世に参勤交代の通路として羽州街道が通じてからは津軽藩主の〈御仮屋(おかりや)〉が設けられ,大間越(おおまごし),野内(のない)とともに津軽三関の一つに数えられる番所が置かれた。現在は東北自動車道のインターチェンジがある。村域の9割近くを山林が占め,その大部分は国有林からなり,農業は若干の米とリンゴを産するにすぎない。碇ヶ関,相乗(あいのり),湯の沢などの温泉があり,大鰐碇ヶ関温泉郷県立自然公園に指定されている。碇ヶ関温泉(含食塩炭酸鉄泉,47~71℃)には日露戦争や第2次世界大戦中に陸軍の療養所が置かれ,1968年には黎明郷リハビリテーション病院が建設された。三笠山公園には,当地に居住した葛西善蔵の文学碑がある。南北にJR奥羽本線が通る。
平川市北端の旧町。旧南津軽郡所属。人口1万0110(2005)。津軽平野南東部に位置し,町域の大部分は沖積平野からなる。弘前市と黒石市にはさまれ,1927年に弘南鉄道弘前~津軽尾上間が開通してからは弘前市の影響を強く受けるようになった。津軽尾上~黒石間も50年に開通した。東部の山麓を中心にリンゴ栽培が盛んで,平野部は良質米の産地として知られる。80年にはもみ殻を燃料に施設園芸を行う省エネルギー団地がつくられ,蔬菜,花卉の栽培に力を入れている。また苗木,植木の産地としても知られる。蝦夷制圧の途中に倒れた上毛野君田道をまつる猿賀神社は農民の信仰が厚く,旧暦8月15日の大祭はにぎわいをみせる。境内の森はウ,サギの繁殖地として1935年に天然記念物に指定されたが,近年はウ,サギの姿はほとんどみられない。盛美園は明治末に建設された大石武学流の庭園で,名勝に指定されている。
平川市中部の旧町。南津軽郡所属。人口2万2060(2005)。町の西部は津軽平野南東端にあたり,中部から東部一帯は南八甲田連峰や十和田カルデラ外輪山に連なる山地で占められる。開発の古い地域で,鎌倉時代は曾我氏,室町時代には南部氏,近世に入って津軽氏の支配に属した。弘前市と結ぶ弘南鉄道平賀駅前の本町が中心地。平野部では稲作,山麓の緩傾斜地ではリンゴ栽培が盛んで,早くから生産組合,出荷組合が組織されていた。東部山地の善光寺平(ぜんこうじたい),大木平(おおぼくたい),軍馬平(ぐんばたい)などは第2次大戦後の開拓地で,高冷地野菜の栽培を行っている。東端部は十和田八幡平国立公園に属し,十和田湖の外輪山には滝の沢,御鼻部山の展望台があり,浅瀬石(あせいし)川上流域の切明(きりあけ),温川(ぬるかわ)には温泉もある。
執筆者:佐藤 裕治
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青森県中南部、津軽平野(つがるへいや)の南端に位置する市。2006年(平成18)、南津軽郡平賀町(ひらかまち)、尾上町(おのえまち)、碇ヶ関村(いかりがせきむら)が合併して成立。市名は西部を流れる平川による。東は十和田市、北は黒石(くろいし)市、南津軽郡田舎館(いなかだて)村、西は同郡大鰐(おおわに)町、平川を隔てて弘前(ひろさき)市に接し、南は秋田県に隣接する。JR奥羽本線、弘南(こうなん)鉄道弘南線、国道7号、102号、454号(一部で102号と重複)、東北自動車道が通じ、碇ヶ関インターチェンジがある。碇ヶ関(碇ヶ関番所)は、近世には野内(のない)番所(青森市)、大間越(おおまごし)番所(西津軽郡深浦町)とともに津軽三関の一つに数えられ、三関のうち碇ヶ関の備えが最も厳重であったという。現在、市域北西部に広がる津軽平野では水稲、丘陵地では水稲とリンゴ、花卉(かき)や庭木の栽培、山間で木材の生産が行われている。山地はほとんどが国有林で、十和田八幡平(はちまんたい)国立公園域。
清藤盛美(せいとうもりよし)が明治後期に作庭した枯山水(かれさんすい)池泉回遊式庭園をもつ盛美園(せいびえん)、江戸末期に作庭された清藤氏書院庭園はともに国指定名勝。農漁業、交通、眼の守護神として尊信される猿賀神社(さるかじんじゃ)は、蝦夷(えぞ)征討に赴いて討ち死にした上毛野君田道(かみつけののきみたじ)の霊を祀る。温川温泉(ぬるかわおんせん)や古くからの湯治場である碇ヶ関温泉などがある。面積346.01平方キロメートル、人口3万0567(2020)。
[編集部]
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[江戸の都市形成]
江戸は,1590年に徳川氏の居城地となる以前にすでに小規模ながら城郭と町屋がみられていた。これは文明年間(1469‐87)の太田道灌による江戸築城がなされてからで,平川(ひらかわ)(江戸の中心を北西から南東へ流れていた川。築城のさい,大部分が濠に利用された)河口にも毎日市が開かれていたという。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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