日本歴史地名大系 「多和目村」の解説 多和目村たわめむら 埼玉県:坂戸市多和目村[現在地名]坂戸市多和目・西坂戸(にしさかど)一―五丁目・けやき台(だい)、日高市田波目(たばめ)四日市場(よつかいちば)村の西にあり、南は高麗(こま)郡上田波目(うわたばめ)村・平沢(ひらさわ)村(現日高市)、北は下河原(しもがわら)村(現毛呂山町)。高麗川が蛇行しながら南西から北東へ流れる。村名は多波目・田波目とも記される。小田原衆所領役帳には半役被仰付衆左衛門佐殿の所領として、河越三三郷の「多波目葛貫」一四六貫六三六文がみえ、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。元和三年(一六一七)五月二六日稲生次郎左衛門(正信)は「高麗郡日西之内多和目」など三ヵ村計三五五石余を宛行われた(「徳川秀忠朱印状」稲生家文書)。以後旗本稲生氏は当村内に陣屋(現天神社社地)を構えて当村・和田(わだ)村・善能寺(ぜんのうじ)村などを幕末まで領し、大目付・日光奉行・長崎奉行など幕府の重職についている。稲生正信の住んだ正信(しようしん)庵が城(しろ)山の中腹に現存する。田園簿には下田波目村とみえ田一七三石余・畑一八七石余、旗本稲生領(一八〇石余)・同河村領(一八〇石余)の二給で、ほかに恵眼(えいげん)寺(現永源寺)領一〇石があった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by