「高麗」を「こま」と読む理由は諸説あるが未詳。「高句麗」が滅んだ後も「こま」という名称は朝鮮半島を指す名として残り、「源氏‐桐壺」で幼い光源氏の人相を観た「高麗人」は渤海国の人。
朝鮮の王朝。918-1392年。かつて日本では高句麗とともに高麗を〈こま〉と呼んだ。英語のKoreaは高麗の朝鮮語音コリョのなまったものである。
高麗時代の特色は,第1に朝鮮史上初めて統一国家が出現したことである。新羅時代には,高句麗の後継者である渤海国が北方(中国東北地方)にあり,南北に2国家が並立していた。高麗成立の直後に渤海が契丹に滅ぼされ(926),多数の遺民が高麗に移ってきた。これによって従来南北に分かれていた朝鮮人が高麗の下に統合された。しかし,現在の中国東北地方を含んだ北方の広大な土地は朝鮮史の領域から離れた。第2は強い外圧を受ける中で国家を建設し維持したことである。10~14世紀はアジア大陸で契丹(遼)・女真(金)・モンゴル(元)などの北方民族が雄飛した時代であるが,高麗はそれらの外圧に苦しめられた。とくにモンゴルの侵入と支配は大変な苦難をもたらした。しかし高麗は抵抗の末に外力をしりぞけた。第3は血統による身分差を超え才能のあるものが立身出世する道が開かれたことである。新羅末の内乱期に実力のあるものが勝ち,新羅の骨品制はくずれた。そのあと高麗は科挙制を採用し広く人材を求めた。まだ血統による社会的制約は残ったが,その解消に向かって一歩前進した。
高麗時代は前期(918-1170),中期(1170-1270),後期(1270-1392)の3期に分かれる。前期は新羅末期に台頭した豪族を統合し,また渤海遺民を吸収して,統一的官僚国家が成長発展すると同時に,官僚内部の抗争が激化する時期である。中期は従来の文臣政権に代わって武人政権が成立し,同時に農民や賤民の反乱が頻発して下層身分の解放が進行した時期である。後期は元の支配下で苦しむ中で反元運動が進展し,また次代をになうべき新進の官僚層が生まれた時期である。
高麗王朝をおこした王建は松岳(開城)地方の豪族で,初めは泰封の弓裔(きゆうえい)の部将として活躍したが,やがて弓裔を倒して王となり,高句麗の後継者であることを自任して国を高麗と号し(918),翌年,松岳を都にした。当時,新羅は慶州周辺で余命を保っただけであり,南西部は後百済が支配し,また諸方に豪族が割拠していた。やがて新羅は自立できないことを知り高麗に降服してきた(935)。翌年,王建は後百済を討ち滅ぼした。そのころ北方では渤海が滅び多数の遺民が高麗に移ってきた。こうして高麗は渤海遺民をも含めて朝鮮民族の統一をなしとげた。
しかし各地には豪族がおり,それぞれ城をかまえ私兵をもち周辺の村々を支配していた。王建は反抗するものを討つ一方,婚姻,賜姓などの方法で豪族を味方につけた。これらの豪族を国家機構の中に吸収し,官僚国家をつくるのが大きい課題であった。まず地方豪族がもっていた私兵を統合して光軍に改編した(947)。つづいて科挙制が施行された(958)。これは儒学の教養をもつ文臣官僚による国政運営をめざすと同時に,豪族の子弟を官僚に吸収するねらいがあった。さらに官僚の生活を保証するために,地位に応じて田地と柴地を支給する田柴科(でんさいか)および禄俸の制度ができた(ともに1076年に完成)。一方,中央地方の行政機構も整備された。中央には政務を総轄する三省(中書・門下・尚書),実務を担当する六部(吏・兵・戸・刑・礼・工),王命や軍機をつかさどる中枢院などの官庁がおかれた。地方には重要地点に京や都護府,軍事の要衝に鎮をおき,また全国に約500の郡県と多数の部曲,郷,所,津,駅などをおいた。郡県は本来は豪族の居住地で,その住民は良民,部曲以下の住民は一段劣る身分とされた。とくに有力な豪族がいた郡県には中央から地方官を派遣し,そこを拠点にして周辺の郡県や部曲以下を支配した。また豪族の子孫を郷吏に任命し,行政の末端事務を担当させた。こうして豪族は伝統的勢力を温存しつつ国家機構に吸収された。
このような中央集権的官僚国家の建設は,北方からの契丹の脅威によって促進されたが,やがて契丹は侵入してきた。契丹の大軍は3回(993,1010,1018)侵入し首都を占領したこともあるが,高麗は抗戦して国土を守り通した。やがて官僚国家の発展につれて官僚の地位が世襲化し,門閥が形成された。彼らは相互に争いを続けたが,外戚として最も強力な門閥を誇った李資謙は王位をねらって反乱を起こした(1126)。つづいて妙清らは西京(平壌)を拠点に兵を挙げ新しい王朝をつくろうとした(1135)。どちらも鎮圧されたが,それらは高麗官僚国家の行きづまりを示した。
前期には文臣が圧倒的優位を占め武臣は軽蔑されていたが,1170年,つづいて73年のクーデタで武臣は文臣を殺害追放し,武人政権を樹立した。これから約100年間,朝鮮史では類のない武人政権の時代が続いた。しかし,その初期には武人相互の権力争いで政情は不安を極めた。それに乗じて,これまで重い負担と身分差別に苦しんでいた民衆が蜂起した。第1波は,74年に西京の趙位寵の反乱に呼応した北西部の民衆の蜂起,つづいて76年の南部諸地域の民衆の蜂起が始まり,78年まで続いた。第2波は,1193年から1202年までの10年間,慶尚道および江原道を中心にして展開された。その間に首都でも奴婢万積の乱が起こった(1198)。この前後30年間に反乱はほぼ全土で起こり,また良民,部曲民,所民,奴婢など広範な民衆が参加した。これにより部曲その他の身分差別を受けていた行政区画は廃止の方向に向かった。
しかし崔忠献が登場して武人政権が確立すると,反乱は鎮圧された。崔氏は4代約60年(1196-1258)にわたって政権をとったが,1231年からモンゴルの侵入が始まった。崔氏の指導の下で高麗は頑強に抗戦したが,その最中に崔氏は滅ぼされ,その後に立った武人の残党もモンゴルと結ぶ国王派に倒され,武人政権は消滅した(1270)。その後も三別抄という軍隊がモンゴルの支配に反対し,南方の島を拠点にして抗戦したが(1270-73),モンゴルおよび高麗の軍隊に鎮圧された。当時モンゴルは高麗を基地にして日本遠征の準備をすすめていたが,三別抄の抗戦で実現できなかった。三別抄の鎮圧により,はじめてそれが可能になったのであり,三別抄の抗戦はモンゴルの日本遠征をおくらせた点で日本にとって大きい助けであった。
元の制圧下で高麗王室と元室との一体化が進んだ。歴代の王は元の皇女を王妃にむかえ,そのあいだに生まれた男子が王となった。国王の地位は元の力によって保証された。しかし王の廟号に〈宗〉をつけることは禁じられて〈王〉の字を使い,朕は孤に,陛下は殿下に改めるなど,王に関係する用語は格下げされた。また東北部の領土は元に奪われ,その双城総管府の管轄下に編入された。また元の2回にわたる日本遠征には兵士や兵船,食料,武器などを徴発された。こういう元の力を背景にして高麗政界では親元派がはびこった。彼らは権勢を利用して農民の土地を奪い農荘(庄)と呼ばれる私有地を拡大した。土地を失った農民は流亡し,また農荘の小作人になった。当然に国家の財政基盤がくずれ,官僚への土地や禄俸の支給も困難になり,官僚層の内部に不満が高まった。このような状況の下で新しいタイプの官僚が成長してくる。郷吏などの地方豪族の出身で,新たに伝えられた朱子学を信奉し,科挙に合格して官僚となった人々である。彼らは特権をふるう親元派を批判した。
そのころアジアの政局は大きく転換しつつあった。元の支配下の中国では14世紀中期から反元運動が起こり,元の威信はゆらぎ出した。それを見て恭愍(きようびん)王は新興官僚の支持の下に,1356年,反元運動を起こし,親元派の追放,元の年号の使用停止,双城総管府の奪回,農荘の没収などを断行した。しかし親元派はじめ保守派の反対により中途で挫折した。このころから新しい外患が起こった。のちに明を生み出す,農民運動の流れをくんだ中国の紅巾軍(紅巾の乱)が2回にわたって侵入し(1359,61),また倭寇の襲来が激化した。高麗は室町幕府に禁圧を求める一方,防備をかためて反撃し,また倭寇の根拠地の対馬を討った(1389)。一方,中国では明が成立し(1368),元は北方に退いて再起をはかった。この情勢は高麗に深刻な影響を及ぼし,大農荘をもつ親元派と新興官僚層を中心とする親明派の対立が激化した。結局,親元派が勝ち,元を助けるために明を攻めることになった(1388)。遠征軍の指揮者に倭寇を討って名声をあげていた李成桂が任命された。しかし彼は鴨緑江の中州の威化島まで行ったところで軍をかえし,都にもどって親元派を追放し,一挙に政治の実権を入手した。つづいて新興官僚層の輿望をになって田制改革を断行し科田法を制定した(1391)。これにより農荘は没収され,官僚や軍人に土地が分配された。翌1392年,彼は王位につき,高麗王朝を倒して李氏朝鮮王朝(李朝)を創建した。
高麗時代,仏教は護国鎮護の法として,また安心立命・現世利益の教えとして尊崇され,全国各地に壮麗な寺院がつくられた。11世紀には契丹の侵入の防止を願って《大蔵経》が彫造された。これは13世紀にモンゴル侵入の中で焼失したが,やがてモンゴル退散を願って再び《大蔵経》がつくられた。いわゆる《高麗大蔵経》であり,その経板8万余枚は今でも慶尚道の海印寺に保存されている。八関会,燃灯会をはじめ多くの仏教行事も盛んに行われた。寺院は広大な寺田をもち多数の僧侶をかかえ,さらに僧兵まで養い,しばしば政界にも力を及ぼした。
また,仏教とならんで儒学がさかんになった。科挙制が実施されてから儒学は官僚の必修教科となり,高官のなかに多くの学者があらわれた。国子監をはじめ中央・地方に官立学校がつくられたほか,崔冲の九斎学堂をはじめ私立学校もつくられた。儒学とともに漢詩・漢文もさかんであった。儒学者,文学者としては,前期の崔冲,金仁存,金富軾,尹彦頤,鄭知常,中期の李奎報,崔滋,林椿,李仁老などが名高い。後期になると儒学界に新しい傾向が生まれた。朱子学の受容である。13世紀後半に安裕が元に留学し朱子学を学んで帰ってから,朱子学が高麗に広まり,白頤正,李斉賢,李崇仁,李穡(りしよく),鄭夢周,吉再,鄭道伝,権近らの朱子学者が輩出した。朱子学は仏教や訓詁を主とする伝統儒学にあきたらぬ新興官僚に歓迎され,彼らの精神的支柱になった。朱子学は次代の李朝に入って開花する。
儒学の興隆にともない,その立場で12世紀には《三国史記》が編纂された。またモンゴルの圧迫下で,朝鮮の古い伝統をたたえた李奎報〈東明王篇〉,檀君から朝鮮史を記述した一然《三国遺事》,李承休《帝王韻紀》があらわれた。仏教,儒学とともに,地形,地勢が国家や個人の吉凶を左右するという風水(地理)説が上下に深く信仰された。美術,工芸では石塔,絵画,銅鐘などもあるが,青磁が最も有名である。美しい色・形・文様,高度の象嵌技術は世界の絶賛をあびている。科学技術の面では,12世紀末から金属活字による印刷が始まった。これは世界最古の活版印刷である(〈印刷〉の項目を参照)。また14世紀後半には綿の種子が文益漸によって元からもたらされ,その栽培が始まった。これは李朝になって全国に普及する。
→高麗美術
執筆者:旗田 巍
高麗の太祖王建は,936年に後百済を滅ぼして朝鮮半島を統一すると,937年(高麗太祖20・承平7)に使者を日本の大宰府に送って通交をもとめたが,日本側ではこれを拒絶した。1079年(高麗文宗33・承暦3)にも医師をもとめる使者が来たが,日本側ではこれも拒絶した。このように日本政府と高麗政府とのあいだには公的な外交関係は成立することはなかった。しかし,《高麗史》をみると,11世紀以後日本の筑前,壱岐,対馬,薩摩などの民間人が私的に高麗に渡航していた記事がある。高麗では,13世紀ころには日本からの渡航船を進奉船と呼び,金州(慶尚南道金海)に客館を設けて応接していた。日本から高麗に輸出したものは,水銀,硫黄,真珠,法螺,杉材などの原料品,螺鈿(らでん)鞍,硯箱,香炉,扇子などの工芸品,刀剣,弓箭(きゆうせん),甲冑などの武器であった。輸入品は,人参,麝香(じやこう),紅花などのほか,宋の絹織物や典籍であった。
高麗とモンゴルとの抗争が始まるころから,朝鮮半島南部の海域では,しばしば日本の松浦地方や対馬島の人々の海賊行為がみられるようになった。高麗ではモンゴル軍の朝鮮半島制圧を機に三別抄の軍が蜂起したが,彼らの一部は日本に援助をもとめる使者を送ってきた。高麗を圧服させたモンゴルのフビライ(世祖)は,高麗人趙彝(ちようい)のすすめに従って日本に使者を派遣することにし,1266年(高麗元宗7・元至元3・文永3)に使者黒的(こくてき)・殷弘(いんこう)を任命した。黒的らは巨済島まで至ったが日本には渡らずにひきかえし,日本との交渉は不可能であると復命した。しかし,フビライは日本との交渉を継続させ,高麗ではこれをうけて潘阜らを日本に送ってモンゴルと高麗の国書を日本に伝えることにし,彼らは1268年に大宰府に到着した。こののちフビライは,日本招諭の使者をしきりに派遣したが,高麗は日・元間にあって,その衝突を不発におわらせようと努力し,フビライの日本征伐計画を阻止できないことを知ると,ことごとに高麗の安全をはかることに努めた。しかし,これらの努力は水泡に帰し,1274年(高麗元宗15・元至元11・文永11)には元および元に徴発された高麗軍による第1次日本遠征(文永の役)が決行された。さらに,1281年(高麗忠烈王7・元至元18・弘安4)におこなわれた第2次日本遠征(弘安の役)においても,高麗軍はその一翼をになったが,軍兵7592人におよぶ大被害をうけた。
1350年(高麗忠定王2・正平5・観応1)以後には,倭寇が朝鮮半島沿岸の各地を襲撃し,官米や人民を略取したが,その惨害は年とともに増大した。高麗では武力をもってこれに対抗する一方,外交折衝によってこれを鎮圧しようとはかった。1366年(高麗恭愍王15・正平21・貞治5)に室町幕府に使者がきたのをはじめとし,辛禑王の時代には1375年(高麗辛禑王1・天授1・永和1)以後5回にわたって使節が来日し,大きな成果があった。高麗ではまた対馬島攻撃の決行,倭寇の懐柔など種々の対策をとったが,それらが実をあげぬうちに高麗王朝は倒壊し,その倭寇対策は朝鮮王朝の創建者李成桂にうけつがれた。
→モンゴル襲来 →倭寇
執筆者:田中 健夫
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朝鮮の王朝(918~1392)。9世紀末以後、朝鮮半島は各地に地方豪族が台頭し、対立、抗争する動乱状態に陥った。そのなかで、開城の豪族王建は、初め有力豪族弓裔(きゅうえい)に臣事したが、やがて弓裔を倒して、自ら王位につき、開城を都として高麗王朝を建てた。当時、朝鮮半島内は依然として、南東部の新羅(しらぎ)、南西部の有力豪族甄萱(しんけん)の後百済(ごひゃくさい)の二大勢力をはじめとして、大小の豪族が各地に割拠する状勢が続いていた。王建は種々の手段で彼らに対する征服、統制を推進し、935年新羅、936年後百済をそれぞれ滅ぼして、半島の統一を達成した。高麗の統一は、単なる新羅の旧領域の復旧にとどまらず、当時の東アジアの国際情勢にも助けられた、北方への積極的領域拡張をも伴っていた。
王朝成立の初期には、まだ地方豪族に対する統制も十分ではなく、王権も確立されるに至らなかったので、政治情勢は不安定であった。しかし、やがて第6代成宗の即位(981)とともに、王権の強化と支配体制の整備が本格的に開始された。おりから東アジアの国際情勢の変化により、11世紀初めにかけて三度契丹(きったん)の侵略を被ったが、それをも政治的、文化的発展、強化の機会や契機として積極的に取り込みつつ、その努力は続けられた。その過程で地方豪族の勢力は、一方では中央の官僚として、また一方では在地の地方行政実務担当者の郷吏として、高麗の支配体制内に吸収されていった。こうして、第11代文宗のとき(11世紀末)までの約1世紀間に、中国(おもに宋(そう)および宋を介しての唐)の制度に倣いながら、各種の制度が整備され、国王を頂点とする中央集権的官僚制国家として確立された。
高麗の支配体制の中枢を占めたのは文武の官僚で、両班(ヤンバン)と総称されたが、国家の発展、安定とともに、文臣が重んじられるようになり、また門閥の形成とともに、高位高官を占める家柄がしだいに固定化していった。彼らは有力門閥との通婚、とくに王室の外戚(がいせき)となることを推進して、勢力の増大を図った。
[北村秀人]
12世紀に入ると、門閥文臣官僚による政治にもようやく陰りがみられるようになり、文臣の隷属下に置かれた武臣や、増大する国家の収奪に苦しむ農民などの不満が高まった。1170年武臣はクーデターで一挙に文臣勢力を倒して政権を握り、それとともに74年から全国で農民の一揆(いっき)、反乱が爆発的に起こった。96年以後は武臣崔(さい)氏が、高揚した農民の動きも抑えて、4代60年間政権を維持したが、おりから北方でモンゴルが勃興(ぼっこう)した。そして、1231年以後約30年間、高麗はモンゴルの執拗(しつよう)な侵略を受け、多大の被害を受けた。崔氏政権は江華島に遷都して難を避けつつ、本土での対モンゴル抗戦を指揮した。実際各地で挙族的な激しい抗戦が展開されたが、1258年の崔氏政権の滅亡を機に、ふたたび政治の中心に復帰した高麗王室はモンゴル(のち元)に服属し、やがて開城に都を復した。これ以後約1世紀間、元の2回の日本遠征(元寇(げんこう))の主要基地とされて多大の負担を課せられたのをはじめとして、政治的、経済的な重圧を受けた。しかもこの時期には、親元的権勢家や仏教寺院などによる大土地私有が進展し、また14世紀中ごろからは南の海上からくる倭寇(わこう)の侵入が始まって、しだいに激しさを増すなどの動きもみられ、国勢はいっそう衰えた。1368年中国で明(みん)が元を北方に追って支配者となると、高麗朝廷内部では、外交方針をめぐって、親元、親明両派の政治的対立が強まった。そのなかで、咸興(かんこう)の豪族出身の李成桂(りせいけい)が、倭寇の撃退、親明方針の主張、土地制度改革の実行などによって勢力を確立し、1392年高麗を滅ぼして自ら王位につき、李(り)氏朝鮮王朝を建てた。
[北村秀人]
高麗時代の文化面でまず注目されるのは仏教の盛行である。仏教は国家鎮護の法とされて、高麗一代を通じて国教の地位を占め、寺院の造営、大規模な法会、行事の挙行などが国家の主導下になされた。『大蔵経』の刊行も2回(11世紀、13世紀)行われ、8万余枚に及ぶ第二次大蔵経の版木は現在も慶尚南道海印寺に完全に保存されている。なお、第二次大蔵経とほぼ同時期に金属活字による活版印刷術も開発され、実用化されており、注目される。儒教も国家の政治、儀礼の原理として尊重され、それに対応して、中国式科挙制度の採用、中央、地方の学校制度の整備なども早くから行われた。末期には、元との関係を通して朱子学が伝えられ、新興官僚層の思想的よりどころとされるに至り、そのなかから仏教排撃論、田制改革論などが打ち出され、李朝初めにかけて政治、社会、思想の革新が図られた。
次に工芸面では、陶磁器とくに青磁が有名である。宋の手法の模倣から始まったが、やがて翡翠(ひすい)色の釉薬(ゆうやく)、象眼(ぞうがん)などの独自の技法を生み出し、その優美さは宋人をも感嘆させている。この青磁は、当時の地方行政組織の一環をなす磁器所という特殊な行政区画の住民の、国家から課せられた身分的、世襲的負担として作製された。
[北村秀人]
『朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』(1974・三省堂)』
埼玉県日高市(ひだかし)西部の地区。旧高麗郡高麗村。716年(霊亀2)駿河(するが)以東7か国の高麗(こま)人(高句麗(こうくり)からの渡来人)1799人が、高麗王若光(じゃっこう)に率いられて集団移住させられ、高麗郡を置いたのに始まる。中世はその子孫である高麗氏の治める所で、高麗川の谷口集落として発達、3、8の日には市(いち)が開かれた。市は1688年(元禄1)衰微したが、文化(ぶんか)年間(1804~1818)復活した。地域内には、古い歴史を伝える高麗神社、聖天院(しょうてんいん)などの文化財が多い。また、花の名所「巾着田(きんちゃくだ)」がある。なお、高麗郡は古代から1896年(明治29)入間郡に合併するまで続いた。西武鉄道池袋線高麗駅がある。
[中山正民]
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918~1392
朝鮮の王朝。918年王建が建国。都は開城(開京)。新羅,後百済(こうひゃくさい)を併せて936年半島を統一した。国初は新羅の諸制度を受けついだが,やがて唐制にならって,6代成宗(在位981~997)のとき官制,地方行政制度などを改編し,以後12世紀前半までが高麗の全盛期とされる。対外的には中国五代諸王朝および宋と通交し,西北朝鮮に長城を築いて(11世紀前半),契丹(きったん),女真(じょしん)の侵入に備えた。しかし王室に寄生する官僚支配体制は地方分離の傾向を強め,また族党間の争いを起こし,武人が台頭して12世紀末に崔氏(さいし)の武人政権が成立した。1231年モンゴルが侵入し,政府は江華島に拠って抵抗したが,崔氏政権の没落後,降伏して属国となり,元の日本遠征の基地としての重圧を受けた。14世紀に入って倭寇(わこう)の害が激しく,国力がさらに衰えたとき,元が倒れ明が興った。1392年,国際関係の変動のなかで親明派の武将李成桂(りせいけい)が国王を廃し,高麗は34代475年で滅んだ。高麗の文物には唐,宋,元の影響が強い。仏教は国初以来保護を受け,特に禅宗諸派が興隆し,高麗版『大蔵経』(だいぞうきょう)が刊行された。工芸品では高麗青磁が名高い。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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朝鮮半島の王朝(918~1392)。都は開城。新羅(しらぎ)の末期,地方豪族の王建(おうけん)が建国。新羅を併合後,各地の豪族をしだいに統合し,唐・宋の制度をとりいれて集権的官僚国家の建設をめざした。契丹(きったん)・女真(じょしん)・モンゴルのたび重なる侵入をうけ,これらと宋との間に立って外交関係に苦慮するなかで,1170年武人政権が成立。13世紀後半にはモンゴルの支配下に入った。日本とはおもに私的な通交貿易が行われたが,元のフビライの日本遠征ではその基地となり,軍事・経済上の莫大な負担を負った。14世紀以後,倭寇(わこう)や中国からの紅巾(こうきん)の賊の侵入などで疲弊。中国で明が勢力を伸ばすと,高麗では親明・親元の2派が抗争,そのなかから武人李成桂(りせいけい)が,親明派の新興官僚の協力をうけて即位,李氏朝鮮が成立し高麗は滅亡した。仏教が栄え,青磁・大蔵経が著名。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」動植物名よみかた辞典 普及版について 情報
…前1世紀後半~668年。別名は句麗,高麗,貉,穢貉,貊,狛などと書き,〈こうらい〉〈こま〉ともよぶ。高句麗の建国年次は,《三国史記》によれば前37年のこととし,このころから鴨緑江の支流佟佳江の流域を中心に,小国の連合ないしは統合が行われた。…
…918‐1392年(図)。かつて日本では高句麗とともに高麗を〈こま〉と呼んだ。英語のKoreaは高麗の朝鮮語音コリョのなまったものである。…
…(1)海中の島や岩などの目標物を境として漁場の範囲を示す場合,(2)水面の面積や陸からの距離の計測による場合,(3)いわゆる〈山アテ〉や〈見通し〉のように陸上の目標物によって境界線を定める場合,(4)海路(うなじ)(沖合を通る航路)を境界線とする場合,(5)湖とか湾の真ん中を境とする場合,の五つの基本的な方法によって漁場の境が決められたようである。 以上のようなさまざまな境に対して,日本の国土・領域の境界はどのように意識されていたのかといえば,《妙本寺本曾我物語》などにみられるように,日本国の〈四至〉は,南限は熊野,北限は佐渡嶋,東限はアクル・津軽・蛮(へそ)嶋(夷島(えぞがしま)=北海道),西限は鬼界・高麗・硫黄嶋であると観念されていた。これはもちろん観念上のことであり,鎌倉幕府の軍事・警察権が高麗(朝鮮)にまで及んでいたわけではけっしてない。…
…前1世紀後半~668年。別名は句麗,高麗,貉,穢貉,貊,狛などと書き,〈こうらい〉〈こま〉ともよぶ。高句麗の建国年次は,《三国史記》によれば前37年のこととし,このころから鴨緑江の支流佟佳江の流域を中心に,小国の連合ないしは統合が行われた。…
…(1)海中の島や岩などの目標物を境として漁場の範囲を示す場合,(2)水面の面積や陸からの距離の計測による場合,(3)いわゆる〈山アテ〉や〈見通し〉のように陸上の目標物によって境界線を定める場合,(4)海路(うなじ)(沖合を通る航路)を境界線とする場合,(5)湖とか湾の真ん中を境とする場合,の五つの基本的な方法によって漁場の境が決められたようである。 以上のようなさまざまな境に対して,日本の国土・領域の境界はどのように意識されていたのかといえば,《妙本寺本曾我物語》などにみられるように,日本国の〈四至〉は,南限は熊野,北限は佐渡嶋,東限はアクル・津軽・蛮(へそ)嶋(夷島(えぞがしま)=北海道),西限は鬼界・高麗・硫黄嶋であると観念されていた。これはもちろん観念上のことであり,鎌倉幕府の軍事・警察権が高麗(朝鮮)にまで及んでいたわけではけっしてない。…
…李朝時代の学者,李瀷(りよく)は朝は東方,鮮は鮮卑族の意と解釈した。英語のKoreaは高麗の発音(Koryŏ)からきたもので,世界にまたがる大帝国を築いた元が伝えたものであろう。なお,朝鮮の異称や雅号として,〈三千里錦繡江山〉(南北が3000朝鮮里に及ぶ),〈槿域〉(ムクゲの花が咲くところ),〈青丘〉,〈鶏林〉(もとは新羅の異称),〈韓〉〈海東〉などがある。…
…その後南北朝の内乱に乗じて宗氏は実質的な支配権を手中にし,末期には守護に昇格した。 この時期は日本・高麗間に国交はなかったが,1019年刀伊の入寇を契機に,九州や壱岐,対馬から貿易船が通うようになった。モンゴル襲来後この貿易は断絶,さらに高麗の弱体化と南北朝内乱などの原因が重なり,1350年(正平5∥観応1)以後,大規模な倭寇が高麗沿岸から中国遼東半島を襲った。…
…9世紀以降,新羅の王権が衰退すると,律令体制もしだいに弱体化した。 高麗時代もまた律令編纂を明示する史料がなく,唐律令の借用説さえある。しかし,《高麗史》刑法志には高麗律(実質は律令)が,約100条も伝えられている。…
※「高麗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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