高麗(読み)こうらい(英語表記)Koryǒ

精選版 日本国語大辞典 「高麗」の意味・読み・例文・類語

こうらい カウライ【高麗】

(「らい」は「麗」の呉音)
[1]
[一] 朝鮮王朝の一つ。九一八年、王建が建国。王都は開城。新羅、百済を征服し、九三六年に半島を統一。一二五八年、崔氏滅亡を機に元の属国となり、元の日本遠征(元寇)に協力し衰退。一三九二年、李成桂によって滅ぼされた。高麗朝。
[二] 日本でいう朝鮮半島の別名。高句麗(こうくり)。こま。
[2] 〘名〙
① 高麗から輸入された錦織物。高麗錦(こまにしき)
※宇津保(970‐999頃)吹上下「かうらいのあげばり十一間を、鱗(いろこ)の如く打ちたり」
※枕(10C終)二七七「ことさらに御座といふ畳のさまにて、高麗など、いときよらなり」
※虎寛本狂言・子盗人(室町末‐近世初)「この茶碗は疑ひもない高麗であらう」

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デジタル大辞泉 「高麗」の意味・読み・例文・類語

こうらい〔カウライ〕【高麗】


朝鮮の王朝の一。936年、王建が朝鮮半島全土を統一して建国。都は開城。仏教文化が栄えたが、13世紀にはに服属。1392年、李成桂りせいけいに滅ぼされた。こま。
高句麗こうくり、また、広く朝鮮の異称。
高麗縁こうらいべり」の略。

こま【高麗/狛】

朝鮮半島古代の国名である高句麗こうくり。または、高麗こうらい
名詞の上に付いて、それが高麗から伝来したものの意を表す。「高麗楽」

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改訂新版 世界大百科事典 「高麗」の意味・わかりやすい解説

高麗 (こうらい)
Koryǒ

朝鮮の王朝。918-1392年。かつて日本では高句麗とともに高麗を〈こま〉と呼んだ。英語のKoreaは高麗の朝鮮語音コリョのなまったものである。

 高麗時代の特色は,第1に朝鮮史上初めて統一国家が出現したことである。新羅時代には,高句麗の後継者である渤海国が北方(中国東北地方)にあり,南北に2国家が並立していた。高麗成立の直後に渤海が契丹に滅ぼされ(926),多数の遺民が高麗に移ってきた。これによって従来南北に分かれていた朝鮮人が高麗の下に統合された。しかし,現在の中国東北地方を含んだ北方の広大な土地は朝鮮史の領域から離れた。第2は強い外圧を受ける中で国家を建設し維持したことである。10~14世紀はアジア大陸で契丹(遼)・女真(金)・モンゴル(元)などの北方民族が雄飛した時代であるが,高麗はそれらの外圧に苦しめられた。とくにモンゴルの侵入と支配は大変な苦難をもたらした。しかし高麗は抵抗の末に外力をしりぞけた。第3は血統による身分差を超え才能のあるものが立身出世する道が開かれたことである。新羅末の内乱期に実力のあるものが勝ち,新羅の骨品制はくずれた。そのあと高麗は科挙制を採用し広く人材を求めた。まだ血統による社会的制約は残ったが,その解消に向かって一歩前進した。

高麗時代は前期(918-1170),中期(1170-1270),後期(1270-1392)の3期に分かれる。前期は新羅末期に台頭した豪族を統合し,また渤海遺民を吸収して,統一的官僚国家が成長発展すると同時に,官僚内部の抗争が激化する時期である。中期は従来の文臣政権に代わって武人政権が成立し,同時に農民や賤民の反乱が頻発して下層身分の解放が進行した時期である。後期は元の支配下で苦しむ中で反元運動が進展し,また次代をになうべき新進の官僚層が生まれた時期である。

高麗王朝をおこした王建は松岳(開城)地方の豪族で,初めは泰封の弓裔(きゆうえい)の部将として活躍したが,やがて弓裔を倒して王となり,高句麗の後継者であることを自任して国を高麗と号し(918),翌年,松岳を都にした。当時,新羅は慶州周辺で余命を保っただけであり,南西部は後百済が支配し,また諸方に豪族が割拠していた。やがて新羅は自立できないことを知り高麗に降服してきた(935)。翌年,王建は後百済を討ち滅ぼした。そのころ北方では渤海が滅び多数の遺民が高麗に移ってきた。こうして高麗は渤海遺民をも含めて朝鮮民族の統一をなしとげた。

 しかし各地には豪族がおり,それぞれ城をかまえ私兵をもち周辺の村々を支配していた。王建は反抗するものを討つ一方,婚姻,賜姓などの方法で豪族を味方につけた。これらの豪族を国家機構の中に吸収し,官僚国家をつくるのが大きい課題であった。まず地方豪族がもっていた私兵を統合して光軍に改編した(947)。つづいて科挙制が施行された(958)。これは儒学の教養をもつ文臣官僚による国政運営をめざすと同時に,豪族の子弟を官僚に吸収するねらいがあった。さらに官僚の生活を保証するために,地位に応じて田地と柴地を支給する田柴科(でんさいか)および禄俸の制度ができた(ともに1076年に完成)。一方,中央地方の行政機構も整備された。中央には政務を総轄する三省(中書・門下・尚書),実務を担当する六部(吏・兵・戸・刑・礼・工),王命や軍機をつかさどる中枢院などの官庁がおかれた。地方には重要地点に京や都護府,軍事の要衝に鎮をおき,また全国に約500の郡県と多数の部曲,郷,所,津,駅などをおいた。郡県は本来は豪族の居住地で,その住民は良民,部曲以下の住民は一段劣る身分とされた。とくに有力な豪族がいた郡県には中央から地方官を派遣し,そこを拠点にして周辺の郡県や部曲以下を支配した。また豪族の子孫を郷吏に任命し,行政の末端事務を担当させた。こうして豪族は伝統的勢力を温存しつつ国家機構に吸収された。

 このような中央集権的官僚国家の建設は,北方からの契丹の脅威によって促進されたが,やがて契丹は侵入してきた。契丹の大軍は3回(993,1010,1018)侵入し首都を占領したこともあるが,高麗は抗戦して国土を守り通した。やがて官僚国家の発展につれて官僚の地位が世襲化し,門閥が形成された。彼らは相互に争いを続けたが,外戚として最も強力な門閥を誇った李資謙は王位をねらって反乱を起こした(1126)。つづいて妙清らは西京(平壌)を拠点に兵を挙げ新しい王朝をつくろうとした(1135)。どちらも鎮圧されたが,それらは高麗官僚国家の行きづまりを示した。

前期には文臣が圧倒的優位を占め武臣は軽蔑されていたが,1170年,つづいて73年のクーデタで武臣は文臣を殺害追放し,武人政権を樹立した。これから約100年間,朝鮮史では類のない武人政権の時代が続いた。しかし,その初期には武人相互の権力争いで政情は不安を極めた。それに乗じて,これまで重い負担と身分差別に苦しんでいた民衆が蜂起した。第1波は,74年に西京の趙位寵の反乱に呼応した北西部の民衆の蜂起,つづいて76年の南部諸地域の民衆の蜂起が始まり,78年まで続いた。第2波は,1193年から1202年までの10年間,慶尚道および江原道を中心にして展開された。その間に首都でも奴婢万積の乱が起こった(1198)。この前後30年間に反乱はほぼ全土で起こり,また良民,部曲民,所民,奴婢など広範な民衆が参加した。これにより部曲その他の身分差別を受けていた行政区画は廃止の方向に向かった。

 しかし崔忠献が登場して武人政権が確立すると,反乱は鎮圧された。崔氏は4代約60年(1196-1258)にわたって政権をとったが,1231年からモンゴルの侵入が始まった。崔氏の指導の下で高麗は頑強に抗戦したが,その最中に崔氏は滅ぼされ,その後に立った武人の残党もモンゴルと結ぶ国王派に倒され,武人政権は消滅した(1270)。その後も三別抄という軍隊がモンゴルの支配に反対し,南方の島を拠点にして抗戦したが(1270-73),モンゴルおよび高麗の軍隊に鎮圧された。当時モンゴルは高麗を基地にして日本遠征の準備をすすめていたが,三別抄の抗戦で実現できなかった。三別抄の鎮圧により,はじめてそれが可能になったのであり,三別抄の抗戦はモンゴルの日本遠征をおくらせた点で日本にとって大きい助けであった。

元の制圧下で高麗王室と元室との一体化が進んだ。歴代の王は元の皇女を王妃にむかえ,そのあいだに生まれた男子が王となった。国王の地位は元の力によって保証された。しかし王の廟号に〈宗〉をつけることは禁じられて〈王〉の字を使い,朕は孤に,陛下は殿下に改めるなど,王に関係する用語は格下げされた。また東北部の領土は元に奪われ,その双城総管府の管轄下に編入された。また元の2回にわたる日本遠征には兵士や兵船,食料,武器などを徴発された。こういう元の力を背景にして高麗政界では親元派がはびこった。彼らは権勢を利用して農民の土地を奪い農荘(庄)と呼ばれる私有地を拡大した。土地を失った農民は流亡し,また農荘の小作人になった。当然に国家の財政基盤がくずれ,官僚への土地や禄俸の支給も困難になり,官僚層の内部に不満が高まった。このような状況の下で新しいタイプの官僚が成長してくる。郷吏などの地方豪族の出身で,新たに伝えられた朱子学を信奉し,科挙に合格して官僚となった人々である。彼らは特権をふるう親元派を批判した。

 そのころアジアの政局は大きく転換しつつあった。元の支配下の中国では14世紀中期から反元運動が起こり,元の威信はゆらぎ出した。それを見て恭愍(きようびん)王は新興官僚の支持の下に,1356年,反元運動を起こし,親元派の追放,元の年号の使用停止,双城総管府の奪回,農荘の没収などを断行した。しかし親元派はじめ保守派の反対により中途で挫折した。このころから新しい外患が起こった。のちに明を生み出す,農民運動の流れをくんだ中国の紅巾軍(紅巾の乱)が2回にわたって侵入し(1359,61),また倭寇の襲来が激化した。高麗は室町幕府に禁圧を求める一方,防備をかためて反撃し,また倭寇の根拠地の対馬を討った(1389)。一方,中国では明が成立し(1368),元は北方に退いて再起をはかった。この情勢は高麗に深刻な影響を及ぼし,大農荘をもつ親元派と新興官僚層を中心とする親明派の対立が激化した。結局,親元派が勝ち,元を助けるために明を攻めることになった(1388)。遠征軍の指揮者に倭寇を討って名声をあげていた李成桂が任命された。しかし彼は鴨緑江の中州の威化島まで行ったところで軍をかえし,都にもどって親元派を追放し,一挙に政治の実権を入手した。つづいて新興官僚層の輿望をになって田制改革を断行し科田法を制定した(1391)。これにより農荘は没収され,官僚や軍人に土地が分配された。翌1392年,彼は王位につき,高麗王朝を倒して李氏朝鮮王朝(李朝)を創建した。

高麗時代,仏教は護国鎮護の法として,また安心立命・現世利益の教えとして尊崇され,全国各地に壮麗な寺院がつくられた。11世紀には契丹の侵入の防止を願って《大蔵経》が彫造された。これは13世紀にモンゴル侵入の中で焼失したが,やがてモンゴル退散を願って再び《大蔵経》がつくられた。いわゆる《高麗大蔵経》であり,その経板8万余枚は今でも慶尚道の海印寺に保存されている。八関会燃灯会をはじめ多くの仏教行事も盛んに行われた。寺院は広大な寺田をもち多数の僧侶をかかえ,さらに僧兵まで養い,しばしば政界にも力を及ぼした。

 また,仏教とならんで儒学がさかんになった。科挙制が実施されてから儒学は官僚の必修教科となり,高官のなかに多くの学者があらわれた。国子監をはじめ中央・地方に官立学校がつくられたほか,崔冲の九斎学堂をはじめ私立学校もつくられた。儒学とともに漢詩・漢文もさかんであった。儒学者,文学者としては,前期の崔冲,金仁存,金富軾,尹彦頤,鄭知常,中期の李奎報,崔滋,林椿,李仁老などが名高い。後期になると儒学界に新しい傾向が生まれた。朱子学の受容である。13世紀後半に安裕が元に留学し朱子学を学んで帰ってから,朱子学が高麗に広まり,白頤正,李斉賢,李崇仁,李穡(りしよく),鄭夢周,吉再,鄭道伝,権近らの朱子学者が輩出した。朱子学は仏教や訓詁を主とする伝統儒学にあきたらぬ新興官僚に歓迎され,彼らの精神的支柱になった。朱子学は次代の李朝に入って開花する。

 儒学の興隆にともない,その立場で12世紀には《三国史記》が編纂された。またモンゴルの圧迫下で,朝鮮の古い伝統をたたえた李奎報〈東明王篇〉,檀君から朝鮮史を記述した一然《三国遺事》,李承休《帝王韻紀》があらわれた。仏教,儒学とともに,地形,地勢が国家や個人の吉凶を左右するという風水(地理)説が上下に深く信仰された。美術,工芸では石塔,絵画,銅鐘などもあるが,青磁が最も有名である。美しい色・形・文様,高度の象嵌技術は世界の絶賛をあびている。科学技術の面では,12世紀末から金属活字による印刷が始まった。これは世界最古の活版印刷である(〈印刷〉の項目を参照)。また14世紀後半には綿の種子が文益漸によって元からもたらされ,その栽培が始まった。これは李朝になって全国に普及する。
高麗美術
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高麗の太祖王建は,936年に後百済を滅ぼして朝鮮半島を統一すると,937年(高麗太祖20・承平7)に使者を日本の大宰府に送って通交をもとめたが,日本側ではこれを拒絶した。1079年(高麗文宗33・承暦3)にも医師をもとめる使者が来たが,日本側ではこれも拒絶した。このように日本政府と高麗政府とのあいだには公的な外交関係は成立することはなかった。しかし,《高麗史》をみると,11世紀以後日本の筑前,壱岐,対馬,薩摩などの民間人が私的に高麗に渡航していた記事がある。高麗では,13世紀ころには日本からの渡航船を進奉船と呼び,金州(慶尚南道金海)に客館を設けて応接していた。日本から高麗に輸出したものは,水銀,硫黄,真珠,法螺,杉材などの原料品,螺鈿(らでん)鞍,硯箱,香炉,扇子などの工芸品,刀剣,弓箭(きゆうせん),甲冑などの武器であった。輸入品は,人参,麝香(じやこう),紅花などのほか,宋の絹織物や典籍であった。

 高麗とモンゴルとの抗争が始まるころから,朝鮮半島南部の海域では,しばしば日本の松浦地方や対馬島の人々の海賊行為がみられるようになった。高麗ではモンゴル軍の朝鮮半島制圧を機に三別抄の軍が蜂起したが,彼らの一部は日本に援助をもとめる使者を送ってきた。高麗を圧服させたモンゴルのフビライ(世祖)は,高麗人趙彝(ちようい)のすすめに従って日本に使者を派遣することにし,1266年(高麗元宗7・元至元3・文永3)に使者黒的(こくてき)・殷弘(いんこう)を任命した。黒的らは巨済島まで至ったが日本には渡らずにひきかえし,日本との交渉は不可能であると復命した。しかし,フビライは日本との交渉を継続させ,高麗ではこれをうけて潘阜らを日本に送ってモンゴルと高麗の国書を日本に伝えることにし,彼らは1268年に大宰府に到着した。こののちフビライは,日本招諭の使者をしきりに派遣したが,高麗は日・元間にあって,その衝突を不発におわらせようと努力し,フビライの日本征伐計画を阻止できないことを知ると,ことごとに高麗の安全をはかることに努めた。しかし,これらの努力は水泡に帰し,1274年(高麗元宗15・元至元11・文永11)には元および元に徴発された高麗軍による第1次日本遠征(文永の役)が決行された。さらに,1281年(高麗忠烈王7・元至元18・弘安4)におこなわれた第2次日本遠征(弘安の役)においても,高麗軍はその一翼をになったが,軍兵7592人におよぶ大被害をうけた。

 1350年(高麗忠定王2・正平5・観応1)以後には,倭寇が朝鮮半島沿岸の各地を襲撃し,官米や人民を略取したが,その惨害は年とともに増大した。高麗では武力をもってこれに対抗する一方,外交折衝によってこれを鎮圧しようとはかった。1366年(高麗恭愍王15・正平21・貞治5)に室町幕府に使者がきたのをはじめとし,辛禑王の時代には1375年(高麗辛禑王1・天授1・永和1)以後5回にわたって使節が来日し,大きな成果があった。高麗ではまた対馬島攻撃の決行,倭寇の懐柔など種々の対策をとったが,それらが実をあげぬうちに高麗王朝は倒壊し,その倭寇対策は朝鮮王朝の創建者李成桂にうけつがれた。
モンゴル襲来 →倭寇
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百科事典マイペディア 「高麗」の意味・わかりやすい解説

高麗【こうらい】

(1)朝鮮の王朝(918年―1392年)。王建が建国。開城を都とし,936年半島を統一。朝鮮史上はじめての統一国家であり,英語のKoreaは高麗(コリョ)の転訛による名称である。唐制にならい,貴族官人の支配が続いたが,12世紀後半には武人の勢力が高まり,貴族を倒して政権を握る(武人政権)。その間,の侵入を受けたが,1231年よりモンゴル軍の侵入が始まり,全土を踏みにじられる。政府は江華島に移って抵抗,三別抄軍の抗戦もあったが,1270年ついに降伏して元の属国となり,日本遠征(文永・弘安の役)への助力など,重圧に苦しんだ。14世紀には倭寇(わこう)の害が激しく,国力いよいよ衰退。元が倒れ明が興るや,李成桂が立って国王を廃して李朝を興し,計34代475年で滅亡。仏教を厚く保護し,高麗版大蔵経(海印寺に現存)を刊行。印刷術や陶磁業が大いに発展した。美術工芸では宋・元の影響を受けて技術面の発達が著しく,特に象嵌(ぞうがん)の技術が進み,有名な象嵌青磁をはじめ金工,漆工でも象嵌ですぐれたものが多い。仏教関係の起塔造像が盛んだったといわれるが,遺品はほとんどなく,浮石寺無量寿殿などの建築,開心寺址石塔などの石塔が残っている。(2)高句麗(こうくり)の別名。
→関連項目グスクグユク高麗三国遺事三国史記三国時代(朝鮮)新羅朝鮮朝鮮語朝鮮人刀伊の入寇

高麗【こま】

高句麗(こうくり)の別称。また,高麗(こうらい)の別称としても用いられる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高麗」の意味・わかりやすい解説

高麗
こうらい
Koryǒ

朝鮮,統一新羅と朝鮮王朝 (李朝) との間の王朝名,国名 (918~1392) 。始祖の名を取って王氏高麗ともいう。新羅末期各地に豪族が起ったが,開京に拠って建国した王建は天授 18 (935) 年新羅を降伏させ,翌年,後百済 (こうひゃくさい) を滅ぼし,朝鮮半島のほぼ全域を掌握した。 10世紀末頃の成宗時代には政治の基礎も固まった。しかし固定し貴族化した官人層は互いに派閥を形成し,反乱が相次いだ。この間に外には契丹女真の圧力が加わり,特に契丹軍は一時王都を陥落させたこともある。こうした内外の政情は次第に武人の勢力を高め,なかでも崔氏一族は国王の権威をしのぐほどの有力者になった。王氏政権が武人崔氏によって左右されていた頃,侵入したのがモンゴル軍であった。高麗朝は高宗 19 (1232) 年,崔氏のすすめによって江華島に都を移したが,モンゴル軍は朝鮮全土を侵略したので,国王はやむなく降伏し,以後元の属国となった。 14世紀後半,中国で朱元璋 (洪武帝) が明を建てると,モンゴル人は北に逃れたが,なお北元と称した。高麗朝でも親元派,親明派の2派が対立した。このとき親明派の李成桂は有名な「威化島の回軍」というクーデターを行なって王都に帰り,やがて恭譲王に代り太祖1 (1392) 年開京で即位し,李氏朝鮮,すなわち朝鮮王朝が成立,高麗は滅亡した。高麗の社会上の問題は貴族や武人支配層による大土地所有の進行,すなわち荘園化とその対策で,それは朝鮮王朝の田制改革まで持越された。また中国から科挙制を導入したが事実上は文武高官の家柄が支配的で,次代のヤンバン (両班)制の基礎となった。高麗の文化としては仏教が国教の待遇を受け,庶民にまで行き渡った。特にモンゴル軍襲来の頃,大蔵経開板を行なったことは有名で,その板木は海印寺に現存して朝鮮の代表的文化遺産となっている (→高麗板大蔵経 ) 。また高麗末頃にすでにヨーロッパに先んじて活字がつくられていたという説もある。さらに陶磁器も宋の製法を取入れながら,上質の陶土と相まって高麗独自の象眼青磁や白磁が主として中部,南部の窯場でつくられ,その現存の逸品は世界的に名高い。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「高麗」の解説

高麗(こうらい)
Ko-ry&obreve;

918~1392

朝鮮の王朝。918年王建が建国。都は開城(開京)。新羅,後百済(こうひゃくさい)を併せて936年半島を統一した。国初は新羅の諸制度を受けついだが,やがて唐制にならって,6代成宗(在位981~997)のとき官制,地方行政制度などを改編し,以後12世紀前半までが高麗の全盛期とされる。対外的には中国五代諸王朝および宋と通交し,西北朝鮮に長城を築いて(11世紀前半),契丹(きったん)女真(じょしん)の侵入に備えた。しかし王室に寄生する官僚支配体制は地方分離の傾向を強め,また族党間の争いを起こし,武人が台頭して12世紀末に崔氏(さいし)の武人政権が成立した。1231年モンゴルが侵入し,政府は江華島に拠って抵抗したが,崔氏政権の没落後,降伏して属国となり,の日本遠征の基地としての重圧を受けた。14世紀に入って倭寇(わこう)の害が激しく,国力がさらに衰えたとき,元が倒れが興った。1392年,国際関係の変動のなかで親明派の武将李成桂(りせいけい)が国王を廃し,高麗は34代475年で滅んだ。高麗の文物には唐,宋,元の影響が強い。仏教は国初以来保護を受け,特に禅宗諸派が興隆し,高麗版『大蔵経』(だいぞうきょう)が刊行された。工芸品では高麗青磁が名高い。

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旺文社世界史事典 三訂版 「高麗」の解説

高麗
こうらい

918〜1392
朝鮮の王朝。現在の朝鮮をさす英語のKoreaはこれに由来する
新羅 (しんら) 末期の動乱を統一した豪族王建は,高麗の太祖と称し,都を開城に定めた。936年に全土を統一,唐にならって制度の改革を行い,豪族の子弟から選ばれた官人が支配的地位を占めて貴族化した。重い租税にあえぐ民衆の不満は兵士に反映し,さらに文官貴族の下積みとなって冷遇されていた武臣に伝わり,第18代毅宗の1170年,武官の反乱が起こり,崔氏政権が成立した。高麗は11世紀初めから北方の契丹・女真の侵略に苦しんだが,1231年に始まるモンゴルの侵入は二十数年にわたり,ついに1259年元に降伏し,元の日本遠征の負担を負った。14世紀には倭寇 (わこう) がほとんど全国の沿岸地方を侵し,1392年李成桂によって滅ぼされた。文化的には仏教が盛んで,高麗版大蔵経や高麗青磁が有名である。また金属活字による印刷術は世界最古といわれる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高麗」の解説

高麗
こうらい

朝鮮半島の王朝(918~1392)。都は開城。新羅(しらぎ)の末期,地方豪族の王建(おうけん)が建国。新羅を併合後,各地の豪族をしだいに統合し,唐・宋の制度をとりいれて集権的官僚国家の建設をめざした。契丹(きったん)・女真(じょしん)・モンゴルのたび重なる侵入をうけ,これらと宋との間に立って外交関係に苦慮するなかで,1170年武人政権が成立。13世紀後半にはモンゴルの支配下に入った。日本とはおもに私的な通交貿易が行われたが,元のフビライの日本遠征ではその基地となり,軍事・経済上の莫大な負担を負った。14世紀以後,倭寇(わこう)や中国からの紅巾(こうきん)の賊の侵入などで疲弊。中国で明が勢力を伸ばすと,高麗では親明・親元の2派が抗争,そのなかから武人李成桂(りせいけい)が,親明派の新興官僚の協力をうけて即位,李氏朝鮮が成立し高麗は滅亡した。仏教が栄え,青磁・大蔵経が著名。

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旺文社日本史事典 三訂版 「高麗」の解説

高麗
こうらい

朝鮮の王朝(918〜1392)
918年新羅 (しらぎ) に代わって王建(太祖)が建国。都は開城。11世紀ごろ全盛期を迎える。のち武官の反乱がおこり武人政権が成立したが,13世紀には蒙古の侵入をうけ,元の属国となった。元寇の際には元軍に加わり日本に来襲。その後倭寇の侵略に苦しみ,明が建国するとまもなく李成桂によって滅ぼされた。

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普及版 字通 「高麗」の読み・字形・画数・意味

【高麗】こうれい

高く美麗。

字通「高」の項目を見る

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動植物名よみかた辞典 普及版 「高麗」の解説

高麗 (コウライ)

植物。イネ科の一年草,園芸植物,薬用植物。トウモロコシの別称

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世界大百科事典(旧版)内の高麗の言及

【高句麗】より

…前1世紀後半~668年。別名は句麗,高麗,貉,穢貉,貊,狛などと書き,〈こうらい〉〈こま〉ともよぶ。高句麗の建国年次は,《三国史記》によれば前37年のこととし,このころから鴨緑江の支流佟佳江の流域を中心に,小国の連合ないしは統合が行われた。…

【高麗】より

…918‐1392年(図)。かつて日本では高句麗とともに高麗を〈こま〉と呼んだ。英語のKoreaは高麗の朝鮮語音コリョのなまったものである。…

【境】より

…(1)海中の島や岩などの目標物を境として漁場の範囲を示す場合,(2)水面の面積や陸からの距離の計測による場合,(3)いわゆる〈山アテ〉や〈見通し〉のように陸上の目標物によって境界線を定める場合,(4)海路(うなじ)(沖合を通る航路)を境界線とする場合,(5)湖とか湾の真ん中を境とする場合,の五つの基本的な方法によって漁場の境が決められたようである。 以上のようなさまざまな境に対して,日本の国土・領域の境界はどのように意識されていたのかといえば,《妙本寺本曾我物語》などにみられるように,日本国の〈四至〉は,南限は熊野,北限は佐渡嶋,東限はアクル・津軽・蛮(へそ)嶋(夷島(えぞがしま)=北海道),西限は鬼界・高麗・硫黄嶋であると観念されていた。これはもちろん観念上のことであり,鎌倉幕府の軍事・警察権が高麗(朝鮮)にまで及んでいたわけではけっしてない。…

【高句麗】より

…前1世紀後半~668年。別名は句麗,高麗,貉,穢貉,貊,狛などと書き,〈こうらい〉〈こま〉ともよぶ。高句麗の建国年次は,《三国史記》によれば前37年のこととし,このころから鴨緑江の支流佟佳江の流域を中心に,小国の連合ないしは統合が行われた。…

【境】より

…(1)海中の島や岩などの目標物を境として漁場の範囲を示す場合,(2)水面の面積や陸からの距離の計測による場合,(3)いわゆる〈山アテ〉や〈見通し〉のように陸上の目標物によって境界線を定める場合,(4)海路(うなじ)(沖合を通る航路)を境界線とする場合,(5)湖とか湾の真ん中を境とする場合,の五つの基本的な方法によって漁場の境が決められたようである。 以上のようなさまざまな境に対して,日本の国土・領域の境界はどのように意識されていたのかといえば,《妙本寺本曾我物語》などにみられるように,日本国の〈四至〉は,南限は熊野,北限は佐渡嶋,東限はアクル・津軽・蛮(へそ)嶋(夷島(えぞがしま)=北海道),西限は鬼界・高麗・硫黄嶋であると観念されていた。これはもちろん観念上のことであり,鎌倉幕府の軍事・警察権が高麗(朝鮮)にまで及んでいたわけではけっしてない。…

【朝鮮】より

…李朝時代の学者,李瀷(りよく)は朝は東方,鮮は鮮卑族の意と解釈した。英語のKoreaは高麗の発音(Koryŏ)からきたもので,世界にまたがる大帝国を築いた元が伝えたものであろう。なお,朝鮮の異称や雅号として,〈三千里錦繡江山〉(南北が3000朝鮮里に及ぶ),〈槿域〉(ムクゲの花が咲くところ),〈青丘〉,〈鶏林〉(もとは新羅の異称),〈韓〉〈海東〉などがある。…

【対馬島】より

…その後南北朝の内乱に乗じて宗氏は実質的な支配権を手中にし,末期には守護に昇格した。 この時期は日本・高麗間に国交はなかったが,1019年刀伊の入寇を契機に,九州や壱岐,対馬から貿易船が通うようになった。モンゴル襲来後この貿易は断絶,さらに高麗の弱体化と南北朝内乱などの原因が重なり,1350年(正平5∥観応1)以後,大規模な倭寇が高麗沿岸から中国遼東半島を襲った。…

【律令格式】より

…9世紀以降,新羅の王権が衰退すると,律令体制もしだいに弱体化した。 高麗時代もまた律令編纂を明示する史料がなく,唐律令の借用説さえある。しかし,《高麗史》刑法志には高麗律(実質は律令)が,約100条も伝えられている。…

※「高麗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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