江戸時代の大坂市中をさす呼称。元来は元和五年(一六一九)に設置された町方組織である北組・南組・天満組の三組をまとめていう場合の呼称であったが(大坂濫觴書一件)、それが地域名称としても使用されたものである。天保一四年(一八四三)の町触(「大阪市史」所収)には「大坂三郷・兵庫・西之宮」「三郷并兵庫・西之宮」とあって、大坂三郷または三郷が兵庫や西之宮同様地域名称として使われている。明治二年(一八六九)五月、三郷の制に替えて四大組制が採用されて以後、市域の変動および拡張などもあって三郷という表現は姿を消した。なお、町人居住地の周辺にあった寺屋敷(寺町)・武家屋敷地は三郷内には含まれず、これらを含む場合の地域名称としては大坂がふさわしいが、ここでは周辺地域をも含んで言及する。
古くは古代
大坂の直接的な成立は、豊臣政権の城下町として建設されたことに始まる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
…さらに木綿,酒造,油絞り,染物,薬種などの工業生産と商品流通が在郷町において発達した。大坂三郷はかかる摂河泉地方の中心都市であると同時に,諸国の蔵米,国産物をはじめとする全国物資の集散地,各種問屋,金融業,問屋制家内工業の集積する商工業都市であり,〈天下の台所〉であった。懐徳堂,適塾,含翠堂による学問,俳諧,浄瑠璃,小説などの上方文化も隆盛をみた。…
… 1583年(天正11)の豊臣(羽柴)秀吉による大坂城築城と城下町経営は,現代都市の直接の前身をなす都市建設であった。上町台地北部と微高地の砂州地形を巧みに利用し,北組,南組,天満組からなる大坂三郷の市街地が,数多くの堀川の掘削と河川改修を進めて整備された。〈出船千艘,入船千艘〉と評された大坂は,淀川琵琶湖水運と瀬戸内水運の結節点をなして,全国の流通経済の中心となった。…
…元和・寛永期(1615‐1644)には道頓堀川,京町堀川,江戸堀川,海部堀(かいふぼり)川ほかが掘られ,100余の橋で結ばれる大都市としての基礎が固まった。町は元和ごろ北組と南組に分かれ,承応(1652‐55)ごろに天満組ができて,大坂三郷と総称されるようになった。三郷の町人人口は18世紀中ごろ40万を越えた。…
※「大坂三郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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