尊王攘夷運動(読み)そんのうじょういうんどう

改訂新版 世界大百科事典 「尊王攘夷運動」の意味・わかりやすい解説

尊王攘夷運動 (そんのうじょういうんどう)

天皇を尊び外夷をしりぞけることをスローガンに掲げ,幕府政治を批判の対象とした,江戸末期の政治運動。下級武士や少壮公卿らが主たる担い手であった。

尊王も攘夷も,幕藩体制に本来そなわった考え方であるが,幕末に外国船の来航が多くなり,鎖国の維持が危うくなったとき,幕藩体制の秩序を再強化するための政治理論として,尊王攘夷論が登場した。その支柱となったのは,徳川斉昭や藤田東湖が唱えた後期水戸学であった。この尊王攘夷論にもとづく政治運動,すなわち尊王攘夷運動が台頭したのは,1858年(安政5)日米修好通商条約をめぐる条約勅許問題と,将軍継嗣問題とが政局の表面に浮かび上がった時期からである。ハリスと条約案を議了した幕府は同年初め,条約の勅許を得るために老中堀田正睦を上京させた。朝廷は攘夷を主張した多数の公卿の意見をいれて,幕府の要請を拒絶した。これら公卿に,条約勅許がおこなわれないように説いたのは,将軍徳川家定の継嗣問題で井伊直弼と対立していた徳川斉昭,松平慶永(よしなが)など一橋派の雄藩大名であった。4月大老となった井伊は,6月には勅許を得られないまま条約に調印し,ついで将軍継嗣を紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))と定めた。継嗣問題で敗れた斉昭や慶永は,井伊を失脚させるため違勅調印の責任を厳しく追及した。井伊の行為は尊王にも攘夷にも反する,というのが斉昭らの主張であった。これをきっかけに,水戸藩士をはじめ尊攘思想をもっていた志士や公卿が,いっせいに井伊の条約調印非難の運動をはじめ,やがて彼らがその中心となった。尊王攘夷は,もろもろのおもわくをもっておこなわれている諸運動を,幕政批判という点で一つに結集しうる理念であった。

 尊攘運動に対する井伊の弾圧は安政の大獄であったが,これはかえって運動を激化させる結果となった。大獄の報復として60年(万延1)3月,尊攘派の水戸浪士らは井伊を桜田門外に殺害した。井伊の死後,幕府は和宮の将軍家茂への降嫁の発表や,両港(兵庫,新潟)・両都(江戸,大坂)の開港開市の延期交渉を諸外国とはじめるなど,尊攘運動の鎮静化をはかった。しかし,さしたる効果を生まず,60年12月のアメリカ通訳官ヒュースケンの殺害,61年(文久1)5月の水戸藩士による東禅寺のイギリス公使館襲撃などを代表例とする外国人殺傷事件が多発し,62年1月には,公武合体策の推進者であった老中安藤信正が坂下門外で水戸浪士に襲われて負傷し,老中を辞した。

62年になると薩摩,長州,土佐の藩内にも尊攘派の勢力が強まり,これら3藩の志士は京都へ上り,実質上,朝廷の意思を左右するようになった。当時の尊攘派の理論的リーダーであった真木和泉をはじめ,平野国臣清川八郎,田中河内介,有馬新七,田中謙助らが代表的な志士であった。同年3月,尊攘派の声望の高かった島津久光が,兵を率いて京都へ入った。しかし彼は,幕政改革を通じて幕府を攘夷へ向かわせようという立場であったので,急進的な攘夷には反対し,尊攘挙兵を企てた有馬らを,4月,伏見の寺田屋で斬った。ついで5月,久光は勅使大原重徳(しげとみ)を奉じて江戸へ下り,幕府に攘夷貫徹のための幕政改革の実施を約束させた。ところが,この東下中に,京都では久坂玄瑞(くさかげんずい)・桂小五郎などの志士,三条実美(さねとみ)・姉小路公知(きんとも)などの公卿が中心となり,再び急進的な尊攘論が支配的となった。このため,京都へ戻った久光はなすすべもなく帰国し,同年後半には天誅(てんちゆう)の名の下に佐幕派へのテロが横行した。10月,三条実美は幕府に攘夷の実行を促すための再度の勅使として,江戸へ赴いた。幕府はこの勅命に従うことを決定し,63年(文久3)将軍家茂は攘夷の上奏のために京都へ上り,3月,二条城に入った。この間朝廷では,長州藩尊攘派に支持された少壮公卿が,新設された国事御用掛,国事参政,国事寄人など朝廷の意思を決定する機関の主導権を握り,朝議を攘夷決行の方向に導いた。孝明天皇の賀茂社,石清水社への攘夷祈願の行幸も,このような状況の中でおこなわれた。家茂は結局,63年5月10日から攘夷を実行する旨を,朝廷に誓約せざるをえなかった。5月10日になると,長州藩は下関で外国船を砲撃した。しかし幕府は依然として攘夷を実行しなかったので,尊攘派は天皇に圧力をかけた。その結果,攘夷親征のために大和行幸をおこなうとの詔勅が,8月13日に出た。

このような急進的な長州藩尊攘派に対する公武合体派の巻返しが,〈文久3年8月18日の政変〉である。孝明天皇と朝彦親王が計画し,薩摩・会津両藩が支援したこのクーデタで,長州藩尊攘派とそれに同調する公卿は京都を追われた。尊攘派は,政変と時を同じくして大和五条に,10月には生野に挙兵したが,直ちに鎮圧された。8月18日の政変を境に,尊王攘夷運動は中央政局への影響力を失ってしまったのである。京都での勢力回復を目ざした長州藩は,翌64年(元治1)7月,禁門の変を戦って敗れ,ここに尊王攘夷運動はその政治的生命を絶たれた。尊攘派の拠点であった長州藩自体が,朝敵となって尊王の大義名分を失ったうえに,禁門の変の直後の8月に,4国連合艦隊の下関砲撃を受けて,攘夷に現実性がないことを実地に体験したからである。尊王攘夷運動は,外国と条約を結んだ幕府を批判しつつ,幕藩体制を旧来の姿に保つことを目的とした政治運動であったが,64年の後半からは,これに代わって,幕藩権力の頂点に立つ幕府を倒そうとする倒幕運動がおこった。その拠点もまた長州藩であった。
攘夷論 →尊王論
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百科事典マイペディア 「尊王攘夷運動」の意味・わかりやすい解説

尊王攘夷運動【そんのうじょういうんどう】

幕末の反幕府運動。尊王論攘夷論とは本来別の系譜に属する思想であったが,19世紀に入って幕藩体制の動揺と外圧の増大により両者は結合し,後期水戸学のように尊王攘夷を幕藩体制再強化の方法とする政治理論となって広く下級武士や豪農の間にまで浸透していった。1854年幕府は日米和親条約締結を余儀なくされ,さらに日米修好通商条約の締結を迫られ,1858年条約調印の許可を朝廷に求めた。朝廷は鎖国を支持し攘夷の意向を示したので幕府は窮したが(条約勅許問題),大老に就任した井伊直弼(なおすけ)は勅許を得ずに調印を断行し,批判者に対しては安政の大獄の弾圧を加えた。ここに反対派は尊王と攘夷のスローガンの下に結集し,尊王攘夷運動が井伊専制反対運動として展開し始めた。1860年井伊暗殺後,幕政は積極的に朝廷権威と結びつこうとする公武合体策に転換し,一方,雄藩大名の間からも幕政改革をめざした公武合体運動が生まれてくると,尊王攘夷はいずれの勢力にとっても政治的スローガンとなった。打毀(うちこわし)や百姓一揆(いっき)などが激化し,外国勢力の圧力が強まるなかで特に下級武士層の間に危機意識が深まり,尊王攘夷運動は妥協的な公武合体運動に対立してテロ行為を含む過激な朝廷権力の復活運動として展開された。幕府打倒をめざす武力蜂起(ほうき)計画が生まれる段階に入ると,鹿児島藩を中心とする公武合体派は文久3年8月18日の政変で朝廷を掌握し尊攘派を京都から追放する。大義名分を失った尊攘派は十津川(とつかわ)の変生野(いくの)の変禁門の変と,いずれも失敗。尊攘派の中心長州藩が朝敵とされるに及んで尊王攘夷運動は挫折するが,薩英戦争馬関戦争で近代的軍事力の威力を知った従来の公武合体派や尊攘派の内部から次第に,封建的排外主義を捨て積極的開国による富国強兵をめざす新しい反幕府勢力が生まれ,薩長同盟が結ばれて,反幕府運動は倒幕運動として新たに展開した。→イギリス公使館焼打事件
→関連項目会沢正志斎奥村五百子開国(日本史)学習院熊本藩国学(近世)西郷隆盛佐幕派天皇日本萩藩藤田幽谷復古神道文久の改革山県有朋

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「尊王攘夷運動」の意味・わかりやすい解説

尊王攘夷運動
そんのうじょういうんどう

江戸幕府の外交政策と専制体制を批判、反対した幕末の政治運動。

遠山茂樹

本来の性格

身分制度の最頂点に位する天皇の伝統的権威の尊重を説く尊王思想、および自国を道徳文化の優れた中華(ちゅうか)として尊び、外国とくに東洋文化と異質の文化をもつ欧米諸国を道徳の劣った野蛮の国、夷狄(いてき)と卑しめ、その排撃を説く攘夷思想は、ともに封建思想であり、江戸時代を通じて存在した。しかしこの二つの思想が結合し、幕府政治の改革と統一国家の樹立を求める政治運動という性格をもつに至ったのが、幕末の尊王攘夷論の特色であった。百姓一揆(いっき)が激発し、大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱が起こって、幕府と藩の支配の動揺が深刻となる一方、中国でのアヘン戦争の報道が伝わり、外国船の来航が相次いで、欧米諸国の侵略への危機感が高まった1840年代の天保(てんぽう)期に、水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)の下で、藤田東湖(ふじたとうこ)・会沢正志斎(あいざわせいしさい)らの儒学者が唱えた水戸学は、内憂外患の迫る危機を克服する方策として、尊王攘夷論を強調し、全国の武士層に大きな思想的影響を与えた。将軍が率先して天皇尊崇の実を示せば、大名・藩士・人民は将軍・大名を敬し服従するようになると説き、また攘夷を対外策の基本理念とすることにより、武士の志気を振起しようと図った。要するに幕藩制の立て直しを目的としたもので、その秩序を超える政治運動ではなかった。

[遠山茂樹]

改革運動への発展

1853年(嘉永6)アメリカ使節ペリーが来航し開国を要求すると、幕府は、鎖国制度を維持したい本心をもちながら、アメリカ艦隊の武力に対抗する自信をもたないため、翌年やむなく日米和親条約を結んだ。これが全国の武士層の不満を巻き起こし、攘夷論は彼らを幕閣批判の行動へ駆り立てる力となった。本来幕府政治への発言を許されぬ下級藩士も、この対外危機の切迫に対し、言論の道を開き、家柄の高下にかかわりなく人材を登用せよと主張した。また攘夷実行の軍備充実のため、幕政・藩政を改革せよと説いた。幕藩制の矛盾を切実に感じていた下級武士が、秩序の制約を踏み越えて政治発言をし、政治行動を行う際、盾とした理念が尊王論であった。

 1858年(安政5)、アメリカ総領事ハリスの強請に屈した幕府は、通商条約の締結を決意し、武士層内部の対立する対外意見を協調させるため、条約の勅許を朝廷に求めた。これに対し徳川斉昭をはじめ攘夷を主張する大名や藩士・浪人は、公卿(くぎょう)を動かし、勅許を阻止しようと働きかけた。他方で幕閣の改革を意図する薩摩(さつま)藩主島津斉彬(しまづなりあきら)、越前(えちぜん)藩主松平慶永(まつだいらよしなが)は、病弱の将軍家定(いえさだ)の跡継ぎに一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)(斉昭の子)をたてようと図り、これまた勅旨を得てその実現を図るべく、腹心の西郷隆盛(さいごうたかもり)・橋本左内(はしもとさない)を京都に派遣して、公卿を説いた。こうして天皇と公卿は、政局の焦点にたつこととなった。この情勢をみた大老井伊直弼(いいなおすけ)(彦根(ひこね)藩主)は、勅許なしに日米修好通商条約に調印し、将軍の跡継ぎを紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))に決定し、攘夷派・一橋擁立派の大名・藩士・幕臣・浪人と公卿を処罰する安政(あんせい)の大獄を断行した。このため、開国に反対し、大老の違勅の罪を責める尊王攘夷運動は、幕閣の専制を非難する運動となり、諸藩の下級藩士だけでなく、郷士・地主・商人の子弟までも巻き込む全国的な規模に拡大した。尊王攘夷派は、1860年(万延1)井伊大老を殺し(桜田門外の変)、1862年(文久2)には老中安藤信正(あんどうのぶまさ)(信睦(のぶゆき)、信行)を襲って負傷させ(坂下門外の変)、さらに京都で幕吏や佐幕派公卿の家臣にテロ行為を加え、京都政局を支配するまでになった。薩摩・長州・土佐の外様(とざま)大藩は、この情況を利用し、自藩の政治発言力を強めるために、幕政改革ないし攘夷実行を幕府に求める勅旨を申し受ける運動を競い合い成功した。

 1863年(文久3)長州藩攘夷派は、公卿三条実美(さんじょうさねとみ)らと結び、攘夷実行を迫る勅諚(ちょくじょう)を出させ、さらに天皇の親征、すなわち天皇の諸藩軍隊指揮権の掌握、さらには王政復古をもくろんだ。しかし孝明(こうめい)天皇や上層公卿は、攘夷は希望するが倒幕には反対であり、薩摩藩、会津藩と結んで、八月十八日の政変を起こし、長州藩兵と攘夷強硬派の公卿を京都から追放した。1863年の薩摩藩とイギリス艦隊との戦い(薩英戦争)、翌年のイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊と長州藩との戦い(四国連合艦隊下関(しものせき)砲撃事件)の経験によって、攘夷派は、攘夷即時実行の不可能を悟った。ここに尊王と攘夷を旗印とする政治運動は、尊王の面でも攘夷の面でも、その性格を転換せざるをえなくなった。討幕運動はその転換のなかから生まれた。

[遠山茂樹]

『遠山茂樹著『明治維新』(1951・岩波書店)』『井上清著『日本現代史1』(1951・東京大学出版会)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「尊王攘夷運動」の意味・わかりやすい解説

尊王攘夷運動
そんのうじょういうんどう

江戸時代末期に展開された反幕排外運動。その思想的基盤となったのは,藤田東湖会沢安 (正志斎) らが唱えた水戸学である。幕府は安政1 (1854) 年,日米和親条約に調印し,その批准を朝廷に求めた。海外事情にうとい朝廷は,攘夷論の拠点であった水戸藩の働きかけもあって勅許を与えなかった。他方,はなはだしく貧困化し幕政への不満をつのらせていた諸藩の下級武士層は,夷狄 (いてき) として排斥すべき西洋諸国の圧力に屈して,幕府が国交を開くのをみて憤激した。同5年おりから将軍継嗣問題で紛糾していた幕府は,井伊直弼が大老に就任し,勅許を待たずに反対派を押切って日米通商条約に調印,次いで安政の大獄を断行した。外国貿易に伴う物価騰貴によって生活がさらに圧迫された下級武士層は,以後朝廷の尊攘派公家と結んで活発な攘夷運動を展開していく。諸藩でも,初め水戸藩,次いで長州藩が藩論として尊攘を掲げ,攘夷親征の挙が宣言されるにいたったが,文久三年八月十八日の政変公武合体派に敗れたこと,鹿児島,下関における四国艦隊との交戦 (→四国艦隊下関砲撃事件 ) を通じて攘夷の無謀さが認識されたことなどの理由で,攘夷運動は急速に衰退し,以後は尊王倒幕の方向をとって展開され,明治維新の原動力となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「尊王攘夷運動」の解説

尊王攘夷運動
そんのうじょういうんどう

幕末の開港前後から尊王・攘夷を掲げ,幕府の専制と開国政策を批判し行動した政治運動。1858年(安政5)の日米修好通商条約調印をめぐり,違勅に対する尊王論,条約締結に反対する攘夷論が結びつき,大老井伊直弼(なおすけ)への反対運動のスローガンとなった。当初は反幕府ではなかったが,外圧の深化と和宮降嫁問題を契機として,63年(文久3)以降公武合体運動との対立のなかで反幕府の色彩を強めた。朝廷内にも尊攘勢力が伸張し,中・下級士族や豪農商層・神官・国学者からも尊攘運動に入る者が多出した。一時期京都で尊攘派が主導権をにぎったが,8月18日の政変により公武合体派が巻き返し,尊攘派公卿は萩藩内に追われた。その後,63~64年の薩英戦争,四国連合艦隊の下関砲撃事件,禁門の変で尊攘運動は質的転換をとげ,公武合体運動との対決・止揚のなかから討幕派が登場する。

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旺文社日本史事典 三訂版 「尊王攘夷運動」の解説

尊王攘夷運動
そんのうじょういうんどう

幕末,尊王論と攘夷論が結びついた反幕的・排外的政治運動
幕末に,外国勢力の圧迫のもとに封建制度の危機が意識されると,封建的排外主義の攘夷運動が芽ばえ,尊王論と結合。初めは弱い運動であったが,開国の結果,物価が騰貴すると,下級武士を中心に極端な排外運動を含む政治運動がおこった。桜田門外の変(1860)以後各地の尊攘派志士は結合し,公武合体運動と抗争しつつ高揚をみせ,生麦事件や反対派の暗殺などがおこった。'63(文久3)年八月十八日の政変でいったん挫折。翌年禁門の変で徹底的な敗北をうけ,薩英戦争・下関事件で外国勢力との武力衝突の無謀さと攘夷の不可能が明白となると,以後尊王攘夷運動は,現状打開,幕政批判,討幕運動として展開していった。

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世界大百科事典(旧版)内の尊王攘夷運動の言及

【開国】より

…メキシコ・ドルの流入・金貨流出にともなう幣制の混乱とかさなったこの綿製品や砂糖の大量流入のなかで,国内各地の広範な綿業や糖業など商業的農業・農村手工業は打撃をうけて衰退し,物価急騰と経済の混乱,各地民衆の生活破綻にともなう社会不安もまた未曾有となった。
[倒幕の発端]
 開国とともに,これに反発する尊王攘夷運動も,当初はおもに封建的な理念にもとづいた下級武士層のそれが中心であった。しかし,まずは条約の違勅調印と反対派弾圧をあえて行った大老井伊直弼や対外屈従の幕閣たちへの襲撃,外国の外交官や外国人への襲撃を主としていた尊王攘夷運動も,かかる国民的な苦難を背景として徐々に反幕・倒幕運動に展開しはじめた。…

【明治維新】より

…こうした状況下に,後期水戸学などの影響もあって,〈夷狄(いてき)〉への危機意識や幕藩体制の矛盾を敏感にうけとめた中・下層の武士層は,自覚的な地主・豪農層をも巻き込み,幕府の違勅調印に対しては〈尊王〉を,開国政策に対しては〈攘夷〉のスローガンを掲げて対抗した。ここに儒教的名分論としての〈尊王論〉と〈攘夷論〉とは結合し,尊王攘夷運動の展開となった。この尊攘運動の主体は,運動の進展とともにいっそう下降し,また,個人的術策から集団的行動へと形態も変化した。…

※「尊王攘夷運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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