百科事典マイペディア「四天王寺」の解説
四天王寺【してんのうじ】
→関連項目大阪[市]|貝寄風|画像【せん】|熊野街道|聖徳太子|太子伝|天王寺|天王寺[区]|中村岳陵|若草伽藍跡|渡辺津
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…鳳凰堂は当時〈極楽いぶかしくば,宇治の御寺を敬へ〉と歌われていた。また四天王寺の西門が,難波の海を隔てて,極楽浄土の東門の中心に当たると考えられ,彼岸の中日には落日のかなたに極楽が望まれると信じられた。四天王寺の西方海上で死ぬと,直ちに極楽に往生できると思い,投身入海するものもあった。…
…百済では公州と扶余に寺院址を残し,遺構には扶余定林寺址五重石塔,益山弥勒寺址多層石塔がある。伽藍配置は中門,塔,金堂,講堂を一直線上に置いた百済式伽藍で,日本に波及して四天王寺式伽藍と呼ばれる。定林寺址,金剛寺址,軍守里廃寺は中門と講堂を回廊で結び,金堂を囲う四天王寺式伽藍であり,弥勒寺址は回廊が金堂と講堂の中間で閉じる日本の山田寺伽藍と同形式である。…
…社会福祉【古川 孝順】
〔慈善事業の歴史〕
【日本】
[古代]
古代における慈善事業を概観すると,まず僧尼・皇族・貴族・地方官吏・豪族など個人による慈善救済活動がある。この面では,聖徳太子の四天王寺の施薬院など四院の設置ほかの事績が想起されるが,伝説的要素が強く確かなことは不明である。その点,詳細な史料の残る奈良時代の僧行基の活動は質量ともに特筆でき,後世の慈善事業に与えた影響も大きい。…
…聖徳太子の称は《懐風藻》の序文(751)が初見。初め上宮(うえのみや)に住み,後に斑鳩宮(いかるがのみや)(いまの法隆寺東院の地)に移ったというが,14,15歳のころ蘇我馬子の軍に加わって物部守屋を討ち,そのとき四天王に祈念して勝利を得たので,のちに難波に四天王寺を建立したという。《日本書紀》によれば,592年(崇峻5)11月に馬子が崇峻天皇を殺すと,翌月に推古女帝(敏達天皇皇后)が即位し,翌年(推古1)4月に太子を皇太子にして万機を摂政させたというが,この時期はまだ大兄(おおえ)の制が行われており,単一の皇位継承予定者である中国的な皇太子の制がすでに存在したかどうかは疑わしく,《日本書紀》以前に太子のことを太子と記した確かな史料もほとんどない。…
…雅楽演奏専門家(楽人,伶人,楽師などと称す)の出身系統を示す名称。大阪四天王寺所属の楽人を指す。雅楽は宮廷を中心とする伝承と,諸大寺社に擁された独自の系統があり,宮廷には平安中期ころに楽所(がくそ)が組織され,楽人は世襲された。…
…この軍勢の前に守屋は渋河の家で敗死した。以後,物部氏は衰勢に向かったが,守屋の奴と宅の半分は新たに造営されはじめた四天王寺(荒陵(あらはか)寺)の寺奴と田荘とされた。【門脇 禎二】
[伝承]
物部守屋はその後の仏教流通の世情のなかで,もっぱら〈仏法のあた〉とみなされた。…
※「四天王寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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