精選版 日本国語大辞典 「本願寺津村別院」の意味・読み・例文・類語 ほんがんじ‐つむらべついんホングヮンつむらベツヰン【本願寺津村別院】 大阪市中央区本町にある浄土真宗本願寺派の寺。慶長二年(一五九七)創立。開山は准如。本願寺天満坊舎を移し石山本願寺旧跡に擬して改築する。江戸時代、宗主巡教の寄錫(きしゃく)所として用いられ、明治元年(一八六八)明治天皇の大坂行幸、同五年の中国四国巡幸に行在所となる。古くは大坂御坊と称し、俗に北御堂と呼ばれる。津村別院。表御堂。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
日本歴史地名大系 「本願寺津村別院」の解説 本願寺津村別院ほんがんじつむらべついん 大阪府:大阪市東区津村南之町本願寺津村別院[現在地名]東区本町四丁目御堂(みどう)筋に東面する。浄土真宗本願寺派、本尊阿弥陀如来。北御堂とも称する。開基は西本願寺一世准如。天正八年(一五八〇)の石山合戦終結後、本願寺の寺基は大坂石山(いしやま)から鷺森(さぎのもり)(現和歌山市)、貝塚(かいづか)(現貝塚市)、天満(てんま)(現北区)へと移転し、同一九年京都へ移った。そこで大坂の門徒は六年間寺基があった天満に近い楼(ろう)の岸に坊舎を建立したという(津村別院誌)。慶長二年(一五九七)この坊舎を津村郷の現在地に移し、同三年准如を迎えて移徙の法会を修した(同年「大坂御坊移徙御法事記」竜谷大学蔵)。同八年准如は大坂天満門徒衆に津村坊舎修造を依頼し、同一〇年再興がなった。東は御堂前(みどうまえ)町、南は浄覚(じようかく)町、北は津村南之(つむらみなみの)町に接し(本願寺通紀)、南北四四間・東西四八間余あった。東西五三間あったともいう。当初留守居役がおかれ高山氏がこれを世襲したが、寛延年間(一七四八―五一)輪番制に移行、本山役僧が派遣された。また衣番・火番各四人、番方六人、諸講役所留守およそ二〇人ばかり(本願寺通紀)といわれたように、多数の寺僧や寺侍によって管理された。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報