大塚蒼梧(読み)おおつか・そうご

朝日日本歴史人物事典 「大塚蒼梧」の解説

大塚蒼梧

没年:享和3.6.29(1803.8.16)
生年享保16(1731)
江戸中期の有職故実家。名は嘉樹通称,市郎右衛門。字は子敏,敏卿。老邁,茅園とも号した。生国は江戸とも山城ともいわれる。初め京都で紀伝,律令を学び,滋野井公麗,高倉永範らについて有職故実を修めた。服部栗斎,黒沢雉岡らから朱子学を学び,のち江戸茅場町や駿河台に住んで学を講じた。伊勢貞丈とも親しく,切磋琢磨するところがあった。博覧強記,実証的で精緻な学風であるので,その所説は今日でも十分に通用するものが多い。

(白石良夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大塚蒼梧」の解説

大塚蒼梧 おおつか-そうご

1731-1803 江戸時代中期-後期の有職(ゆうそく)家。
享保(きょうほう)16年生まれ。京都で滋野井公麗(しげのい-きんかず)や高倉永範(ながのり)にまなび,江戸で門人におしえた。公家に関する故実,典例にくわしく,おおくの著作をのこした。享和3年6月29日死去。73歳。本姓は橘。名は嘉樹。字(あざな)は子敏,敏卿。通称は市郎右衛門。別号に茅園,駿岳。著作に「服飾正誤」「装束調度故実」など。

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