朝日日本歴史人物事典 「大森藤頼」の解説
大森藤頼
生年:生年不詳
室町・戦国時代の武将。大森氏最後の小田原城主。式部少輔,信濃守。太田道灌の謀殺などにつき主君扇谷上杉定正を諫めたことで名高い氏頼の次男。父氏頼が明応3(1494)年8月に死去したとき兄実頼はすでに死亡していたため,家督を継いで小田原城主となるが,翌4年9月,北条早雲により城を奪われた。この事件について『相州兵乱記』などは,早雲が藤頼に故意に近づき,ついには鹿狩りを口実として急襲したように伝えているが事実ではなかろう。この小田原城主の交代には,定正の没後,古河公方足利成氏が山内上杉顕定側に立ったことなど,大森氏を取り巻く情勢の変化が大きく関係していたものとみられる。また城を奪われた藤頼は真田城(平塚市)に逃れたと一般にはいわれているが,そこは上田氏の要害であり,これも事実とは思えない。同5年7月,顕定は相模の西部に攻め入り,早雲および扇谷上杉方の拠点を襲撃するが,その状況を越後守護代長尾能景に伝えた顕定書状(宇津江氏所蔵)の書きぶりでは,藤頼の居所は真田城よりも西方に位置している。その後,藤頼は甲斐に走ったとも,三浦氏を頼って新井城に逃れそこで死んだともいう。明応7(1498)年死亡説もある。情勢の変化に対応できず,家を滅ぼした武将といえようか。<参考文献>『小田原市史料』歴史編
(佐脇栄智)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報