宝久保鉄山跡(読み)ほうくぼてつざんあと

日本歴史地名大系 「宝久保鉄山跡」の解説

宝久保鉄山跡
ほうくぼてつざんあと

[現在地名]田野畑村 田野畑

江戸時代、田野畑村西方山中に開かれた鉄山。操業開始は宝暦(一七五―六四)初年。その後の経緯は不明だが、天明八年(一七八八)岩泉いわいずみ(現岩泉町)の山師中村幸蔵が盛岡藩から運転資金五〇〇両を借用して御側鉄山名義で再開、以来盛山となる。規模は蹈鞴場一・日払所一・職人小屋五・番子小屋一三・鍛冶小屋八など四五軒であり、寛政元年(一七八九)生産高は五万六千貫余で、うち鉄三万四千貫余・錬鉄二万二千貫余であった。このうち鉄二万七千貫を平潟ひらかた(現茨城県北茨城市)相馬そうま(現福島県相馬市)・江戸に移出しており、同年平潟行の三春丸は細五七二箇・五千七二〇貫。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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