宝永水府太平記(読み)ほうえいすいふたいへいき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宝永水府太平記」の意味・わかりやすい解説

宝永水府太平記
ほうえいすいふたいへいき

1708年(宝永5)暮れから翌年正月にかけて起こった水戸宝永一揆(いっき)の民間記録の一種。藤田村萩谷定右衛門(さだえもん)筆写本日立(ひたち)市大内隼男氏所蔵、『日本思想大系58』所収)が伝わる。この一揆の指導者上吉影(かみよしかげ)村(茨城県小美玉(おみたま)市)市毛(いちげ)藤衛門が闘争勝利直後にまとめた総括「御改革訴訟」に、1690年(元禄3)から宝永改革の指導者松波勘十郎(まつなみかんじゅうろう)が水戸藩に抱えられるまでの前史部分と、追放されて逮捕・獄死に至るまでのエピローグ、関連の落首とを加えたものである。常陸大宮(ひたちおおみや)市長山春代氏所蔵「宝永太平記」は、ほぼ同じものである。なお「宝永吾妻鑑(あづまかがみ)」2本、「御改革訴訟実秘録」「宝永太平記」(4点)は、1701年から記述が始まっている。「水府松並記」「水府松並評」と題する写本は、これらとは、まったく系統・内容を異にする実録文学である。

[林 基]

『林基著『「御改革訴訟」考』(『近代日本における歴史学の発達 上』所収・1976・青木書店)』『同「『水府松並記』小考」(『中村幸彦著述集』月報11号・1983・中央公論社)』

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