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松波勘十郎 まつなみ かんじゅうろう

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

松波勘十郎 まつなみ-かんじゅうろう

?-1711* 江戸時代前期-中期の財政家。
美濃(みの)(岐阜県)加納宿の庄屋松波文右衛門の養子となったが,寛文9年同家をさる。延宝7年美濃の幕府領検地に成功し,以後,大多喜藩,高岡藩,郡山(こおりやま)藩,三次(みよし)藩,棚倉藩や旗本の財政改革を指導した。宝永3年水戸藩にまねかれ運河開削などの施策と改革にあたったが,6年領民の江戸出訴のため追放される。のち捕らえられ,宝永7年11月19日水戸で獄死。本姓は奥田。名は良利。

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朝日日本歴史人物事典の解説

松波勘十郎

没年:宝永7.11.19(1711.1.7)
生年:生年不詳
江戸中期の財政家。名は良利。寛永15(1638)年ごろ美濃国加納藩領鶉村(岐阜市)の奥田家に生まれ,加納宿庄屋松波家の養子となる。美濃国の幕府の延宝検地や貞享3(1686)年の東三河での検地に際して地方巧者として頭角をあらわし,その手腕を見込まれて旗本領の検地と財政立て直しを任された。さらに元禄12(1699)年には備後三次藩,同14年ごろには陸奥棚倉藩にそれぞれ招かれて財政改革を担当。宝永3(1706)年に水戸藩に300人扶持で召し抱えられ,奉行上座の格で財政再建に当たった。すなわち役人の人員を削減して経費の節減に努めるとともに,湖沼の干拓による新田開発や,運河の掘削による河川交通の整備などの積極的施策を通じて財政収入の増加を見込んだ。これら水戸藩領の諸河川の連結を目指した運河工事の跡は,各所で「勘十郎堀」の称でその名残りをとどめている。しかし農民に対しては倍以上におよぶ年貢増徴策をとり,また河川普請の夫役に駆り出したうえその賃銭も不払いであったことから,農民たちの憤激をかった。宝永5年から翌年にかけて水戸藩領では大規模な一揆(「宝永一揆」)が勃発し,勘十郎の身柄の引き渡しが要求された。こうして同6年1月に勘十郎は水戸藩から追放され,のち捕えられて投獄され,翌7年11月に水戸赤沼の獄で死んだ。<参考文献>林基「松波勘十郎捜索」(『茨城県史研究』29号~)

(笠谷和比古)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

まつなみかんじゅうろう【松波勘十郎】

?‐1710(宝永7)
江戸中期の財政家。名は良利。美濃国加納藩領鶉村(現,岐阜市)の奥田家の出で,1658年(万治1)加納宿庄屋松波文右衛門の養子となるが,69年(寛文9)同家を去る。79年(延宝7)幕府代官の美濃国小物成(こものなり)場の検地に協力し,85‐86年(貞享2‐3)下総国匝瑳(そうさ)郡と三河国賀茂郡の旗本領で検地を担当し,ついで元禄初年には上総国大多喜,下総国高岡の2小藩の財政立直しを請け負ったという。93年(元禄6)からは大和国郡山藩の財政改革を,俳人鬼貫(おにつら)こと上島与惣兵衛と競争して勝利し,4割から8割に至るまでの租率大幅引上げを実現している。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

松波勘十郎
まつなみかんじゅうろう
(1638?―1709)

江戸中期の財政家。名は良利。美濃(みの)国加納(かのう)藩領鶉(うずら)村(岐阜市)の奥田家に生まれ、1658年(万治1)松波文右衛門(ぶんえもん)の養子となり、加納宿庄屋(しょうや)となったが、69年(寛文9)同家を去った。理由も行先も不明だが、79年(延宝7)幕府の美濃代官杉田九郎兵衛(くろべえ)に訴えて、少額の小物成(こものなり)しか徴収していなかった地域に検地を入れさせ、千数百石を超える石高(こくだか)を打ち出させている。85、86年(貞享2、3)には、下総(しもうさ)国匝瑳(そうさ)郡の松平十左衛門(じゅうざえもん)、三河国賀茂(かも)郡の鈴木市兵衛(いちべえ)という親戚(しんせき)同士の2旗本家のために次々に検地を行い、その財政立て直しに成功し、それを土台に元禄(げんろく)(1688~1704)初年には上総(かずさ)国大多喜(おおたき)(阿部伊予守(いよのかみ)正春)、下総国高岡(井上筑後守(ちくごのかみ)政敬(まさたか))の2小藩の財政立て直しを委託され、詳細不明ながら、成功したといわれる。
 1693年(元禄6)から大和(やまと)国郡山(こおりやま)藩(本多下野(しもつけ)守忠年、11万石)の委託を受け、同年の租率を一挙に5割も引き上げ、その増収分を担保に銀125貫目の追加借入れに成功する一方、藩札発行をも利用して巧みに財政を立て直した。このとき改革案をめぐる競争に敗れて去った同役上島与惣兵衛(うえじまよそべえ)は、有名な俳人鬼貫(おにつら)である。彼の郡山藩財政支配は、元禄10年代にも続くが、このころにはほかに摂津国の旗本松下彦兵衛(ひこべえ)領を引き受け、隣接の高槻(たかつき)藩(永井日向守(ひゅうがのかみ)直達(なおたつ)、3万6000石)にも招かれかけるが故障があって、彼の方策だけが利用される。さらに備後(びんご)国三次(みよし)藩(浅野土佐守長澄、5万石)、陸奥(むつ)国棚倉(たなぐら)藩(内藤紀伊守弌信(かずのぶ)、5万石)など五か領25万石余を同時に管理していたことになる。それは、京都に大事務所を構え、そこから諸領に定期的に出張、指導したからで、出張の中間期については指示書を封印して渡しておき、順次これを開いて処置させるという方式であるから、この時期にはさらに多くの関係領域がみいだされる可能性がある。
 このころに典型的なのは、たとえば三次藩でのように、租率を8割にも引き上げ、藩札を発行して、紙、鉄などの専売制を敷き、これら特産物や産米のすべてを大坂に移出することで正貨を獲得し、負債を克服するという方策で、1696年(元禄9)からの幕府の改鋳による物価騰貴が、その成功を助けたのである。
 1704年(宝永1)ごろには、出身地の加納藩に迎えられているが、06年からは常陸(ひたち)国水戸(みと)藩(35万石)に招かれる。ここでは、他藩と同様の諸政策のほかに、奥州―水戸間内陸舟運の完全水路化という一藩の枠を大きく超えた事業を計画した。これは、棚倉からの久慈(くじ)川舟運を額田(ぬかた)川の開削によって那珂(なか)川につなぎ、それから涸沼(ひぬま)を横断する舟運路を改良し、海老沢(えびさわ)―紅葉(もみじ)間の陸送部分を運河化し、北浦に出る巴(ともえ)川を浚渫(しゅんせつ)・拡幅することで、奥州の諸産物が江戸まで完全に水上輸送できるようにする大計画で、藩内外の広範な出資協力をも組織した。完成すれば運賃・通過税の膨大な収入が藩財政を救うはずであったが、07年幕府が藩札を停止したため、労賃支払いに支障をきたし、領民の江戸出訴のきっかけとなった(水戸宝永一揆(いっき))。09年正月、領民の闘争に屈した藩によって京都に追放され、財政改革事業は停止した。同年6月江戸に戻って藩に復帰を交渉中捕らえられ、偽(にせ)手紙で呼び出された2人の息子とともに水戸で獄死させられ、闇(やみ)から闇に葬られたが、それでも彼の事跡は江戸の実録文学『水府松並記(すいふまつなみき)』で、また『元正間記(げんしょうかんき)』で伝えられ、浮世草子『今川一睡(いっすい)記』では高師直(こうのもろなお)の勘定方(かんじょうかた)藤浪甚十郎(ふじなみじんじゅうろう)として反映されるのである。[林 基]
『林基「松波勘十郎捜索」(『茨城県史研究』29~60号所収・1974~88・茨城県)』

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世界大百科事典内の松波勘十郎の言及

【備後国】より

…藩は1669年(寛文9)以前から借銀返済と関連させて藩札発行を行ったり,86年(貞享3)の侍・切米取(きりまいとり)27人をはじめ1714年(正徳4)までに141人におよぶ大量召放ち(めしはなち)を行っている。そして,1699年藩政改革者として名高い松波勘十郎を招いて,領内年貢の総米納,国産鉄・紙の買占め,家中知行米(かちゆうちぎようまい)の集中化,それらの一括大坂積登せ(つみのぼせ)販売など徹底した財政再建策を実施した。しかし,この改革は3年後に挫折し,1713年,18年両度における百姓一揆の主たる原因となった。…

【宝永水府大平記】より

…水戸藩は1706年(宝永3)松波勘十郎を頼み,年貢増徴,専売制改組,内陸舟運路建設など財政立直しのための〈宝永改革〉を展開した。しかし08年末から全藩農民の反対運動が盛んになり,09年1月には数千人が江戸に上って藩邸と交渉を重ね,将軍徳川綱吉の葬儀に臨む藩主の駕を道に阻止する態勢を組むことで藩を屈服させ,松波の罷免,改革の停止をかちとった。…

【水戸藩】より

…光圀時代の家臣団は4000人に及ぶとみられる。しかし藩財政は当初から豊かでなく,光圀死後は経費の増加と農村の疲弊により財政難が表面化し,これを打開するため綱条時代の宝永年間(1704‐11),浪人松波勘十郎を登用してはじめての藩政改革を実施した。この改革は,年貢増徴と運河開削計画によって農民の負担を増大させたため,水戸全領に及ぶ大一揆を起こし失敗に終わった。…

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