水戸宝永一揆(読み)みとほうえいいっき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「水戸宝永一揆」の意味・わかりやすい解説

水戸宝永一揆
みとほうえいいっき

江戸中期水戸藩領の百姓一揆。水戸藩は元禄(げんろく)(1688~1704)ごろから財政窮乏に苦しみ改革が試みられるが、1706年(宝永3)財政家松波勘十郎(まつなみかんじゅうろう)に委託してからとくに広範に展開される。翌年7月からの舟運路開削事業はその中心環をなしたが、まもなく幕府が藩札を停止したため賃銭が08年度分は完全に不払いとなり、領民に大打撃を与えた。そのうえ、同年度から大幅引上げとなった年貢の納期が迫ったため、同年11月には農民が郡方(こおりかた)役所に減免や支払いを訴えるに至った。郡代清水仁右衛門(しみずにえもん)が応じないため、袋廻文(ふくろかいぶん)が領内を回り、村々の寄合は高100石に1人の割で代表を選び江戸に派遣することにした。09年正月早々から代表が江戸に到着、10日将軍綱吉(つなよし)の死去を経て、16日に200人ほどが支藩守山(もりやま)藩邸に門訴して拒否される。18日には水戸藩邸に呼び出された代表は、要求をいれるとの約束だけで帰国させられ、運動は挫折(ざせつ)したかにみえた。

 しかし22日には後続の代表などでふたたび350人ほどに達し、翌23日登城帰りの藩主駕籠訴(かごそ)を企てたが道をかえて逃げられる。24日に約1500人に増えた代表で守山藩邸にふたたび門訴、守山藩は今度は訴状を受け取り、水戸藩邸に全員を導き奉行(ぶぎょう)との会談が実現する。藩は減免と支払いの書面を水戸に出すからと帰国を命じたが、農民側は25日の総会で拒否し、松波、清水両名の罷免、改革停止を要求して、28日の将軍葬儀の際に藩主の登城を阻止して訴えるという方針を決定。26日師岡奉行(もろおかぶぎょう)と代表藤右衛門との交渉でも、阻止行動中止を拒否されて藩はついに屈服。27日午前2時、松波父子追放、改革停止を水戸に発令することでかろうじて事態を収拾した。表ざたとなった場合、運河敷にあたる守山藩領の一村を幕府に無断で水戸藩領に交換していたのを暴露されるのを恐れたからである。安房万石(あわまんごく)騒動における庄屋(しょうや)3名の裁判なし処刑という違法行為よりもっと強力なこのような切り札をつくりだしたところにこの闘争における意識性が知られ、入牢(にゅうろう)した一揆指導者に対し、全領から高10石につき2文ずつの徴集を行った点には組織性のほどが示されている。

[林 基]

『林基著『国民の歴史16 享保と寛政』(1971・文英堂)』『江川文展著『宝永一揆』(1981・筑波書林)』

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