歴史をもたない民族はなく,広義の歴史叙述ないし歴史研究は古くから諸民族にみられるが,本項では近代の歴史学のあり方をヨーロッパ,日本,朝鮮,中国について史学史として概観する。なお,〈歴史〉の項目では,無文字社会をふくめて諸地域における歴史意識や歴史叙述のあり方を展望しているので,あわせて参照されたい。
ヨーロッパにおける歴史学の成立は,自然科学の成立と同様,近代の所産である。それは,この時期に,歴史研究の方法および過去に対する感覚が発達したからである。中世においては,〈歴史〉は〈自由七科〉(文法,論理,修辞,算術,幾何,音楽,天文)の中に特別な地位を占めず,〈文法〉に付属していた。15世紀中葉にいたって,歴史は大学の教科の中に入りはじめたが,なお修辞学に近く,文学の一部門とみなされた。しかし,同時にこの時期には,イタリアの人文主義者の間に,歴史的・批判的方法の萌芽がみられる。その有名なものは,L.バラの《“コンスタンティヌスの寄進状”の偽作について》(1440)で,彼は原典批判により,この寄進状が偽造文書であることを証明した。また,歴史に対する重要な刺激が,とくにフランスの人文主義者(たとえばG. ビュデ)によるローマ法研究から与えられた。法文の正確な意味を理解するためには,ローマ人の生活の多様な相を調査することが必要とされたからである。さらに人文主義者の間では,古典文化に対する尊敬と賛美のあまり,その崩壊は,突如として出現した〈ゲルマン蛮族〉の破壊によるものであると意識された。それゆえ,古典文化とそれが再生する現在との間の中間時代は,野蛮な暗黒時代であるとして,ここに,古代・中世・近代という時代区分法が成立するにいたった(時代区分)。
ルネサンスに続く17世紀の学問史において,まず注目すべきものは自然科学の成立であり,この時期においても歴史研究は,なお副次的部門にすぎなかった。近代自然科学の理念的基礎をなすデカルトは,数学のごとく明晰な知識を求め,歴史的世界についてはそのような確実な知識は存在しないと考えた。しかし,この〈歴史的懐疑論〉の立場は,半面において,文書の陳述の真偽を疑い,文書を批判的に吟味する方法への道を開いた。このような精神の所産が,ベネディクト会士J.マビヨンの《古文書論》(1681)である。これは,ベネディクト教団所蔵の古文書を偽作とする説に対し反論したものであるが,古文書研究の批判的方法を促進して西洋における古文書学の基礎を築いた画期的著作であった。さらにこの著作の十数年後に刊行されたP.ベールの《歴史批評辞典》(1696-97)も,同様の懐疑と批判の精神の所産である。しかし,これらの業績が,根底において依然としてデカルトと同様の立場に基づくのに対し,デカルトによって軽蔑された歴史的世界の認識が学たりうることを,独特の見解をもって基礎づけたのが,G.ビーコの《新しい学》(1725)である。この書は,自然科学の優位のもとに学問体系が築かれつつあった時代に,学問の対象として歴史的世界を発見するという独創的意義をもつものであったが,それだけに反響は冷たかった。
当時の啓蒙主義の歴史研究の中で最も代表的なものは,まずボルテールの《習俗論(諸国民の風習と精神についての試論)》(1756)である。これは,通例,政治史に対し文化史を創始したものと目され,また〈歴史哲学〉という語も,この書に付加された序論で初めて用いられた。しかし,この書の独創性は,J.B.ボシュエの《世界史論》(1681)の続編を意図しながらも,中国から筆を起こしてキリスト教的世界史像の定型を打破したところにある。ただボルテールにおいても,中世は野蛮な暗黒時代であり,そのような中世観は,啓蒙主義の進歩史観(進歩)を確立したコンドルセの《人間精神進歩の歴史的素描》(1795)も同様である。18世紀の進歩史観は,ルネサンスに発する中世観をいっそう強化した。コンドルセのこの書の根底にあるのは,西欧近代の優位であり,理性と自然科学の優位である。〈世紀の遺言書〉と評される本書は,同時に19世紀の〈実証主義〉の先駆であった。
しかし,18世紀の内部には一方,啓蒙主義とは異なる歴史感覚が胎動しはじめていた。イギリスにおける〈前期ロマン派〉およびこの派の影響を受けたドイツの〈シュトゥルム・ウント・ドラング〉(疾風怒濤)の運動がそれである。ことに後者の先駆をなすJ.G.vonヘルダーは,〈感情移入〉によって各民族・時代の個性を理解しようとした。それは同時に,啓蒙主義的歴史観への反逆であり,彼の《人類形成への歴史の哲学Auch eine Philosophie der Geschichte zur Bildung der Menschheit》(1774)は,〈歴史主義の初期の宣言〉となった。さらに18世紀後半には,とくにドイツの〈ゲッティンゲン学派〉において文献学的研究が進展しつつあったが,その方法はやがて歴史研究の領域に移されていった。B.G.ニーブールの《ローマ史》(1811)は,文献学の方法を継承して〈史料批判的方法〉を確立した画期的業績である。そしてこの〈史料批判的方法〉と個性に対する新しい歴史感覚〈歴史主義〉とを結合したのがL.vonランケであり,それが同時に,近代歴史学の成立にほかならない。
ランケは,ニーブールの方法の影響をうけ,これを近代史に適用した。処女作《ラテンおよびゲルマン諸民族の歴史》(1824)の付録《近代歴史家批判》がそれであるが,史料批判的方法(史料学)の精緻な完成とその普及は,ランケおよびその学派の業績である。またランケは,大学に歴史学演習を創設して歴史学教育法の模範を示し,史料批判的方法とともに,欧米の学界に大きな影響を与えた。日本の歴史学も明治時代,史学教師L.リースを通じてランケの影響をうけること多大であった。近代歴史学の成立は,同時にアカデミズム史学の誕生であり,19世紀前半の古典的歴史叙述はなお物語的叙述であったが,歴史学はしだいに専門学科の傾向を強めていった。19世紀の諸国家における歴史研究は,ナショナリズムの風潮と相まち,各国それぞれの国民的関心事をめぐって展開されることが多く,とくに政治との結合が顕著であった。たとえば,ドイツでは帝国建設,フランスではフランス革命をめぐり,国民的特色のある歴史叙述が生みだされた。
他方,19世紀には,近代自然科学を模範とし,その方法を普遍的方法と信ずるA.コントの〈実証主義〉が出現する。コントの影響をうけて,イギリスのH.T.バックル,フランスのH.A.テーヌは,自然科学の方法を歴史的世界にも適用し,歴史学を自然科学の地位にまで高めようとした。政治史に対立して文化史を主張したドイツのK.G.ランプレヒトも,その方法の中心にあるのは社会心理学であり,社会心理的発展法則,自然科学的な歴史法則の樹立を意図した。このような〈自然科学としての歴史学〉に対し,ランケに発する〈伝統的歴史学〉が論陣を張ったのもまた当然である。19世紀中葉におけるJ.G.ドロイゼンのバックル批判,また世紀末におけるランプレヒトの文化史をめぐる〈方法論争〉は,いずれもこの二つの歴史学の対決を象徴している。
もとより19世紀において,ランプレヒトとは異なる独自の文化史を創始したJ.ブルクハルトも,政治史に対立したが,20世紀において政治史に対立する動向としてまず注目すべきは,フランスのアナール(〈年報〉)学派である。1929年雑誌《社会経済史年報Annales d'histoire économique et sociale》を創刊したM.ブロックおよびL.フェーブルの意図は,研究対象と方法の点での歴史学の革新であった。その〈新しい歴史学〉は,〈総合〉への関心をもって〈全体史〉を志向する。それは,従来の政治史の優位を打破すると同時に,同じく従来の文書史料にのみ基づく歴史学の方法の革新を意図して,隣接学問との協同の道を開いた。この《年報》の基調は,第2次大戦後もなお継承されて,現代歴史学の重要な動向を形成している。戦後はほかに,イギリスではマルクス主義と社会科学の影響を受けた〈新しい社会史〉,ドイツではアナール学派の影響をうけた〈構造史〉や,〈伝統的歴史学〉〈歴史主義の歴史学〉を批判する〈歴史主義のかなたの歴史学〉〈社会科学としての歴史学〉が主張され,また,アメリカではフーコーをはじめとする現代フランス哲学の影響下に,ホワイトHayden Whiteらによって歴史叙述と物語の関係があらためて問い直され,いずれも現代歴史学の新動向として注目されている。
→経済史学 →史的唯物論 →法制史 →物語
執筆者:岸田 達也
マルクス主義史学は〈唯物史観による定式〉を方法論的基礎に置いている。ところが,1960年代後半を境として,社会経済史的接近方法が偏重されていた従来の分析視点から,社会の構造的・総体的把握のために精神史・文化史的接近方法を特別に重視する分析視点への移行という新しい傾向がマルクス主義史学において発生し,西欧や日本の学界にも大きな影響を及ぼしはじめている。アナール学派やその他の〈新しい歴史学〉の台頭を意識したこの新しい潮流の旗手は,ソ連中世史家のグレビチA.Ya.Gurevichである。彼の《中世文化の諸カテゴリー》(1972)は西欧史学に大きな反響を呼び起こした。さらに,アナール学派やその他もほとんど手をつけていない,初期中世と古典的中世の西ヨーロッパ民衆文化史研究の方法論的基礎を掘り起こした《中世民衆文化の諸問題》(1981)と,その後の〈新しい歴史学〉との接触を通じて改訂増補された《中世文化の諸カテゴリー》第2版(1984)は,マルクス主義史学の新しい運動を強力に推進しつつある。形成されつつあるマルクス主義史学のこの新しい潮流が,とくに中世社会に関して精神史・文化史の研究を重視しはじめたのは,マルクスのいう人格的依存関係が社会の主要な構成原理となっているような封建社会のメカニズムと運動法則の分析方法は,物的依存関係が支配している近代社会のメカニズムと運動法則の分析方法と同じであってはならないと明確に自覚したからである。この方法論的自覚こそが,〈経済的〉土台の分析を出発点としている前資本主義的構成体の従来の〈構造的分析〉に対して180度の転換を要求した。これは,前資本主義社会の生産関係の主要な内容を経済関係としてみるか否かの問題の解決を迫っている。もちろん,これは物的依存関係に立脚した近代社会の克服の要求へのマルクス主義史学の対応をはっきりと意識したうえで,中断されたアジア的生産様式をめぐる論争をもふくむマルクス主義史学の伝統的な社会発展段階論研究の今後における新しい再展開への刺激として,大きな影響を及ぼしていくものと考えられる。
執筆者:福冨 正実
中国に学んで国家を統一し,諸制度をつくった日本の貴族官人にとって,中国の学問・思想を習得することは必須であった。律令制下の大学では経書中心の学習科目が定められたが,時代が下るにつれて経書よりも,詩文と史書を学んで広い知識を得ることが好まれるようになり,《史記》などを学ぶことは,日本の貴族にとって基本的な教養と考えられた。中国の史書を読む日本人は,自国の歴史を中国の歴史と比較しながら考えた。《日本書紀》以下六国史の編纂には,多くの困難があり,歴史物語や軍記物などの編述にも,さまざまな専門的な技術が必要とされていたと考えられるが,歴史を書くための研究が意図的に行われはじめたのは,近世に入ってからであった。2世紀を超える大事業となった水戸藩の《大日本史》編纂のためには,広く典籍・古文書の探訪が行われ,書写・校合の作業が進められた。近世の儒学者による考証史学は,武家興隆の歴史を中心にさまざまな成果をあげたが,国学者の古典研究も,注釈研究から史料の収集,さらに精緻な考証的研究へと対象を拡大し,こうした基礎の上に,近代の歴史学が形成された。
明治時代の歴史学を考えるとき,最初にあげねばならないのは政府が行った歴史の調査と,修史事業の発足であろう。政府は,近代国家の諸制度をつくるために,古代以来の軍事,租税,土地,交通・通信をはじめ種々の制度の沿革を調査した。驚くべき集中力をもって短期間にまとめられたそれらの報告書は,後の歴史研究の基礎となった。また,政府は伝統的な発想に基づいて国史の編纂を企てた。その事業は太政官修史局で発足して以後,紆余曲折を経て1895年に帝国大学文科大学史料編纂掛に受け継がれ,《大日本史料》《大日本古文書》の編纂へと発展したが,現在も東京大学史料編纂所で続けられており,アカデミズム歴史学の中心の一つとしての役割を果たしてきた。他方,西欧の歴史学の輸入は,1877年創立の東京大学文学部に史学科が設けられたことに始まった。しかし,それは西欧の大学の史学科をそのまま移した形であったために,学生の関心を引くことができずに廃止され,87年ドイツからランケの弟子のL.リースを招き,その指導のもとに帝国大学文科大学に史学科が再開された。そして89年に史学科から国史学科が分かれ,1901年に東洋史学科が設けられたことによって,国史・西洋史・東洋史の3学科がそろうことになった。それより先,1897年に京都帝国大学が創設され,その後増設された帝国大学や,早くから開設されていた高等師範学校などが,官学の歴史学の拠点となった。1889年に創刊された《史学(会)雑誌》を中心とする官学の歴史学は,ドイツの文献実証的な学風を受け継ぎ,客観性を重んじたが,西欧の近代的な諸学問が日本に定着する中で,法制史,経済史,地理学など隣接の学問との接触が盛んになり,西欧の歴史学の諸学派の主張や研究方法の影響も受けて,政治史はもとより中田薫,三浦周行(ひろゆき)らの法制史,内田銀蔵,本庄栄治郎らの経済史,辻善之助,西田直二郎らの文化史等々,研究対象に応じて分化する傾向をみせ,そうした中で古文書学,書誌学などの基礎的な補助学も分立するようになった。また,黒板勝美による史跡・文化財の保存や歴史博物館建設の提唱もあった。他方,私立の大学でも歴史学の研究は盛んになり,アカデミックな方向をとりながらも,文献実証主義の枠を越えた自由な学風が形成され,史論などの出版活動の拠点になった。このような歴史学発達の基礎として,基本的な史料の収集と,出版による公開は不可欠であるが,《国史大系》《史籍集覧》《国書刊行会叢書》をはじめ諸方面の典籍史料が刊行され,《古事類苑》,吉田東伍の《大日本地名辞書》などの辞典・索引の類もしだいに整えられた。
明治初年以来,西欧の歴史・歴史思想の紹介が続けられ,その影響・刺激を受けて山路愛山らをはじめとする数々の史論が論壇や学界をにぎわし,優れた歴史叙述が現れた。そうした流れが近代の歴史学を支えてきたが,もう一つ見落とすことができないのは,在野の地方史研究であろう。膨大な藩政史料の整理と保存,県・市・町・村史などの研究は,民俗・芸能などの分野を取り込んで現在に至っている。こうして,歴史学は多様なひろがりをもつようになったが,天皇や国家神道に関する研究は大幅に制限され,久米邦武の事件,南北朝正閏問題,津田左右吉の事件などをはじめ優れた実証的研究が弾圧を受けたこともしばしばであった。また考古学は,神話と直結した歴史教育に抵触するために,研究を妨げられ,柳田国男,折口信夫らの民俗学は,国家の歴史を重視して文献実証を偏重したアカデミズム歴史学のもとで,学問として認められなかった。第2次大戦後,研究は自由になり,戦前からのマルクス主義による歴史学の影響のもとに社会経済史を中心とする歴史学研究は活況を呈し,日本・西洋・東洋間の比較研究も盛んになった。しかし,それとともに分野別・時代別の専門分化が急速に進み,歴史学の研究と歴史叙述の乖離(かいり)が明確になってきた。また,戦後の歴史教育の中で始まった世界史の視点は,研究の組織としては定着せず,南・北アメリカ,アフリカなどの歴史の研究が進む中で,日本・西洋・東洋の3部立ての研究体制も,新しい対応を迫られている。歴史教育との関係,破壊や散逸の危機にある史跡や史料の調査と保存,急速な進展をみせる隣接の諸学問への対応など,日本の歴史学が当面している問題は多い。
→西洋史学 →東洋史学 →歴史教育
執筆者:大隅 和雄
科挙と朱子学的教養に拘束されていた李朝の両班(ヤンバン)知識人においては,中国史を〈正史〉とみなして自国史を軽視する事大主義的風潮が一般的であったが,17~18世紀以降実学派の登場とともに自国史への関心が深まり,《東史綱目》の著者安鼎福(あんていふく)のような国史学専門家も生まれるにいたった。開国後この自国史重視の思想は開化派などにより継承発展させられ,とくに甲午改革期以降本格的な国学研究が緒につきかけていたが,日本の侵略がその順調な展開を大きく制約してしまった。侵略・植民地支配の時期の近代史学としての朝鮮史研究は,表面的には日本人が独占していたようにみえる。それは史料の公刊や考証技術の一定の精密化をもたらしはしたが,植民地支配の合理化に役だつ否定的な朝鮮史像を描き出すことに意識的に奉仕し,あるいは無意識的にとらわれるという大きな誤りを共有していた。朝鮮史の発展が常に外からつき動かされる受身の形でしかなかったようにいいなす〈他律性史観〉は,そうした誤った方法論の一つで,とくに北方方面からのインパクトを強調する〈満鮮史観〉は,その一変種である。そして,日本と朝鮮はもと同種で日本が兄の立場であったといいなすような〈日鮮同祖論〉は,直接的に植民地支配を正当化する武器となった。一方,社会経済史的方法論としては,植民地化直前の朝鮮社会を日本の藤原時代に相当する段階であると主張するような〈停滞性理論〉が猛威を振るった。1920年代以後の左翼の歴史家といえどもこの傾向の影響を免れえなかった。とくに十五年戦争期にはK.A.ウィットフォーゲル流の〈東洋社会特殊性論〉が流行して,〈停滞性〉がいっそう強調されたのであった。
しかし,こうした表面的状況にもかかわらず,実は,〈官学アカデミズム〉から完全に疎外された朝鮮人の中にもう一つの近代史学の流れが存在した。民族解放闘争の中で生まれた〈民族史学〉の系譜がそれで,《朝鮮上古史》《朝鮮史研究草》の著者申采浩らが代表的であり,全面戦争下の時期まで鄭寅普(ていいんふ)(1892-?)その他の人々によってその方法論は保たれてきた。震檀学会の結成(1934)もこのような動きを反映したものの一つといえる。1945年の解放以後,韓国でも朝鮮民主主義人民共和国でもこうした〈民族史学〉の伏流を意識的に継承しつつ,奪われた自国史を取り戻す営為が強力に進行したのは当然である。共和国では白南雲を経てことに60年代以降金錫亨(きんしやくこう)(1912-96)らにより〈チュチェ(主体)思想〉の観点からの自国史研究が体系的に進められ,ソ連や日本の学界にみられる停滞史観の残滓に対する意識的批判も行われた。韓国でもとくに60年代以降,多くの歴史家によって〈民族史学〉の継承,〈日帝官学史観〉の克服が自覚的に方法化され,国史研究が質・量ともに飛躍的に発展しはじめた。
一方日本では,50年代初めころまではまだ戦前的な〈停滞史観〉が惰性的に維持されており,研究もあまり活発でなかったが,60年代以後,〈停滞史観〉〈他律性史観〉を克服して〈内在的発展〉の観点から朝鮮史をとらえかえす作業が着手されはじめている。なお,〈朝鮮〉の項目のうち[朝鮮史の特質]を参照されたい。
執筆者:梶村 秀樹
中国の近代歴史学は,中華人民共和国の成立を境に大きく二つの時期に区分される。前段はさらに,清末から新文化運動までの揺籃期,1910年代末から30年代半ばまでの発展期,抗日戦争以後の受難期に分けられる。第1の時期がいつに始まるのかは決めにくいが,1901年(光緒27)の梁啓超〈中国史叙論〉の出現が一つの指標となる。それは,史学の独立をうたうのみならず,事実と事実の間の因果関係,法則性の解明の必要性を強調したもので,旧来の史学を近代史学に改鋳しようとしたものだった。このころに研究で具体的な成果をあげたのは,日本の新史学の影響を強く受けた羅振玉,王国維らである。第2の発展期は,16年に北京大学校長に就任した蔡元培による史学系設置に始まり,28年の中央研究院歴史語言研究所の設立以後に最高揚期を迎える。この時期の成果は豊富だが,要約すれば以下のごとくであろう。(1)顧頡剛らの《古史弁》に結実する疑古派の成果。それは〈孔家店打倒〉をかかげた新文化運動の歴史分野における達成であった。(2)歴史学の確立に伴う考古学,民俗学などの関連学の発生,成長。29年の北京原人の発見,37年に始まる殷墟の発掘などはその最も著名なるものである。(3)マルクス主義史学の確立。その鼻祖の位置は李大釗が占めるが,郭沫若《中国古代社会研究》などの具体的研究,および《読書雑誌》などで展開された中国社会史論戦を通じて唯物史観派の地歩が確立された。なお,この間に清室の紫禁城からの追放にともない,25年に故宮博物院がつくられ,多くの秘蔵史料が公表されたことは,まさに史学が〈一人一家の譜牒〉から〈国民全部の歴史〉への転化を示す大事件であった。第3の受難期は,いうまでもなく日本の侵略とそれに続く内戦の時期で,その苦難のほどは,北京大学がまず長沙へ,そしてさらに昆明へと移転していかねばならなかったという一事から,万事を推しはかれよう。この戦乱の時代にあって,歴史学も抗日,内戦反対と深く結びついていた。解放区(中国共産党支配地域)では范文瀾らによる《中国通史簡編》などが,大後方(国民党支配地域)では陳寅恪《唐代政治史述論稿》などが書かれた。また,淪陥区(日本占領地域)にあって陳垣(ちんえん)らが専心研究に励んだこともよく知られている。
後段,すなわち解放後も文化大革命をはさんで3期に分かれる。第1は文化大革命前までの整頓期,第2は文化大革命10年の偏向期,第3は文化大革命後の再建期である。この3期を通じて,唯心史観を否定して唯物史観による歴史学の確立がうたわれていることは変わらないが,その時々の政治担当者の意向とからんで力点の置き方が大きく変わることがよくあった。第1期には侯外廬《中国思想通史》に代表されるような唯物史観による統一的説明の書が多く出された。第2期には儒法闘争史観の強調にみられる〈理論〉偏向が横溢し,現在はほぼ文化大革命前の状態に戻っている。解放後に文献資料の収集,整理,刊行が飛躍的に進んだこと(第2期を除く),とりわけ考古遺跡の発掘・保存において想像を絶するほどの大発展があったことはよく知られている(第2期をふくむ)。一方,台湾においても,外交部などの檔案(とうあん)(原文書資料)の整理・刊行はもちろん,研究の面でもみるべき成果があげられている。
執筆者:狭間 直樹
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われわれが「歴史」というとき、それは過去に起こったなにかできごとをさしている。しかしそれはいまはもうない。それについて書いたものがあるだけである。その記述によって過去の事実を知ろうとする。それが歴史学である。
[神山四郎]
だから歴史ということばには「起こったこと」res gestaeと「起こったことの記述」historia rerum gestarumという二つの意味がある。語義からいうとドイツ語のGeschichteは前者にあたり、英語のhistoryは後者にあたる。しかしこの二語は内容によって使い分けられているのではなく、どちらも二つの意味をもったまま使われている。むしろその両義性が歴史ということばの本質である。
哲学者ヘーゲルは、歴史をみるのに「記念」から「内省」へ進まなくてはならないといった。過去の偉業の記念が記録を残すが、それがそのまま歴史ではなく、それをどう読むか、その記録の意味を考えるとき歴史ができるというのである。確かに歴史には「事実」と「記述」が、その記述には「記録」と「意味」が重なり合っている。
[神山四郎]
歴史家のランケは、歴史家は事実がどうあったかをただ示すだけだといった。そしてそのために歴史家は自己を消して事実に語らせるべきだといった。これは19世紀の初めに、それまで歴史の事実が政治や道徳の教訓に使われていたのに対して、事実を事実のためにみろといったまでで、その限り歴史家の姿勢としては正しい。
しかしそのことから、歴史を過去の事実の復原だと思ったり、事実をありのままに書けると思うなら間違いである。事実は「もの」ではなく「こと」である。「こと」の模写はできない。人間の行為はそのまま記述に再現できない。あったとおりに語るといっても、歴史家は三十年戦争のことを30年かけて語るわけではない。そのなかで意味のあることだけを取り出し一定の文脈で語る。しかもその事実はみな歴史家によって解釈されている。歴史記述のなかには生(なま)の事実はない。解釈という加工された事実があるだけである。
事実の所在を教えるのは史料だが、史料は自分で語るわけではない。史料に語らせるのは歴史家である。歴史家は史料にないことを語れないが、史料はどのみち材料で、それからどうやって事実のイメージをつくるかである。解釈の違いによってそのイメージはかならずしも同じではない。歴史の事実は一つではない。
また歴史家は現在にいて、事実は現在解釈されてつくられたものだから、歴史の事実は現在にあるといってもいい。哲学者のクローチェは、あらゆる歴史は現在の歴史であるといった。時代が変わり知識が変われば事実も変わる。歴史は書き換えられるのである。
だから歴史は「事実の発見」というより「事実の構成」というべきだろう。事実の模写や再現ができない以上、発見論は無理である。確かな史料に基づき正しい推論がされる限り構成論が正しい。
[神山四郎]
では、史料の情報からどうやって本当の事実を知るのか。史実の真は何か。言明が「真」であるためには論理的に二つの場合がある。一つは、言明にあたる事物が対象にあるならその言明は真であるという「対応的真」。もう一つは、事物対象がなくても関連する諸言明の間で矛盾がなく論理的整合が得られればその言明は真とされる「整合的真」。歴史の事実は対応する事物が少ないから、その記述は大部分整合的真にならざるをえない。たとえば、破壊し尽くされて何も残っていない古代カルタゴの歴史は、ローマ側の情報処理で真とすることができるように。
このように整合的真は解釈の合理性にあるのだから、合理的思考力のないところに史実の真はない。しかしそれは論理的保証だけだから、事実の実証のためには、言明に対応する事物を求められるだけ求める必要がある。史料の発見と遺物の発掘が歴史研究に先だって行われているのはそのためである。しかし整合論は構成論を支える。
[神山四郎]
歴史家が事実を解釈するとき、そこには一つの知識が働く。それが歴史観である。歴史観とは白紙の事実に色をつけるようなものではなく、事実そのものを構成する原理である。それは歴史家の見方を決めるもので、まず歴史家めいめいの視点の違い、好みや信条や思想などの先入観が見方に偏りをおこさせ、事実を人によって違ったものに構成させる。
しかしまた、それを是正するものもある。説明仮説というもので、個々の事実を説明するとき前提にするさまざまの概念、定義、法則などの一般命題である。それは各種の専門科学がつくったもので、歴史家は対象に応じてそれらを借りて個々の事実を説明する。その説明はだれがしても同じになる。それが歴史の客観的記述というものである。
歴史学は法則をつくらないが、法則によって説明する。法則をつくるだけが科学ではなく、法則によって説明することも科学だとすれば、歴史学はそういう科学である。しかし専門科学に寄生する科学である。この説明仮説は、先入観によるゆがみや偏りを是正する働きをもっているから、歴史の科学的性格を強めるものである。そしてそれは専門諸科学の発達につれて発達する。50年前、100年前のと比べて現代の歴史記述がずっと精緻(せいち)になったのはそのためである。
しかしそうした既成概念や一般命題から説明できない微妙な個体のありさまや前例のない事実についてはどうするのか。それは「理解」という追体験的・同感的認識によってとらえられる。歴史の事実は、きれいに説明されるより不可解なまま理解されるほうが多いから、大方の歴史記述は理解的記述であるが、それでも科学の進歩につれてしだいに「理解」は「説明」にとってかわられてゆく。それが歴史科学の進歩である。
[神山四郎]
しかし説明の正確さだけが歴史学のメリットではない。それは事実の実証をするが、正確さを求めて対象をますます細分化する方向に進む。しかし歴史記述はその半面、個々の事実をまとめて一つの全体として示すもう一つの仕事がある。それは歴史の叙述に欠くことのできないものである。
もともと歴史学には固有の対象はない。過去のできごとの政治、経済、法制、宗教、道徳、慣習、芸術などのどれを対象とすることもできる。またそれらが絡み合う複合的なものをそのまま対象とすることもできる。歴史家は自分のテーマでそのどれかを切り取り、どれかにスポットをあてて、自分のビジョンでそれを一つの全体として示すのである。そういう全体像を構成する原理は何か。それは類概念による論理的包摂とは違う。小さな場面を大きな場面が包む具体的包括である。たとえば、画家が対象をカンバスのなかに取り込む構図の取り方のようなもので、構想力とでもいうべき直観的・美学的なものである。歴史が科学であると同時に芸術であるといわれるのはそのためである。これは人文科学としての歴史学の基本的性格であって、科学時代にもその性格は変わらない。
かつて歴史の本は修辞学の一つとして読まれていた。それはヘロドトスやタキトゥスのような古典史家の著作を名文の手本として読んだのである。しかしそういう叙述の文体の芸術性は科学時代に薄れたが、歴史叙述の構想の芸術性は依然として生きている。
[神山四郎]
昔は哲学が諸学問の王であるといわれたように、歴史学は人類のあらゆる過去の番人と思われていた。しかし知識の進歩は学問の配置図を変えた。進歩に伴う知識の分化は歴史学のうえにも及んだ。かつての歴史学の領分は分解して、政治史、経済史、法制史、思想史などがそれぞれ独立した。また歴史学の補助科学とされていた地理学、古文書学、考古学などもそれぞれ自立して一つの専門学となった。このような分化につれて、いま歴史学プロパーの対象は何かと改めて問い直されている。とりわけ社会科学の発達は歴史学の領域を侵食したが、歴史学はいまでは社会科学の協力なしにはやっていけない。社会科学が社会の構造や形態を理論化するのに対して、歴史学はそれを現実に具体化する事件史を書くという形で両者はかみ合っている。
しかし歴史叙述の構想の原理は社会科学のなかにはない。そこに一つの哲学または歴史観が要請される。したがってこの科学時代にも、歴史記述は歴史家の歴史観の違いから、ただ一つの事実を示すことはむずかしいが、それでも共存的な国際社会化が進むにつれて人々の間に共通の立場がより広くとられるようになるから、それに伴って斉一な記述に歩み寄る見込みはある。とはいえ、新しい社会に新しい生き方を求めて新しい知識が古い知識を乗り越えてゆくのにつれて、そのつど過去を解釈し直し、歴史が書き換えられる可能性はつねに未来に開かれている。
[神山四郎]
『E・H・カー著、清水幾太郎訳『歴史とは何か』(岩波新書)』▽『W・H・ウォルシュ著、神山四郎訳『歴史哲学』(1978・創文社)』▽『A・シャフ著、森岡弘通・木戸三良訳『歴史と真理』(1973・紀伊國屋書店)』
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…宗教学や言語学や芸術学などは,社会学,心理学に還元される部分(宗教社会学,宗教心理学等々)以外は,人文学に属するものと考えておきたい。最後に歴史学は,人文学と社会科学にまたがる広大な学問で,社会科学に属する部門は経済史,政治史,社会史,法制史などとして,それぞれの個別社会科学の歴史部門を構成する。 社会科学はこれまで,科学史家のT.S.クーンが自然科学に関して考えたような〈パラダイム〉,すなわち競合しあう諸学説をしりぞけて当該分野のすべての研究者の支持を集め,かつ当該分野のあらゆる問題を解決することのできるほどの包括性をもった学説というものを有してはこなかった。…
※「歴史学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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