日本歴史地名大系 「宮之城郷」の解説
宮之城郷
みやのじようごう
現宮之城町の中央部、答
答院記)。だが島津氏が豊臣秀吉に降伏したのちの天正一五年(一五八七)五月二四日の伊集院久信書状(旧記雑録)に「仍関白殿必定大口へ出馬由候、去廿一日宮城へ取懸候へ共、差強候之間、津留田へ引取候て」とある。おそらく天正八年から
答院を領した島津歳久の時代に城はすでに宮之城とよばれていたと考えられる。同二〇年四月の薩隅日寺社領注文(同書)には「宮之城けたうゐん」とある。
慶長五年島津忠長は答院を与えられ、一二月中旬子の忠倍とともに宮之城に移った(北郷尚久系図)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報