宮部寸七翁(読み)ミヤベ スナオ

20世紀日本人名事典 「宮部寸七翁」の解説

宮部 寸七翁
ミヤベ スナオ

明治・大正期の俳人,ジャーナリスト



生年
明治20(1887)年1月12日

没年
大正15(1926)年1月30日

出生地
熊本県下益城郡杉上村(城南町)

本名
宮部 俊夫

別名
号=峻峰

学歴〔年〕
早稲田大学政経学部卒

経歴
農家の一人息子として生まれる。大学卒業後、九州新聞(現・熊本日日新聞)記者となり、峻峰の号で活躍するが、同社のストライキ事件に巻き込まれ退社。大正元年肥後青年倶楽部を組織。九州立憲新聞経営を経て、叔父の三隅雲涛が経営する博多毎日新聞編集長となる。5年結核を発病、句作を始め、「ホトトギス」などに投句。熊本俳壇に現れた女流俳人・斎藤破魔子(のち中村汀女)と親交を持ち、指導した。15年病没。昭和4年吉岡禅寺洞により「寸七翁句集」が編まれた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

関連語 学歴

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む