朝日日本歴史人物事典 「小川多左衛門」の解説
小川多左衛門(2代)
江戸前期から近代まで続いた京都の書肆の2代目。名ははじめ信清,のちに方道。本姓は茨木(茨城とも)。多左衛門はその通称で,代々この称を用いる。店は,屋号を小河屋,軒号を柳枝軒という。蒲生君平選『柳枝軒記』(1796)によれば,庭の柳の大樹が軒を覆うほどに枝を垂れていたことによる命名という。また,同記に従えば,その創業は寛永末~正保(1644~48)ころとなるが詳細は不明。 初代の方淑(生年不詳~1701)は,丹波より出て店を開いたといわれ,貞享2(1685)年には『新編鎌倉志』12冊を刊行。水戸徳川家の蔵板書の支配を務め,以来その製本・販売を委ねられることとなり,以後の揺るぎない地位の基礎を築いた。 2代方道は貝原益軒の著作を多数出版したことで知られる。『楽訓』『家道訓』などの教訓書や,実用書『万宝鄙事記』などのほか,正徳2(1712)年から享保6(1721)年にかけては,写本『東路記』『己巳紀行』の2書を巧みに編集して『木曾路記』『諸州巡覧記』など,一連の紀行・地誌類を刊行した。これら益軒の書はロングセラーとなり,安定した収益を保証するとともに,書肆柳枝軒の名を広く知らせることとなった。このほか,『町人嚢』などの西川如見の著書や,『広益俗説弁』などの井沢蟠竜の編述書などを刊行し,仏書出版を始めたのもこのころだといわれる。仏書は以後の経営の重要な位置を占め,特に禅宗関係図書は,寺院蔵板の製造・販売を行うなど多くを手がけ,「禅家書房」の称も用いた。 柳枝軒は,書道書や『摂津名所図絵』などの名所図絵類まで,多種多様な書物を刊行し,書物全般にわたる幅広い出版活動を行った。水戸の小宮山楓軒は文化年中の随筆『楓軒偶記』のなかで,京都で「書肆の大家」と称するのは茨木と風月庄左衛門であると記している。店は京都六角通リ御幸町西入ル南側中程にあり,明治39(1906)年に7代方興が東京へ移住するまで続いた。なお,享保から天明ころの江戸に,柳枝軒を軒号とする書肆小川彦九郎が存在するが,多左衛門の刊行書の売り出しを多く務めている点からも,出店あるいは分家かと考えられる。<参考文献>森潤三郎『考証学論攷』(日本書誌学大系9)
(安永美恵)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報