江戸前期から中期の儒学者、博物学者、庶民教育家。寛永(かんえい)7年11月14日、福岡藩祐筆(ゆうひつ)の子として城内で生まれる。名は篤信(あつのぶ)、字(あざな)は子誠(しせい)、通称は久兵衛。久しく損軒(そんけん)と号し、晩年に益軒と改める。幼時に父の転職で各地に転居し民間で生活した経験が、後年の彼をして「民生日用の学」を志す契機となった。初め福岡藩主2代目の武断派黒田忠之(ただゆき)(1602―1654)に仕え、その怒りに触れて浪人となり、医者として身を立てようと医学修業に励んだ。数年後に父のとりなしで3代目文治派の光之(みつゆき)(1628―1707)に仕え得て、約10年間京都に藩費遊学した。文運興隆期に各方面の学者、博学温厚の朱子学者木下順庵(きのしたじゅんあん)、中村惕斎(なかむらてきさい)、儒医の向井元升(むかいげんしょう)、黒川道祐(くろかわどうゆう)、松下見林(まつしたけんりん)、好学の公卿(くぎょう)伏原賢忠(ふせわらけんちゅう)(1602―1666)、のちには本草家(ほんぞうか)稲生若水(いのうじゃくすい)らと交わり、後年まで学問上の交流をもった。またこの京都にみなぎる経験・実証主義を体認して、その後の学風に生かしたのみならず、算数の重要性を説き『和漢名数』(正1678、続1695)を編集出版した。帰藩後、君命で『黒田家譜』を、ついで『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』(1703年成立)を晩年までかかって完成した。その間、朝鮮通信使の応対、漂流民の取調べ、好学の徒への講義、藩内科学者(天文、和算)との交遊を行っている。朱子学者としては早く『近思録備考』(1668)を著し出版したが、その経験的学風から朱子学の観念性への疑問を募らせ、それを体系的に論述した『大疑録(たいぎろく)』を晩年にまとめた。
博物学では江戸期本草書中もっとも体系的な『大和本草(やまとほんぞう)』をはじめ『花譜』(1694)『菜譜(さいふ)』(1704)を残したが、近郷の宮崎安貞(やすさだ)の『農業全書』の成稿と出版にも積極的に助力した。妻貝原東軒(とうけん)(1652―1714)は楷書(かいしょ)に巧みで、ともに古楽(こがく)(和琴(わごん)など)を奏し楽しむこともあった。また祖先が備前(びぜん)国(岡山県)吉備津宮(きびつのみや)の神官であったから、和学にも関心深く、日本人として和学修得の必要を説き、「神儒平行不相悖(もとら)論」を唱えた。基本的には儒教敬天思想に基づく人間平等観の立場で、多くの教訓書や大衆健康書『養生訓』にもこの思想がうかがわれる。正徳(しょうとく)4年8月27日、85歳で没した。
[井上 忠 2016年5月19日]
『『益軒全集』全8巻(1910~1911・隆文館)』▽『荒木見悟編『日本思想大系34 貝原益軒・室鳩巣』(1970・岩波書店)』▽『松田道雄編『日本の名著14 貝原益軒』(1983・中央公論社)』▽『井上忠著『貝原益軒』(1963/新装版・1989・吉川弘文館)』
江戸前期の儒者,博物学者,庶民教育家。名は篤信,字は子誠,通称は久兵衛。号は損軒,晩年に益軒と改めた。先祖は岡山県吉備津神社の神官で祖父の代より黒田氏に仕え,父は祐筆役らしく,その四男として福岡城内東邸に生まれた。幼少年期に父の転職で地方に移住したことや青年期の永い浪人生活が,後年〈民生日用の学〉を志す結果となった。壮年期に黒田藩に再就職し,京都に数年間藩費留学して松永尺五,木下順庵らの包容力に富んだ学風の朱子学者や,中村惕斎,向井元升らの博物学者と交際し,また元禄直前の商業貨幣経済の進展を背景として上方(京坂地方)を中心に起こりつつある経験・実証主義思潮を体認し,後年それをあらゆる方面に最大限に発揮させ,膨大な編著を残した。まず儒学では青年期には朱子・陽明兼学であったが,京都遊学を経て朱子学いちずに進む方針を定め,しかもなおその観念性に疑問をいだき続け,晩年に《大疑録》を著し古学派的傾向を示した。また藩命で《黒田家譜》《筑前国続風土記》などを編述した。自然科学面では当時京都を中心に本草学(薬用博物学)から純粋博物学への発展が見られ,益軒はかねての素養に加えて京都の学友から刺激をうけ,名著《大和本草》を生んだ。なお長崎,京都,江戸への公私のたび重なる旅行の結果,10種に近い紀行が生まれた。内容は各地の自然美,産業地理,考古遺跡にまで及び,新紀行文学の手本となった。晩年には《養生訓》《大和俗訓》など多くの教訓書を書いたが,前者はみずからの体験に基づくもので今日の老年者に教示するところが大きい。また《慎思録》や晩年の教訓物には人間性の尊重,愛の強調が見られる。人間は身分階級を問わず天地の所産であり,天地の万物生成の行為を天地の愛の発現と見た彼は,人間どうしも互いに愛し合うべきだと考えたからであった。
執筆者:井上 忠
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1630.11.14~1714.8.27
江戸前期の儒学者・博物学者。名は篤信,字は子誠,通称助三郎のち久兵衛。損軒・益軒と号す。筑前国福岡藩士の子として生まれ,19歳から71歳で致仕するまで,ほとんど福岡藩主黒田家に仕えた。その間,長崎で医学を学び,江戸・京都に出て儒学を研鑽し,林鵞峰(がほう)・向井元升・木下順庵・松永尺五(せきご)・山崎闇斎らと交わる。朱子学を基本としたが,青年期には陽明学も学んだ。晩年には朱子学に疑問をいだき「大疑録」を著し,古学にも関心を示した。本草学・農学・天文学・地理学などの自然科学にも造詣深く,「大和本草」は著名。教育や経済の分野での著作も多く,「養生訓」「和俗童子訓」など簡潔に説かれた実践道徳書は広く流布し,今なお心身修養の書として評価されている。
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…江戸時代中期以降普及した女子教訓書。1716年(享保1)版《女大学宝箱》の本文が最古のもので,末尾に貝原益軒述とあるが,確証はない。彼の著作《和俗童子訓》(1710)巻五〈女子を教ゆるの法〉をもとにして書かれたものであろう。…
… まず,手がかりとして,〈きた〉の語源から調べていこう。貝原益軒《日本釈名(にほんしやくみよう)》(1699)は〈北 直指抄云,北方は其色黒し。上古には黒き色をきたなしと云。…
…そのなかで,教育内容を順序だてる努力が始まる。貝原益軒が《和俗童子訓》で仮名文字の学習を〈いろは〉からではなく五十音から始めよと提唱するなど〈随年教法〉として系統性を強調したのは,18世紀初頭のことである。子どもの年齢にしたがい,発達段階に即して教材を編成する努力と並んで,視覚に訴える方法が考案された。…
… サクラを〈日本国原産の花〉という謬見のほうへ引きずり込んでいったのは,かえって近世の学者,それも一流の学者であった。貝原益軒《花譜》(1698)の〈二月/桜〉の項をみると,〈文選の詩に,山桜は果の名,花朱,色火のごとし,とあれば,日本の桜にはあらず。からのふみに,日本の桜のごとくなるはいまだみず。…
…谷川士清(ことすが)の《和訓栞(わくんのしおり)》93巻(1777(安永6)以後の刊行)は古語のほか俗語方言なども収め,五十音順であり,太田全斎の《俚言(りげん)集覧》(増補本は1900)は俗語を集めたもので,アカサ…イキシ…の順で並べてある。 このほか特殊辞書には,語源辞書として松永貞徳の《和句解》(1662∥寛文2),貝原益軒の《日本釈名》(1700∥元禄13),新井白石の《東雅》(1717(享保2)成立),契沖の提唱した歴史的仮名遣いを整理増補した楫取魚彦(かとりなひこ)の《古言梯》(1764(明和1)成立),方言辞書で越谷吾山《物類称呼》5巻(1775∥安永4),類書として寺島良安の《和漢三才図会(ずえ)》105巻(1712(正徳2)成立),山岡浚明の《類聚名物考》(1903‐05)などがある。
[明治時代以後]
ヨーロッパの辞書の影響を受けて,その体裁にならった辞書が生じた。…
…江戸時代の儒者貝原益軒が学問上の随想,論評を最晩年に編集した書。6巻。…
…全11巻。貝原益軒の序がある。第11巻は益軒の兄楽軒の筆で付録とする。…
…その後も盛んに中国から本草学が導入されたが,漢籍を日本風に理解したのと呼応して,植物学でも,中国で記述された種を日本風に解釈するにとどまっていた。やっと18世紀になって,貝原益軒の《大和本草》(1709)や稲生若水の《庶物類纂》(未完),小野蘭山《本草綱目啓蒙》(1806)などによって日本風の本草学が集成されていった。江戸時代末にはC.P.ツンベリーやP.F.vonシーボルトなどを介して西洋本草学の影響が及び飯沼慾斎《草木図説》(1852),岩崎灌園《本草図譜》(1828)などが出版され,日本の植物についての高い知見が示されていった。…
…その間,先進地の農業を視察し,老農の体験を学んだ。また藩内では貝原益軒,その兄楽軒と交わり,とくに益軒からは中国の農書や本草書について啓発を受けた。益軒もしばしば彼の農園を訪ねている。…
…江戸時代前期の代表的本草書。貝原益軒著。1709年(宝永6)刊。…
…このような発達や生活の変化からいって,幼児期は一つのまとまった時期とみることができるので,その時期に必要な教育の内容や方法の確立が求められる。 幼児教育の重要性への着目は,ヨーロッパではJ.A.コメニウス,日本では貝原益軒に始まるといえる。コメニウスは彼が提示した教育体系で6歳から始まる学校教育に先立つものとして〈母親学校Mutterschule〉をあげ,この時期の教育は母親にゆだねるのが最も適切であるとし,子どもの自発的な発達を促すことを重視し,そこから発達における遊びの意義を明らかにすることに努めた。…
…江戸時代の代表的な養生法指導書。貝原益軒が1713年(正徳3)84歳のときに大成したもの。8巻。…
…朱子学の理気論に部分的修正を加えたこと,王守仁(陽明)の《朱子晩年定論》をまっ先に批判したことで著名である。主著の《困知記》は,明末・清初に朱子学がもり返したときに高く評価され,日本では貝原益軒などに大きな影響を与えた。近年は気の哲学者として注目された。…
※「貝原益軒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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