日本歴史地名大系 「小桑原村」の解説 小桑原村こくわばらむら 群馬県:館林市小桑原村[現在地名]館林市小桑原・緑町(みどりちよう)一―二丁目・美園町(みそのちよう)・南美園町(みなみみそのちよう)・松原(まつばら)二丁目・新宿(しんじゆく)一丁目東は赤生田(あこうだ)村、西は近藤(こんどう)村、南は青柳(あおやぎ)村・堀工(ほりく)村、北は新宿(しんじゆく)村・成島(なるしま)村。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に村名がみえる。寛文郷帳では田方五二石七斗余、畑方四六三石六斗余、館林藩領。元禄郷帳では幕府領。のち館林藩領となる。安政二年(一八五五)の「封内経界図誌」によると田五町五反余・畑九〇町六反余。家数六九・人数二六八、馬数七。鎮守は大神宮・富士浅間(ふじせんげん)社。御鷹捉飼場に指定されていた。野銭林一五町六反余(木数一万一千一二〇本)がある(弘化三年「村々御林帳」館林藩史料)。 小桑原村こぐわはらむら 群馬県:富岡市小桑原村[現在地名]富岡市小桑原大桑原(おおくわはら)村の南、東は蕨(わらび)村、西は藤木(ふじき)村と接する。近世はおおむね七日市藩領。寛文郷帳では田方一四七石二斗余・畑方三三石七斗余。天明三年(一七八三)写の領内村高等覚(保阪文書)によると田八町九反九畝余・畑一町九反七畝余。天保三年(一八三二)の領内郷村高帳(同文書)では高二五九石余で、新田畑七八石余とある。宝永七年(一七一〇)より中山道安中宿定助郷一八一石を勤め(嘉永五年「安中宿明細帳」安中市教育委員会蔵)、明和二年(一七六五)の助郷人馬割付覚帳(同委員会蔵)によると人足三九六人・馬一八二疋を割付けられている。弘化三年(一八四六)の助郷人馬触高帳(同委員会蔵)では二六三人・二一四疋とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by