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榊原康政 さかきばらやすまさ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

榊原康政
さかきばらやすまさ

[生]天文17(1548).三河
[没]慶長11(1606).5.14. 上野,館林
安土桃山時代の武将。徳川氏重臣。長政の子。幼名は亀丸,小平太。幼少から家康に仕え,姉川の戦い,長篠の戦い小牧・長久手の戦いの功により,従五位下に叙され,式部大輔に任じられた。小田原征伐ののち,天正 18 (1590) 年,家康の関東移封に伴い,上野国館林 10万石に封じられた。文禄1 (92) 年以来秀忠に仕え,慶長5 (1600) 年秀忠が信州上田城主真田昌幸に阻止され関ヶ原の戦いに間に合わなかったとき,康政の陳謝によって許されたという。

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デジタル大辞泉の解説

さかきばら‐やすまさ【榊原康政】

[1548~1606]安土桃山時代の武将。徳川家康に仕え、姉川・長篠などの多くの戦に軍功をあげ、徳川四天王の一人に数えられた。関東入部後、上野(こうずけ)館林で10万石を領した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

榊原康政 さかきばら-やすまさ

1548-1606 戦国-江戸時代前期の武将,大名。
天文(てんぶん)17年生まれ。榊原長政の次男。徳川家康につかえる。三河一向一揆(いっき)攻めの功によって康政の名をあたえられた。以後各地の戦いで活躍,徳川四天王のひとりと称された。天正(てんしょう)18年上野(こうずけ)(群馬県)館林(たてばやし)藩主榊原家初代。10万石。慶長11年5月14日死去。59歳。三河(愛知県)出身。幼名は亀丸,小平太。

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朝日日本歴史人物事典の解説

榊原康政

没年:慶長11.5.14(1606.6.19)
生年:天文17(1548)
安土桃山・江戸初期の武将。俗に徳川四天王のひとりに数えられる。三河国碧海郡の榊原長政の子で,幼名を亀,通称を小平太,官途を式部大輔といった。永禄3(1560)年,徳川家康の小姓として仕え,同6年の三河一向一揆との戦いが初陣で,家康から諱の1字を与えられた。永禄末年には本多忠勝と共に旗本先手役に取り立てられ,姉川の戦,三方ケ原の戦で戦功をあげている。康政の武名を高めたのは天正12(1584)年の小牧・長久手の戦で,このとき康政は豊臣秀吉非難の檄文を秀吉陣営の諸将に送りつけ,怒り狂った秀吉が冷静さを失うという一幕を作り出している。そのため秀吉は「康政の首を取った者に望みのまま褒賞を与えよう」と触れたといわれる。戦後,妥協によって家康は秀吉に臣従,家康が関東に移封されたとき上野国館林で10万石を与えられ,文禄1(1592)年からは家康の3男秀忠付となった。慶長5(1600)年の関ケ原の戦のとき,秀忠に従って東山道軍に属し,信州上田城の真田昌幸・幸村父子を攻めあぐみ,関ケ原の決戦に遅参する失態を演じた。このとき,補佐役としての康政がすべての責任をとる形で家康と秀忠の仲直りにもちこんだ。その後,本多正信・正純父子らとの対立もあって館林に引き籠もり,そのまま同所で没した。

(小和田哲男)

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世界大百科事典 第2版の解説

さかきばらやすまさ【榊原康政】

1548‐1606(天文17‐慶長11)
近世初期の武将。通称小平太。式部大輔に任じた。はじめ酒井忠尚の家臣で,1560年(永禄3)岡崎に帰城した徳川家康に属し近臣となった。三河一向一揆に初陣,家康の一字を与えられ,永禄末年に旗本一手の軍団を指揮する部将に取り立てられた。以後,徳川氏の5ヵ国領有期の諸合戦ではつねに第一線にあって活躍。関東入国時,上野国館林で10万石を与えられた。【煎本 増夫】

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大辞林 第三版の解説

さかきばらやすまさ【榊原康政】

1548~1606) 安土桃山時代の武将。三河の人。徳川四天王の一人。越後高田藩主榊原氏の祖。姉川、小牧長久手の戦いに軍功を立て、上野こうずけ館林に一〇万石を領した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

榊原康政
さかきばらやすまさ
(1548―1606)

安土(あづち)桃山時代の武将。徳川家康直属の有力部将で譜代(ふだい)大名。幼名小平太、官名は式部大輔(しきぶたいふ)。三河一向一揆(いっこういっき)で家康に敵対した家老酒井忠尚(ただなお)の小姓(こしょう)であったといわれる。1560年(永禄3)岡崎に帰城した家康に属して近臣となり信任を得、三河一向一揆で初陣を飾り、家康の一字を与えられ康政と称した。永禄(えいろく)(1558~70)末年、本多忠勝(ただかつ)と同じ旗本一手の軍団を指揮する部将に取り立てられた。五か国領有時代を通じ旗本部将でつねに第一戦で軍功があり、同様の地位にあった本多忠勝、井伊直政(いいなおまさ)とともに三傑と称せられた。関東入部後は上野(こうずけ)国(群馬県)館林(たてばやし)で10万石を与えられた。関ヶ原の戦い後、忠勝、直政とともに参陣した大名の論功行賞にあたり、政治の中枢にあった。[煎本増夫]

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世界大百科事典内の榊原康政の言及

【上野国】より

…世にいう江戸御打入りで,ここに関東は100余年にわたる戦乱に終止符を打ち,やがて関ヶ原の戦を経て1603年(慶長8)江戸幕府開設という新たな歴史段階を迎えた。江戸城に入った家康は榊原康政を総奉行として直ちに関東の知行割に着手した。上野国は江戸城北辺の外郭に当たる防衛線であったから,とくに家康側近の重臣を配置した。…

【館林[市]】より

…戦国末期には長尾顕長が城主のあと,後北条氏,上杉氏らの攻防があった。1590年(天正18)徳川家康の関東入国に伴い,榊原康政が10万石で入封,利根川の築堤など領内の開発とともに城郭,城下町を拡大整備した。その後,徳川綱吉が城主となり,城の大改修が行われたが,将軍になったあと1683年(天和3)廃城破却となり,1707年(宝永4)松平清武の入封以後再築された。…

【館林藩】より

…上野国(群馬県)邑楽郡館林城に藩庁をおいた譜代中藩。1590年(天正18)徳川家康の関東入国にともない,四天王の一人榊原康政が10万石に封ぜられて立藩。所領は邑楽・山田両郡および下野梁田郡にわたる。…

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