山県悌三郎(読み)ヤマガタテイザブロウ

デジタル大辞泉 「山県悌三郎」の意味・読み・例文・類語

やまがた‐ていざぶろう〔‐テイザブラウ〕【山県悌三郎】

[1859~1940]教育者近江の生まれ。教職を経て文部省御用がかりとなり、教科書編纂へんさんにたずさわる。下野して後の著作に「教育哲学史」「進化要論」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

20世紀日本人名事典 「山県悌三郎」の解説

山県 悌三郎
ヤマガタ テイザブロウ

明治〜昭和期の教育者,社会教育家



生年
安政5年12月17日(1859年)

没年
昭和15(1940)年1月18日

出生地
近江国(滋賀県)

学歴〔年〕
東京高師卒

経歴
13歳で藩校で「論語」などを講述したという。明治5年上京し東京高師に学ぶ。埼玉、宮城で教職を経て、愛媛師範校長に就任。のち西村茂樹に推され文部省御用掛となり日本史博物などの教科書を編纂。しかし希望していた西欧留学や講師をしていた学習院教授の道も閉ざされ、19年28歳で下野した。同年訳述「理科仙郷」を刊行、以後仙郷学人と号し社会教育を天職として「教育哲学史」「進化要論」、教育雑誌「学海之指針」を刊行するなど、教育学、博物学の偉大な先達であった。21年創刊の「少年園」は近代児童雑誌の源流といわれる。また堺利彦、幸徳秋水らに近づき、新思想にも興味をよせた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の山県悌三郎の言及

【児童雑誌】より


[日本]
 日本では,1877年創刊の《穎才(えいさい)新誌》のような児童向け投書雑誌などがあったが,イギリスの児童雑誌の影響を強く受けて,88年創刊された《少年園》が最初の本格的児童雑誌といわれる。文部省で教科書作成にあたった山県悌三郎を主筆に,教育・啓蒙を発刊の主旨とした。執筆者には森鷗外や坪内逍遥の名もみられる。…

【小国民】より

…初めは月刊,1周年号から月2回刊。それ以前に創刊された《少年園》(1888‐95,山県悌三郎主幹),《日本之少年》(1889‐94,博文館発行),その後に創刊された《少年文武》(1890‐92,中川霞城編集発行)などとともに,明治20年代の有力な少年雑誌である。修身,歴史,文芸,娯楽などの平易な記事と挿絵で小学生の読者を獲得した。…

※「山県悌三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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