帯谷幸助(読み)オビタニ コウスケ

20世紀日本人名事典 「帯谷幸助」の解説

帯谷 幸助
オビタニ コウスケ

明治期の実業家 帯谷商店社主。



生年
安政2年3月8日(1855年)

没年
昭和8(1933)年11月15日

出生地
和泉国南郡木島村(大阪府)

旧姓(旧名)
田中

経歴
岸和田の棉買・木綿商での丁稚奉公を経て独立。明治8年製油業を営む帯谷治平の養子となり、分家して帯谷商店を設立、棉・木綿を取引した。17年頃より綿布の生産を始めたが業績が上がらず、農家などに織機綿糸を貸与して綿布を織らせる出機屋に転じる。のち出機屋を結集して設立された貝塚織物会社の社長に就任するが、内紛のため会社が長く続かず、元の出機屋に戻った。日清戦争以前から集散地大阪船場の問屋との綿糸取引を行い、日露戦争以後には綿布販売・取引をしていたが、その頃より商店の経営を養子吉次郎に委任。その後、同商店は順調に業績を伸ばし、昭和9年頃には工場6軒、広幅力織機3516台を擁する大規模な専業織布工場に成長した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「帯谷幸助」の解説

帯谷幸助

没年:昭和8.11.15(1933)
生年:安政2.3.8(1855.4.24)
明治期の実業家。和泉国(大阪府)南郡木島村の農民田中氏の子。岸和田の棉買・木綿商のもとで丁稚奉公ののち,独立。明治8(1875)年製油業者帯谷治平の養子となり,分家して棉・木綿取引を営む帯谷商店を設立。17,18年ごろ綿布生産を開始したが振るわず,直ちに出機屋(織機や綿糸を農家等に貸与して綿布を織らせる地方問屋)に転じた。まもなく出機屋が結集した貝塚織物会社の社長となったが,内紛のため同社は長続きせず,再び出機屋となった。集散地大阪船場の問屋と綿糸購入では日清戦争前から,綿布販売では日露戦争後から取引をしていた事実が確認される。日露戦争後には養子吉次郎に経営を委ねた。大正1(1912)年ごろに小幅力織機推定120台を備えた工場を建設した帯谷商店は,昭和9(1934)年には6工場計3516台の広幅力織機を持つ最大の専業織布企業に成長した。<参考文献>阿部武司『日本における産地綿織物業の展開

(阿部武司)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報