デジタル大辞泉 「問屋」の意味・読み・例文・類語
とい‐や〔とひ‐〕【問屋】
2 江戸時代、荷主から委託された貨物を販売したり、または、商品を仕入れて販売したりした卸売商人。中世の
( 1 )船で商品を扱う人の宿所で、その荷の販売斡旋をしていた「問丸」が、陸上輸送の集積所をもいうようになり、「丸」が「屋」となった。
( 2 )遠国との取引きが多いものは松前問屋、土佐問屋のように地名を冠して呼ばれ、専業的で近国との取引きが多いものは油問屋など品名を冠して呼ばれる傾向があった。
( 3 )「問屋(トイヤ) 江戸でとんやといふはなまり也」〔浪花聞書〕とあり、近世期は東西で異なった言い方をしていた。
自己の名をもって,委託者の計算において(委託者のために),物品の販売または買入れをなすことを業とする者(商法551条)。委託者の物品を第三者に販売し,または委託者の欲する物品を第三者から買い入れるのであるが,その際,委託者でなく受託者自身が売買契約の当事者となる。物品には有価証券を含む。他人の名をもって他人の計算で法律行為をなす代理(民法99条)に対して,自己の名をもって他人の計算で法律行為をなすことを取次ぎといい,問屋は取次ぎの引受けを業とする取次商人の一種で(商法502条11号,4条1項),その営業を問屋営業という。
問屋の起源は,世界各地で遠隔地との取引の始まったときに求めることができ,たとえば商人が遠方へ旅行する別の商人に販売すべき商品または購入にあてる金銭を預け,この者に当事者として売買することを依頼し,また旅行する商人が常宿の主人に,または外国での通訳に,当事者として売買することを依頼した事実が認められている。
現代の問屋は証券取引所の会員たる証券会社,商品取引所の会員たる商品取引員,中央卸売市場の卸売業者が代表例である。俗に卸売商を問屋(とんや)と呼ぶが,これは購入した商品を転売する,法律上は普通の売買商人(自己商。商法501条1号,4条1項)であることがほとんどである。
物品の販売または買入れの委託を,問屋は自己の名をもって第三者と売買契約を結ぶことによって実行する。この売買契約は取次ぎであって代理ではないから,売買により権利を取得し,義務を負担するのは問屋であって委託者でなく(商法552条1項),委託者・第三者間には直接の法律関係を生じない。しかし,この売買は委託者の計算でなされ,その経済的効果は委託者に帰属する。問屋と委託者の関係は委任の規定に従う(552条2項)から,問屋は売買により問屋の取得した物品,金銭,権利を委託者に移転する義務(民法646条)を負うのである。他方,問屋は委託者に対し報酬(手数料),費用を請求できる(商法512,513条,民法648~650条)。問屋は委託者に対し善良な管理者の注意義務を負い(民法644条),委託者の指図に従うことを要し,それに反する売買を委託者は委託の実行と認めないことができる。ほかに商法は553条以下で,問屋に第三者の履行を担保する責任,指値(さしね)遵守義務,売買の通知義務を認め,問屋に介入権,供託権,競売権,留置権を与える。
問屋を使えば,委託者は問屋の信用,知識,経験を利用でき,実質的な自分の売買を秘匿もでき,第三者は問屋の資力,信用のみに依拠して売買の成果を得られる。売買以外の取次ぎを業とする者を準問屋といい(商法558条),物品運送契約の取次ぎをなす準問屋を運送取扱人という(559条以下)。
→卸売
執筆者:大塚 龍児
港津や宿駅で,物資の運送や中継取引,宿屋を兼ねるものを,中世では問丸といった。中世後期,彼らが営業独占権を行使し,流通機構を掌握するにしたがって,だんだん問屋といわれるようになり,近世ではこれが一般化した。これは交通関係のものが多く,伝馬問屋や,船問屋などで,《節用集》に〈問屋(商人宿)〉とあり,1465年(寛正6)南部庄年貢支配日記(《高野山文書》)にも〈五百文 問屋料〉などとある。一方,物資を大量に取り集め,小売商人に卸売する問屋も消費地の都市にあらわれ,商品の種類,さらにその生産地,流通ルートによっても分化した。奈良市中の塩を独占売買した正願院塩座の問屋や,大山崎油座に属する京都市中の問屋などを見ることができる。15,16世紀には,問丸と問屋の両語が使われるが,小売と対置して,問屋的支配を行うものほど,問屋の語がよく使われるようである。
執筆者:脇田 晴子 問丸は当初運送を任としたから,越前の小浜,摂津の兵庫などの港湾や近江の大津,山城の鳥羽・桂・淀・木津などの湖や川の要衝に出現した。近世初頭まではまだ問丸の名称も残っていたようであるが,一般には問屋といわれるようになり,〈とんや〉ともいわれた。こうして近世幕藩体制下では海,湖,河畔の港町に加えて,城下町に問屋が多数出現した。都市の性格の違いによって問屋の種類や機能は多様であったし,時代とともにその性格も変化した。
生産地には買集問屋,荷積問屋,船持などがあり,集散地には荷受問屋があり,さらに荷受問屋から商品を引き受け,小売人に売り渡す仲買がいた。仲買は他地方の商人に対して大量の商品を運送することがあった。この場合名称は仲買であったが,荷積問屋(積問屋ともいった)にあたる。
近世の問屋の業態を大別すると3種に分けることができる。第1は各種の商品を取り扱う諸物品問屋とでもいうべきものである。兵庫の諸問屋,新潟の大問屋,大坂の荷受問屋,赤間関(下関)の万(よろず)問屋,清水の船問屋などである。これらは委託販売を主たる業務としていたが,倉庫業的役割も持ち,さらに旅宿業をも兼ねた。また前貸金を提供して着荷を確実にするくふうをしたり,荷主のために荷為替を組んだりした。大坂では荷受(荷請)問屋は,薩摩国問屋,土佐国問屋というように取引地方の国名を冠していた。この形態の問屋は積出地,中継地において遠隔地と取引する場合に多く認められたが,商品取引量が増大するにつれて衰微し,専業問屋が発展する傾向がみられた。また荷受問屋はその主要取扱い商品の専業問屋となる場合もあったとみられる。
第2は商品ごとに成立した専業問屋である。委託販売も行ったが,自己の計算で商品を買い取り,販売する仕込み取引も行った。近隣の生産地と取引する問屋は,早くからおおむね専業問屋化していたとみられる。近接地との取引においては商品ごとの集荷,運送が容易であったからであろう。また江戸のような消費地では,中継地において商品ごとに仕分けられて荷送りされる関係もあって,早くから専業問屋が多く成立した。大坂のように多数の消費者人口をかかえ,かつ集散地であった都市では,江戸前期に多数の荷受問屋が発生した一方,いくつかの商品については専業問屋が成立した。17世紀半ばまでに京口油問屋,江戸積油問屋のような専門商品を中継する問屋のほか,青物,生魚,塩魚,鮒,材木,綿花,綿織物などについて専業問屋ができていた。そして大坂の発展とともに正徳年間(1711-16)には約80種の専業問屋が2500軒以上存在していたことが判明している。このとき荷受問屋数は約1700軒であったが,その後荷受問屋はしだいに減少し,専業問屋はさらに増加した。
第3は加工問屋である。問屋が加工工程を包括した場合であって,みずから作業場をもつ場合と,加工工程を外部にかかえる場合とがあった。前者は資力のある職人がみずから材料を買い入れ,これを加工して販売する場合であって,角細工職,筆職,漆職等にみられた。後者は資力の乏しい職人が問屋より原料や道具を貸与されて手間賃をかせぐ場合であった。この場合,問屋は自己の計算で加工工程を掌握することになり,いわゆる問屋制家内工業を営んでいることになる。たとえば大坂,行田の足袋問屋はこれに当たる。足袋問屋は原料を買い入れ,これを裁断して,手代,丁稚らに職人の家々へ持参させ,そこで加工させ,最後に自家に持ち帰って仕上げた。加工問屋は問屋とメーカーの二つの機能をもっていたことになる。酒や醬油の醸造業者が同様の性格を備えた場合もあった。
近世経済は米納年貢の流通を基本にして組み立てられていたから,蔵物(くらもの)の流通をまず見ると,幕府や諸藩は年貢米の一部を領内で販売し,多くを大坂,江戸,京都などの大都市で販売した。米は大坂などの蔵屋敷に搬入し,それに所属した問屋または売捌人より米仲買に売却した。原則として入札販売であった。鹿児島の砂糖,土佐の紙,阿波の藍などの藩営専売の商品は産物会所,国産会所など藩の機関が問屋の機能をもち,消費地の問屋・仲買へ売却した。納屋物(なやもの)はすでに述べたように荷受問屋や専業問屋が流通のかなめとなったが,これと異なった経路もあった。大坂では納屋米は納屋物穀物問屋が引き受け,これを市中の搗米屋(つきごめや)へ売り渡し,そこから消費者の手に渡った。江戸では武家の払米(はらいまい)は,河岸八町(かしはつちよう)米仲買から脇店(わきだな)八ヶ所組米屋へ売り渡された。諸地方から江戸へ送られる米は,上方からのものは下り米問屋,関東からのものは関東米穀三組問屋を経てともに河岸八町米仲買から脇店八ヶ所組米屋,また関東ならびに奥州からのものは地廻米穀問屋から脇店八ヶ所組米屋へ売られ,搗米屋から消費者の手に渡った。
近世の商品のなかで大きい地位を占めた呉服は趣味性の強い商品であった関係もあって,蔵物・納屋物とは異なった多様な流通経路をたどった。西陣で織られた絹織物は,上仲買の手をへて下仲買(室町問屋)の手に渡り,それが消費地へ送られるのが原則的な形であったが,京都に本拠をおき,江戸へ進出して発展した大呉服商(越後屋,白木屋,大丸屋など)は,おおむね次のような形をとった。江戸に小売店を設け,そこで販売する呉服を京都で仕入れる際,室町問屋の手を通さず,西陣の地に設けた直営店を通したり,上仲買から直接購入したりした。越後屋(三井)の上之店(かみのたな)が織屋に前貸金を提供して生産者支配を行った最初の店であると伝えられている(《西陣天狗筆記》)。この場合越後屋は,産地の仲買・問屋の機能と消費地の小売人の機能すべてを兼ね備えていたことになる。越後屋などは白生地を専属の染屋に染めさせることもあった。これらの呉服屋は,生産者を支配し,直接顧客に販売する加工問屋にもあたる。
問屋は荷主や集荷の仲買人から商品を受け取り,仲買・小売の手をへて商品を売りさばくのを通例としたが,問屋と仲買の関係は業種,地域,時代により大きい差異があった。しかし近世には,いったん定着した取引経路は慣習法として幕藩権力によって認められたから,通常その経路をはずすことは不法行為であった。問屋制度は分散した小生産者と消費者とを結びつける有力な制度であったから,明治以後も日本の流通機構の中枢的な制度として存続した。1890年公布の旧商法では委託販売の業務は仲買人と規定された。このとき〈仲買人ハ契約ニ従ヒ自己ノ名ヲ用ヰ他人ノ計算ヲ以テ商業ヲ営ム商人タリ〉(456条)と規定されたが,99年公布の現行商法では,この業務は問屋営業と修正された。
外国の商品が続々輸入されるようになると,従来類似品を取り扱っていた問屋が輸入品を取り扱ったが,従来の問屋は新商品の市場開発には適合していなかった。そのためセッケン,ビール,キャラメル,自動車などの流通経路の開拓には多大の労力を要した。取扱店を指定したり,直営店を設ける方法がとられた。しかし今なお多くの商品は問屋の手を通して流通している。
執筆者:安岡 重明
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概して上方(かみがた)では「といや」と読み、江戸では「とんや」と読まれた。江戸時代以降、一般化した卸売(おろしうり)商人の呼称で、中世における問(とい)・問丸(といまる)・津屋(つや)の系譜を引く。中世の問・問丸においては商品取扱業・運送業・倉庫業が未分化であったが、江戸時代になると分化が進み、問屋は主として商品取扱業務に従事するようになり、江戸時代の流通組織のなかで中核的役割を果たした。本来の問屋は荷主から委託を受けた貨物を仲買人に売りさばくことを本務とするものであった。この種の問屋は荷受問屋とよばれ、それから貨物を自己の計算で買い取って小売商へ売る仲買人と截然(せつぜん)と区別されていた。商品によっては、荷主と問屋との間に仲買人が、問屋と仲買人との間に牙儈(すあい)・鳶(とび)とよばれる仲介人が介在する場合もあった。荷受問屋はある特定の領国のさまざまな商品を一手に取り扱う国問屋や諸物品問屋に多く、大坂に成立した薩摩(さつま)問屋・土佐問屋・松前問屋などの国問屋はその例である。
一つの問屋が雑多な商品を取り扱う場合には、問屋が小売商に直接卸売りするのは困難であったから、委託販売を主とする荷受問屋の形態をとることが普通であったが、商品流通が発達するとともに商品ごとの専業問屋が現れ、委託販売から一歩進んで自己の計算で荷主から商品を仕入れ、小売商または仲買人に再販売する問屋が現れるようになった。この問屋は仕切込(しきりこみ)問屋とよばれ、これは仲買的機能も有していたから、問屋と仲買人との区別も判然としなくなった。大坂では比較的近在の諸国からの商品の取扱いを主とする問屋、特定商品を扱う専業問屋などにそれが多かった。砂糖問屋、米問屋、藍玉(あいだま)問屋、生蝋(きろう)問屋などはその例である。問屋は商品売買を主業務とするものであるが、物資に若干の手工的加工をなしたうえで販売を行ったり、生産者に原料・用具・資金を供給してこれを援助するなど、生産的機能をもつものも少なくなかった。これらは加工問屋とよばれる。また、中央都市の大問屋は生産者や小売商に前貸しあるいは延べ払いという形態での信用を供与することも多く、この問屋金融が問屋を中心とする流通機構の基礎の一つとなっていた。問屋の多くは株仲間組織を結成したが、大坂の二十四組問屋と江戸の十組問屋は著名である。前者は大坂から江戸へ貨物を送る問屋であり、後者は江戸でそれを買い込む問屋であった。問屋の株仲間は天保(てんぽう)の改革時に解散されたが、1851年(嘉永4)復活した。
[宮本又郎]
『宮本又次著『近世問屋制度の研究』(1954・三和書房)』▽『宮本又次著『近世商業経営の研究』(1971・清文堂出版)』▽『林玲子著『江戸問屋仲間の研究』(1968・御茶の水書房)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1近世宿駅の宿役人の長。問屋場で年寄の補佐のもと,帳付・馬指(うまさし)などを指揮して宿駅業務を遂行する。名主などの地方役人・町役人を兼務することが多い。
2「とんや」とも。江戸時代に発達した商品流通機構において,倉庫業を兼務して生産者・荷主と仲買・小売商人の売買・取引を仲介する商人。自己資金で取引せず,荷主から預かった商品を保管し,販売を委託され口銭を受け取る荷受問屋や,自己資金で商品を購入し仲買や小売商人に卸売りを行う仕入問屋,また海上輸送を請け負う廻船問屋などがある。国問屋・諸色(しょしき)問屋などの荷受問屋や廻船問屋の方が,中世の問丸に通じる問屋本来のあり方だが,しだいに特定の商品を扱う専業の仕入問屋が多くなり,生産地や買付けを担当する仲買に資金を前貸しするなどして,商品流通の中枢を担った。近代以降は店舗を持つ卸売り商人を一般に問屋とよぶようになった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…江戸時代,大都市問屋商人のために,生産地にあって商品の仕入買集めの補助をなした商業組織の一種。絹,生糸,木綿,繰綿,麻,紅花などの繊維製品およびその関連原料を扱ったものにみられる。…
…取引が個々に進められても,自由な競争を通じ,取引は一定の線に固まるため,その商品の指標的な相場が形成される。市中相場は,問屋どうしの荷の融通を目的とする問屋仲間相場と,商品流通の川上から川下への経路のうちで最も需給実態に忠実な段階の取引価格を抜き出した一般卸相場に大別できる。仲間相場の対象商品は,鋼材,原糸,非鉄金属,米,雑穀などで,大部分の商品は生産者から流通業者を経て需要家へと流れるため,一般卸が市中相場の多数派である。…
…物品には有価証券を含む。他人の名をもって他人の計算で法律行為をなす代理(民法99条)に対して,自己の名をもって他人の計算で法律行為をなすことを取次ぎといい,問屋は取次ぎの引受けを業とする取次商人の一種で(商法502条11号,4条1項),その営業を問屋営業という。 問屋の起源は,世界各地で遠隔地との取引の始まったときに求めることができ,たとえば商人が遠方へ旅行する別の商人に販売すべき商品または購入にあてる金銭を預け,この者に当事者として売買することを依頼し,また旅行する商人が常宿の主人に,または外国での通訳に,当事者として売買することを依頼した事実が認められている。…
…所定の手数料を支払い,他の業者に委託して行う商品の売買のことであり,販売を委託する〈委託販売〉と,買付けを委託する〈委託買付〉に分けられる。委託売買において委託を受ける業者,すなわち受託者は,おおむね日本における商法上の問屋に該当し,自己の名義で取引を行うが,取引から生ずる損益はあくまでも委託者に帰属するのが通例である。したがって委託販売では,委託者からゆだねられた商品を自己の名義で販売し,その代金から手数料を差し引いたものを委託者に支払い,また委託買付では,買付けを委託された商品を自己の名義で買い付け,その代金に手数料を加えた金額を委託者に請求する。…
…また取扱商品の範囲によって総合卸売業・業種別総合卸売業・専門卸売業(限定品目卸売業)に,流通経路上の役割や位置によって収集卸売業(産地卸売業)・仲継卸売業(集散地卸売業)・分散卸売業(消費地卸売業),ないしは一次卸(大卸)・二次卸(中卸)・三次卸(小卸)に,発揮する機能の範囲によって全機能卸売業full‐function wholesalersと限定機能卸売業limited function wholesalersに,そして,それぞれの商圏の広がりによって全国卸売業・地方卸売業に分けられる。これらの中で,代理卸売業と限定機能卸売業については,日本ではこれまでごく限られた事例しかみられなかったが,アメリカなどの事例も含めれば,代理卸売業には,ブローカー,コミッション・ハウス(ほぼ商法上の問屋に相当するアメリカの卸売業),駐在買付代理業resident buyers,せり売買会社auction companiesや日本の商法上の問屋などがあり,限定機能卸売業には,ラック・ジョバーrack jobbers(小売店の店頭の一つのコーナーのいっさいの管理をゆだねられ,専門性を発揮する卸売業),現金払い持帰り制卸売業ないしは現金問屋cash‐and‐carry wholesalers,車積巡回卸売業truck wholesalers(wagon jobbers),直送卸売業drop shipment wholesalers,通信販売卸売業mail‐order wholesalersなどがある。 ところで現在では,問屋といえば一般の卸売業(とくに自己卸売業)という概念とほぼ同義に解する傾向がある。…
…
[成立]
願株の成立以前に,都市においては各種商人,手工業者の私的な仲間が結成されていた。町内に同職種の者が集住する場合には町単位に仲間を結んだり,同じ地方からの出店どうしが仲間となることもあったが,多くの場合,商人は同種類の商品を扱う問屋・仲買層が,手工業者は同職種の者が,数人ないし数十人を単位に仲間を形成した。仲間は行司や年番,年寄などの役員を互いに務め,定期,臨時の寄合を開き,諸種の申合せを行った。…
…また社寺への参詣や商人の往来などで宿泊者が増加するにつれ,その施設も充実した。宿には問屋(といや)がいて,伝馬を供給したり,物資の輸送を扱うようになったが,彼らはその地域の有力者が多く,大名の被官であったり,開発地主であったりした。
[近世]
伝馬制や関所の撤廃は織田信長や豊臣秀吉によって強力に推し進められたが,徳川家康によって全国的に整備されたものとなった。…
…また城下町の場合は,宿に該当するのはその一部分であることが多く,伝馬町と呼ばれた区域がそれに相当した。 宿の長を古くは長者といったが,江戸時代には問屋といい,1名または2名ぐらいいて,人馬の継立てや休泊に関する業務をつかさどった。その事務をとる所を問屋場という。…
…また市の発展は貢納物の代銭納と因果関係をもっている。戦国期には問屋と小売の分離,製造と販売の分離が進行し,山城,大和では農間副業の生産者に対する都市問屋の問屋制前貸制度まで行われた。市も毎日開催されるものや,定住店舗の市町も成立し,中心集落に収斂する傾向をもった。…
… 平安末期の京都では,東・西市が衰え,三条,四条,七条通りと,町通りの交差点に店舗ができ,定住店舗をもつ商人が増えはじめた。これらは原料仕入れ,製造・販売を一手に行うもので,問屋と小売も未分離であった。商人の多くは,院宮諸家の権門や寺社に奉仕して,供御人,神人,寄人,散所雑色などの身分を獲得し,諸国通行自由,関銭免除,治外法権の裁判特権などを獲得しており,諸国と京都を往反して,商品の交易に従事していた。…
…伝馬所または会所ともいう。宿役人の長である問屋の屋敷の一部をあてることもあり,別に設置する場合もあった。問屋が2人いれば問屋場も2ヵ所になり,問屋の数に応じた。…
…一般には問屋(といや)と小売店の中間にあって問屋から仕入れた荷を小口にして販売する中間商人をいう。問屋どうしの取引の際,中間に立って売買契約を取り次ぎ,自分の意思での売り買いはせず在庫ももたないブローカーをも含める。…
※「問屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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