日本歴史地名大系 「志津庄」の解説
志津庄
しづのしよう
日野川の支流、志津川流域一帯、
寛治四年(一〇九〇)七月一三日の太政官符(賀茂社古代庄園御厨)に、賀茂御祖社に寄付された不輸田七四五町の一部として「越前国志津庄 田地四十町」とみえる。康正二年造内裏段銭并国役引付に「九貫文」として「鴨御社領越前国志津庄段銭」、「参貫文」として「河合権祝殿鴨社領越前国志津庄段銭」とあり、さらに「親長卿記」文明四年(一四七二)一一月八日条に
とあり、鴨社領志津庄の領主として鴨社権祝河合信祐の名がみえる。また同書九日条によれば、この時、志津庄検注銭が翌一〇日の神事用として信祐に求められたが、信祐は神事用であることを否定し、そのうえ、百姓らが逃散し、徴収は不可能であると述べている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報