自己の所有地内の住民に対して政治的支配権をもつ大土地所有者。
[橡川一朗]
3世紀以降ローマ帝国の大土地所有者は小作農の自由を制限してコロヌスに転落させ、他方、皇帝から免税特権を得た。これが領主制の始まりで、西ローマ滅亡後、ゲルマン人の征服王国内に広まった。フランク王国で古典荘園(しょうえん)が成立したころ、大荘園領主は国王から独立の裁判権すなわち不入権(広義のインムニテートImmunität)を得て、領主権を完成させたといわれる。ただしその権力は、荘園内の農民に対しては名目的なものにすぎなかった。たとえば11世紀の西南ドイツのウォルムス司教領『荘民団規則』(グリム編『村法類』第一巻)第30条には、領主が殺人犯人を処罰する権限さえ行使できず、事件の決着は農民間の仇討(あだうち)にゆだねられた事実が明記されている。それは古典荘園内の標準的な農民が実は一種の富農であり、奴隷を所有する小支配者であったことによる。
フランスでは11世紀以降、地代荘園の時代に入り、富農が減少して、小農民が標準的農民となった。他方、各地に中小領主が台頭したが、新旧領主とも、依然多数の奴隷を所有して、その一部に武装させた。領主はこの武装奴隷隊をもって小農民を抑圧し、農奴制を実現した。すなわち各領主は自己の荘園内で独立の裁判権を行使し、農民から過酷な封建地代を徴収した。これに対して12世紀以後、農民の反抗が起こり、領主は地代の軽減や奴隷の解放を余儀なくされた反面、領主連合の結成に努めた。その結果、伯(コントcomte)や公(デュクduc)の称号をもつ有力領主が、中小領主を動員する権能を認められるとともに、刑事裁判権を委託された。ジャクリーの大農民反乱を機に農奴制は動揺し始めたが、16世紀以後これに備えて絶対主義が成立すると、伯などの裁判権は国王のもとに集中され、領主権は地代徴収権と若干の民事裁判権に限定され、最後にフランス革命によって否定された。
イギリスでは13世紀ごろ農奴制が成立したが、原則として刑事裁判権は国王に直属し、領主権は制限されていた。この原則は、地方的な領主連合団体が自ら裁判官を選出したため、しばしば破られたが、15世紀末の絶対主義成立によって、ほぼ実現された。領主制が絶対主義とともに廃棄されたのは、ピューリタン革命による。
ドイツでは13世紀ごろから地代荘園の時代となり、大小領主の間に裁判領主と荘園領主との区別が生まれた。しかも裁判領主の権限にも上下の別が生じ、高裁判領主は重罪裁判権およびその他の事犯や民事訴訟の最終裁判権をもち、低裁判領主は重罪以外の刑事および民事事件を裁き、また荘園領主は地代徴収権と土地関係の民事裁判権のみをもった。なお高裁判領は、13世紀には伯領とほぼ一致したが、その後細分化し、人口1万前後の法域(ラントゲリヒトLandgericht)に分かれた。他方、16世紀ごろから大領主を君主とする領邦国家が成立し、大領邦の一つプロイセンでは高裁判権は君主の手に集中した。しかし最大の領邦オーストリアでは、たとえばその支邦である上オーストリアで、1770年に中級領主に属する法域57、完全自治都市たる法域8、これに対して君主直属の法域は数個にすぎなかった。その他の領邦国家もオーストリアに似て、法域国家の連合体という性格が強かった。
そのうえ法域領主の高裁判権も名目のみで、殺人事件が依然農民・市民間の仇討によって処理されたことは、14世紀の『バッハラッハBacharach仇討法』(西南ドイツ、グリム編同上第二巻)やグロティウス『オランダ法学入門』Inleiding(三の34の6)の証言など数十編の史料によって確認できる。なおこの仇討が被害者・加害者双方の親族団による集団的戦闘であったのに対して、農民・市民の住居への侵入者は、被侵害者による切り捨てという報復を受けたが、これは単独の仇討と考えられ、その史料は1700年前後のものまで30編余に達する。
かように殺人や家宅侵入などの犯罪が私的な仇討によって処理されたのは、ドイツの農民・市民の中核が依然、奴隷所有者だったからである。すなわち1212年のエンスEnns(上オーストリア)市法および21年のウィーン市法によれば、市民は男女の奴隷を所有し、1348年のメッペンMeppen教会領史料(西北ドイツ、グリム編同上第三巻)では領主と農民とが奴隷を交換している。この奴隷はドイツ語でゲジンデGesinde(下人(げにん))とよばれ、16世紀のシュタイルSteyr荘園『荘民法』(『オーストリア村法類』第13巻)第7条によれば、富農は自己の下人を懲戒して殺す権利をもっていた。したがってドイツの領主権は、農民・市民に対して、せいぜい調停の機能を果たしたにすぎず、逆に富農や市民が小支配者として一種の領主権をもち続けたといえる。かかる農民・市民的領主権が公式に否定されたのは、プロイセンによるドイツ統一後の1872年、プロイセン『下人法』中の下人懲罰権条項が削除されたときである。しかし旧プロイセンでは貴族による下人や農業労働者への不当な支配が続けられ、このような領主権の名残(なごり)の完全な消滅は第二次世界大戦の敗戦による。
[橡川一朗]
前近代社会において、所領として土地を領有し、所領に属する農民を支配して地代を収取する者をいう。日本の場合、中世の在地領主と荘園(しょうえん)領主、近世の幕藩領主がその典型となる。それら領主は、「家」とその長を領有の主体とし、大小、貴賤(きせん)、嫡庶、聖俗、官位、職能などによって、多様な身分階層秩序に編成されていた。
日本の領主の起源は、古代の地方豪族と官人貴族に求められる。律令(りつりょう)国家の公地公民支配のもとで、私領私民の獲得は著しく制約されていたが、勢家豪民が「富豪の輩(ともがら)」として登場し、私営田・私出挙(しすいこ)で蓄積した動産を投下して土地の私的経営と開発を推し進めた結果、中世の在地領主と荘園領主が生成し発展する。一方彼らは貴族政権の位階や中央・地方の官職を領主権力の支えとし、さまざまな所職(しょしき)に任じられ、これを所領化して伝領した。領主としての所領の経営は、春の勧農、夏の検田、秋の収納、年中の恒例・臨時の雑公事(ぞうくじ)・夫役(ぶやく)の徴集を基本とし、そのほか杣(そま)、牧、狩場、浦など山野河海の支配に及ぶことが多かった。また領主権は、しばしば市(いち)や津の統制、神事・仏事の興行、領民の裁判、犯科の検断などについても行使される。さらに領主は所領の保全と伝領、回復や拡充のために、長期にわたる相論・訴訟や、押領(おうりょう)・闘乱を辞せず、公武権門の庇護(ひご)を求めて軍役その他の諸役を勤仕し、軍功の恩賞を期待して合戦に馳(は)せ参じた。
[戸田芳実]
『橡川一朗著『西欧封建社会の比較史的研究』増補改訂版(1984・青木書店)』
土地・財産などの領有者。日本においては平安時代の10世紀ごろから,この語が用いられるようになった。〈領主諸院〉(延喜4年(904)唐招提寺文書),〈御牧是有領主(中略),寺神領田畠,私人領公田,其数已多(中略),然而其領主各別也〉(康保3年(966)東大寺文書),〈吾等是此山領主丹生高野祖子両神也〉(寛弘1年(1004)前田家本高野寺縁起所収太政官符案)などと見えるのが比較的早い例である。領有の対象は田畠・山地など。領有の主体は,人間のみにはあらず,寺院または神などもあったことが知られる。ただし,領有の対象もまた,土地のみにはかぎられず,馬・鞍など財物の領主もあったことが知られる(長元7年(1034)九条家本延喜式裏文書)。
平安時代の荘園において領主とよばれたのは,本所・領家など荘園全体の所有者にあらず,荘園の現地において田・畠を領有する私人であった。本所・領家たる権門貴族に属さず,国衙の公権力にも頼ることなく,私的に田・畠の領有をおこなっていた地方・民間の人々であった。これを特に称して私領主という。また,その領有する土地を私領という。たとえば,伊賀国の東大寺領杣(そま)内における〈私領主仲子〉などの存在が知られる(永承年間(1046-53)東大寺文書)。ただし,荘園によっては私領主の存在が公認されず,〈施入の田畠において,何ぞ私領主あらんや〉〈私領主あるべからざる也〉などとの主張が本所・領家の側からなされることもあった(永保3年(1083)栄山寺文書,永長2年(1097)色川本栄山寺文書)。私領主にかわって,地主の語が用いられることもたびたびであった。荘園内における私領主(地主)には下級官人・寺僧などの都市生活者で,作人(耕作農民)から得られる加地子(地代)を生活の資とする人々が見られた。あるいはまた,農村に住み従者を駆使して営農をおこなうタイプの私領主もあった。荘園内における私領主(地主)は鎌倉時代以降においても絶えることなく,その存在を維持し続けた。それは日本中世社会における土地支配者(封建領主)の最も基本的なありかたをしめすものであった。
これらの私領主(地主)のうち,みずからの財力によって田・畠を開発(かいほつ)(開墾)し,他の介入を許さない強大な土地所有権を確立することができた者を特に開発領主とよぶ。彼らの多くは農村に本宅を構え,多数の下人・従者を駆使して,大規模な農業経営を展開した。彼らはまた,京都の本所・領家にとり入って,荘園の下司(げし)・公文(くもん)になり,あるいはまた国司と結び,郡司・郷司となるなど,政治的環境づくりにも努力したことが知られる。鎌倉幕府が成立すると,彼らの一部はその御家人となって,政治的発言力をますます強固なものにした。幕府の法律書《沙汰未練書》に,〈御家人とは往昔以来,開発領主として,武家の御下文(おんくだしぶみ)を賜る人のことなり〉〈本領とは開発領主として,代々武家の御下文を賜る所領田畠等のことなり〉と記されたとおりである。ただし,開発は田畠のみにはかぎらず,淀の魚市場などにも開発領主と称する人があったことが知られる(元応1年(1319)7月7日関東裁許状)。そしてまた,鎌倉時代には,将軍家から賜った新恩地の地頭も領主とよばれるようになった。たとえば,《御成敗式目》42条で,逃散した百姓の妻子・資財を抑留するべからずと命ぜられた領主らのうちには地頭も含まれたことが明白である。《日葡辞書》には,〈Reǒju(レャウジュ)。またはRiǒju(リャウシュ)(領主)。ある領地の主君,または,ある土地の所有者〉とあり,今日にも通用する領主の定義づけが室町~戦国期には確立していたことが知られる。なお,〈りゃうじゅ〉の訓(よ)みは《義経記》(巻七大津次郎の事),《易林本節用集》などにおいても見られた。江戸時代には,大名・小名,旗本・給人などの土地支配者を領主と称した。たとえば,〈私領百姓の訴論は其領主の裁断たるべし〉(御触書寛保集成一,宝永7年(1710)4月15日)などとあった。
→領主制
執筆者:入間田 宣夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中世ヨーロッパの土地支配者。小作人との自由な経済的契約関係によって所有地を農業経営する近代的な地主とは異なり,一般に農奴と呼ばれる不自由身分の保有農を人身的に支配しながら,所領を経営する者。その所領は,封建制の封土として主君‐家臣間で授受されたので,封建領主とも呼ばれる。領主による農民支配は重層的である。領主は,土地領主権にもとづいて支配する農民から賦役労働や貢租を徴収するだけでなく,経済外的強制とも呼ばれる身分制的支配を行って,農奴としての農民に人頭税,領外婚姻税,死亡税(マンモルト)を課し,彼らの移動や結婚,相続を制限した。さらに,バン(罰令)権と呼ばれる領域的な城主裁判権を保有する有力領主の場合には,自身の所領を超えた支配領域の農民に対しても,裁判を行い,対外防衛や対内秩序維持を名目として保護税や通行税を課し,製粉水車やパン焼き竈(かまど)などの領主保有施設の使用強制を行った。16世紀以降には,領主の法的支配の性格が弱まり,特権的な各種貢租を徴収するだけになっていった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…しかも通例封建時代と考えられる鎌倉,室町の時代とも区別する意味がこめられている。
[近世社会の特質]
基本的特質は,農業生産の担い手が小農であり,その生産物の過半を武士である領主が年貢として受け取ることである。この関係をやや内容を含めて概括すると,次のようにいうことができる。…
…このように用語は,物を支配するものの地位の性格によって変化するのである。【石井 紫郎】
[近世領主の知行]
江戸時代の領知・知行は,領主の領地に対する支配権をいう。近世の知行は,室町時代に形成された大名領地の一円知行を継承したものといってよいが,戦国大名領の知行がみずからの相続,購入,割譲などによって形成されてきたのに対し,江戸期領主(大名,旗本)の知行は,日本全土を領有する将軍から朱印状によって領地を宛行,または安堵されることによって成立した。…
…さらに東国の荘園・公領は下司(げし)・郡司の下に郷があるという単純な構成であるのに対し,西国では領家職(りようけしき)・預所職(あずかりどころしき),下司職,公文職(くもんしき)などが重層する,いわゆる〈職(しき)の体系〉を顕著に発達させているのである。 これは直接的には,それぞれの単位を請け負い,管理している郡司,郷司,名主(みようしゆ)などの領主のあり方の差異の現れとみることができるが,より根底的にはそれを支える社会の構造の違いがこの差異を生み出したものと思われる。東国においては郡司の地位を世襲する豪族的な大領主が,惣領制的な一族関係,主従関係を支えとしつつ,郡内の諸郷を一族・家臣に分与し,惣領を中心とする大武士団が広くみられる。…
…前2者すなわち聖職者と戦士的貴族は封建的支配身分であり,彼らの生活と活動はもっぱら農民の収奪のうえに成り立っていた。そうした封建的支配諸身分(のちには都市が加わる)が,農民の生産余剰を経済外的強制に基づいて体系的に収奪する体制が領主制である。それは中世社会の社会・経済的基礎をなすとともに,その政治構造をも決定的に規定するものであった。…
※「領主」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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