清水町(読み)しみずちよう

日本歴史地名大系 「清水町」の解説

清水町
しみずちよう

[現在地名]清水市かみ一―二丁目・本町ほんまち・清水町・美濃輪町みのわちようなど

清水湾に注ぐともえ川の河口部右岸に形成された湊町で、現市域の南部、清水市街中心部の南部にあたる。北は上清水村など、西は上清水村・下清水村・北矢部きたやべ村など。巴川の対岸は砂洲のむこう島。戦国時代にはすでに湊町として機能していた。

〔中世〕

天文二一年(一五五二)八月一二日の今川義元判物写(駿河志料)に「清水屋敷」とみえ、当地の屋敷三間と田地二段等が某に安堵されている。同二三年には今川義元の嫡男氏真と北条氏康の娘との婚儀に際し、北条家が西浦御領所の舟方中に、費用と荷物を伊豆国西にし(現沼津市)の湊から当地まで回漕させている(同年七月一六日「北条家朱印状」長浜大川文書)。永禄八年(一五六五)六月熊野御師道栄が「しミつ」から一八〇文の上納銭を請取っている(「道栄切紙注文」米良文書)。同一一年末から始まる甲斐武田氏の駿河侵攻・支配が進む過程で、同一三年一月二七日武田水軍に編成された海賊衆の土屋木工左衛門尉に宛行われた所領のなかに、当地の屋敷料所分八〇〇文がみられる(「武田信玄判物」早稲田大学荻野研究室所蔵文書)。西駿地域を制覇した武田信玄は、同一三年二月一五日に清水湊に陣を移し(同月二二日「武田信玄書状」高山吉重氏所蔵文書)、当地は武田水軍および駿河領国支配の拠点として、船屋敷が設けられ、対岸には江尻えじり城が構築されていった(甲陽軍鑑)。武田氏滅亡後の天正一〇年(一五八二)徳川家康は駿府に入ると、伊勢おお(現三重県伊勢市)の商人角屋を駿府に招き、清水湊に蔵屋敷・居屋敷を与えた(角屋記録)。同一七年の豊臣秀吉の小田原攻めの際、江尻と当地には二〇万石の米が運送され、蔵も構築され兵站基地として重要な役割を担った(一〇月一〇日豊臣秀吉定書写「碩田叢史」所収天正文禄慶長文草)

清水町
しみずちよう

面積:一九五・五三平方キロ

有田郡の東部にあり、粟生あお地区を除く一円は中世にはあてがわ庄、近世には山保田やまのやすだ庄とよばれた。北は生石おいしヶ峰(八七〇・一メートル)堂鳴海どうなるみ(八六九・七メートル)黒松くろまつ(六四四・七メートル)立岩たていわ(八五四メートル)と連なる長峰ながみね山脈の分水嶺によって海草郡野上のかみ町・美里みさと町と境し、南は白馬しらま(九五七・三メートル)白井しらい(九五一・七メートル)みず宝形ほうぎよう(一〇六三・三メートル)石堂いしどう(一〇八〇・三メートル)若藪わかやぶ(一一五二メートル)しろもり(一二六八・八メートル)と続く白馬山脈で日高郡美山みやま村・龍神りゆうじん村に接する。西は生石ヶ峰から稜線に沿い、大月おおつき峠を経て有田川を越え、白馬山に至る線で金屋かなや町、東は北方から白口しらくち(一一〇九・九メートル)に至る長峰山脈の支脈で伊都いと花園はなぞの村、さらに白口峰からささ茶屋ちやや(一〇七七メートル)を経て護摩壇ごまだん(一三七二メートル)に至る稜線で奈良県吉野よしの野迫川のせがわ村に接する。

清水町
しみずちよう

面積:八・八四平方キロ

御殿場市・裾野市によって南北に二分される駿東郡のうち、南部の南半を占める。東はさかい川をもって三島市と画され、西は黄瀬きせ川、南は徳倉とくら山をもっていずれも沼津市と接し、北は長泉ながいずみ町。町の中央を南東から西に狩野かの川が流れ、古くはいずみ川ともよばれ、町名の由来ともなった湧水柿田かきだ川が町の中央で狩野川に注ぐ。徳倉の矢崎やざき遺跡は弥生時代中期から後期を中心とした複合遺跡で、数多くの住居跡・土壙などが確認された。古代律令制下では東部は伊豆国田方たがた小河おがわ郷に含まれ、西部は駿河国駿河郡の玉造たまつくり郷や山埼やまさき郷の郷域であったとする説もある。中世になると町域東部に駿河国泉庄が成立、同庄はのちに北部が八幡やはた郷、同郷を除いた地は泉郷とよばれるようになり、狩野川左岸の徳倉は徳倉郷として推移した。なお黄瀬川沿いの八幡などは中世東海道の黄瀬川きせがわ宿の一部であったともいわれる。戦国時代小田原北条氏によって徳倉城(戸倉城)泉頭いずみがしら城などが築かれた。天正九年(一五八一)徳倉築城を図る北条氏とこれを阻止しようとする武田氏の戦いは戸倉合戦として知られる。

清水町
しみずちよう

面積:四〇二・一〇平方キロ

昭和三一年(一九五六)九月上川郡清水町に河西かさい御影みかげ村が合併して以後存続する自治体。十勝支庁管内の西部、上川郡南部に位置し、西は日高山脈につながり、北は上川郡新得しんとく町・河東かとう鹿追しかおい町、東から南にかけて河西郡芽室町に接する。東部を十勝川と支流の佐幌さほろ川が南流し、佐幌川支流ペケレベツ川・小林こばやし川、十勝川支流芽室川などが東流する西高東低の地形を成す。十勝川と佐幌川に挟まれた地域は南北に細長い丘陵地帯となっている。中央部を北西から南東に国道三八号が通過、これに並行してJR根室本線が走り、十勝清水駅・羽帯はおび駅・御影駅がある。

清水町
しみずちよう

[現在地名]小浜市大原おおはら

小浜城下の西端部に位置し、町並は丹後街道に沿いほぼ南北に延びる。南は青井あおい村、北は東折して今道いまみち町。西はやなぎ町。街道筋にあるため青井村との境に西口にしぐち番所(青井御門)が置かれ番家屋敷があり、当町と柳町の南側はずれには仕置場もあった。元禄一二年(一六九九)八月二〇日付清水町夫代銀帳写(野瀬家文書)には家数三八を記し、年間上納夫代銀は一三二匁四分余。

清水町
しみずちよう

[現在地名]岐阜市加納清水町かのうしみずちよう

西天神にしてんじん町の西端を北に折れたところに位置し、南北に延びる両側町。町北端は清水川に突当り、西に折れると清水西町、東に折れると清水川に沿う清水片端しみずかたはし通。町の中ほど東側から清水鍛冶屋しみずかじや町の町並が延びる。加納二六町の一で、元禄一六年(一七〇三)の加納藩による検地で、下加納村のうち二六石余が割かれて成立した新町(加納町史)。清水西町・清水片端通・清水金具屋しみずかなぐや町・清水鍛冶屋しみずかじや町も含め、単に清水町一町として把握されることも多く、下加納清水町とも称された(同書)

清水町
しみずちよう

[現在地名]日野町大窪おおくぼ 清水町

内池うちいけ町通の南を並行して走る東西路に位置し、双六すごろく町の南、日野大窪町の南端にあたる。延宝七年(一六七九)からは日野大窪町鍛冶組に所属。紺屋こんや町とも称し、当初は紺屋などの職人が多く住していたと思われる。天文一四年(一五四五)頃に日野川流路の付替えが行われるまでは、当町の南側を同川が西流していた。町割之書付写では南方二町として当町と杉杣すぎぞま(河原田町)がみえる。

清水町
しみずちよう

[現在地名]大垣市清水町

大垣城の東、なか町の東に並行して位置する南北に長い士屋敷地域。北と東と南の三方を牛屋うしや川が限る。町名は当町北端の遮那しやな院前に大垣三清水の一つに数えられる泉があったことによる(新修大垣市史)。もと高橋たかはし村のうちで、寛永期(一六二四―四四)すでに侍町となっている(寛永城下絵図)。享和四年(一八〇四)の藩士家並帳(林文書)に高橋清水町とみえる。家数は寛永期一八、宝暦三年(一七五三)一六(新修大垣市史)。明治六年(一八七三)大垣清水町と称する(濃飛両国通史)

清水町
しみずまち

[現在地名]川越市三久保町さんくぼちよう

川越城南東の清水門から仙波せんば口に至る南北道に沿う武士屋敷町。町名は徳川家康が鷹狩の際、当地の清泉を賞味したことに由来といい、清泉は以後代々の川越藩主の茶湯に使われ、旱魃にもかれることがなかったという(川越索麪)。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では長さ一一二間三尺、屋敷数一〇。家中屋敷への入口である仙波口には木戸が設けられ、木戸内に三〇〇余坪の馬溜を構え、代々藩主が修復した木戸向屋敷があった。

清水町
しみずちよう

下京区河原町通松原上ル

ほぼ南北に通る西木屋町にしきやまち通及び河原町かわらまち通の両方の両側町。町の東側は高瀬たかせ川が流れる。

平安京では京域外で、崇親すうしん院領に含まれていた。崇親院は平安末期に荒廃するが、その後は妙法院門跡領。

寛文九年(一六六九)、一〇年にかけてのかも川筋新堤築造以後、町地として開発された。寛文一二年洛中洛外大図では、既に「志水町」とみえる。また、宝永二年(一七〇五)洛中洛外絵図では当町の高瀬川沿いを「志水町裏」とよんでいる。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「清水町」とある。

町成立後も高瀬川筋の町々は京都代官小堀仁右衛門の支配下にあったらしく、年貢は銀納で蔵入地となっている(北村伝兵衛家文書)

清水町
しみずまち

[現在地名]浜松市三組町みくみちよう

浜松城の南西に位置し、南北に延びる脇町。北は武家屋敷たか町、紺屋こうや町、西は秋葉あきは町、南は東鴨江ひがしかもえ村。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳には清水谷とみえ、家数八。浜松各町書上によると町の長さ五〇間一尺余、町幅一間。横町は長さ五〇間一尺。本役家屋敷七、総家数二二、うち借屋五・借地一〇。家並を形成せず、まばらに家が建っていた。当町には古くから瓦師屋敷があり、瓦師頭が居住していた。

清水町
しみずちよう

[現在地名]津和野町鷲原わしばら

杉片河すぎかたこうの南、清水本しみずほん通の北に続く町人町。鷲原村内に形成され、そと町としてそう町と区別される。清水本通北側の両側およびこの本道と山根やまね町・かわ丁とを結ぶ東西の二筋の短い道沿いにあり、吉見氏時代の山下集落の上市かみいちと称された地に隣接し、寛永年間(一六二四―四四)以降、津和野川沿いに高い石垣をもつ芝土手が築かれた後に発展・整備されたとみられる。元禄期城下侍屋敷等絵図(津和野町郷土館蔵)では紺屋五・鍛冶四・塗師一・桶屋一と職人が多く、また美濃屋・清水屋などの商人も居住、足軽屋敷も混在していた。

清水町
しみずちよう

大正一一年(一九二二)四月に成立した現在の室蘭市の町名。絵鞆えとも半島の中央部西寄りに位置し、南は内浦湾に臨む。町名の由来は湧水があることによる。もとは室蘭区大字常盤町ときわちようの一部で、大正一一年四月に室蘭区清水町となった(「大字廃止及町名番地改称の件」昭和一六年室蘭市史)。同年八月の市制施行により室蘭市清水町となる。町内にある測量そくりよう(一九九・六メートル)は昭和三四年(一九五九)に都市計画測量山緑地に指定されたが、観光化と山麓まで宅地化が進み、自然環境が悪化しつつある(新室蘭市史)

清水町
しみずまち

[現在地名]相馬市中野なかの 清水

宇多うだ川南岸に位置し、対岸は柏葉かしやつぱ町など。清水小路・清水河原北向片しみずかわらきたむきかた小路、とおり(本町・北町ともいう東西一九五間の通り)・清水中町(南町ともいう東西一六〇間の通り)西横にしよこ町などからなり、中村城下の一部をなす。町名の由来は、この一帯から清水が湧出することにある。柏葉町の山上やまかみ口から清水橋で宇多川を越えた山上街道(中村街道)は、当町東部を経て中野村に入るが、この道は奥州西街道とも重なる。

清水町
しようずちよう

[現在地名]上野市清水町

向島むかいじま町の西南の坂下、福居ふくい町の西の坂を下った辺りの町。「茅栗草子」に京都三条さんじよう(現京都市中京区)の刀鍛冶宗近が当地の井戸の清水で利剣をきたえ、刀を伊賀小鍛冶と称したとし、「其井今にいちじるし」と記している。伊賀地方の方言で水の湧出る所をショウズという。筒井定次の治世当時、念仏ねんぶつ寺の僧が犬を斬殺した罪を負わされ、当町に庵を結んだという話も同書に記されるから、集落の成立はかなり早かったのであろう。

清水町
しみずまち

[現在地名]南陽市赤湯

赤湯あかゆ温泉の北につづく羽州街道沿いの街村で、正式には赤湯村のうち。真言宗当山派の深山しんざん寺があったので深山みやま町とよばれたという。深山寺は寿永年間(一一八二―八五)の開基と伝え、明治三年(一八七〇)廃寺となるまで、現在の烏帽子山えぼしやま八幡宮の神職新山家が住職として三三代続いたという。東正とうしよう寺も当町に属しており、深山権現とも称した深山神社には稲荷神社も合祀され、深山寺が別当となっていた。新山家蔵の天保九年(一八三八)写の赤湯開闢古実録によると、「深山七軒と呼んで七人組あり、深山権現湯神両所の別当の境内を守護するなり、境、丸森、斎藤、田口、丈日、石岡、佐藤是己氏子頭と号す。

清水町
しみずちよう

中京区河原町通二条上ル

町の西を南北に河原町かわらまち通が通り、南側は二条河原町の交差点の北側にあたる。

町名は、寛永版平安城東西南北町並之図に「しみづ丁」とみえ、以降変化はない。「坊目誌」に「中昔此地に池水あり。極めて清涼也。町名之に起る。池水の跡は法雲寺本坊の跡と云伝ふ」とある。

近世には寛文五年(一六六五)刊「京雀」によれば、当町西側に山城淀藩石川氏の藩邸があった(元禄四年京大絵図では、河原町通両側が「石川主殿やしき」と記されている)

清水町
しみずちよう

[現在地名]福井市足羽あすわ一丁目

北陸街道沿いの神宮寺下じんぐうじしも町を西に折れたところにあり、足羽山ひやく坂に至る町。百坂を登れば遊楽ゆうらく(廃寺)足羽神社に達する。百坂下には清泉の斎殿ゆや清水があり、町名はこれに由来する。「足羽社記略」に「斎殿清水 由也能志美都、今云湯屋清水、是也、、是ナリシ時、足羽社朝夕之御饌炊水ナリト」とあって、昔から俗謡に「愛宕山から清水を見れば皿に波うつところてん」と歌われる福井の一納涼地であった。

清水町
しみずちよう

中京区竹屋町通烏丸東入

東西に通る竹屋町たけやまち(旧大炊御門大路)の両側町。町の中央を南北に車屋町くるまやちよう通が通る。

平安京の条坊では、ほぼ大炊御門烏丸小路と大炊御門東洞院大路間の大路上にあたる。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「清水町」とみえ、筆描図系では以降変化はない。一方、木版図系では、寛永一八年以前平安城町並図には「(くわんとうや)西町」とあり、寛永版平安城東西南北町並之図は「への内町」、寛文五年(一六六五)刊「京雀」は「かめや町」、正徳・享保間京大絵図には「清水町」とあり、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」では東半町・西半町の二町に分れる。

清水町
しみずちよう

面積:四二・一二平方キロ

丹生郡の北東隅にあり、北から東にかけては福井市、西から南にかけては朝日あさひ町、南東は鯖江市に接する。西部には丹生山地に属する丘陵山地が分布する。東部の福井市境を日野川が北流し、この西方を、丹生山地に源を発した志津しづ川が北東に流れて当町の清水で日野川に合流する。

清水町
しみずまち

[現在地名]大津市膳所ぜぜ一丁目

中浜田なかはまだ町の町裏より西に広がる侍屋敷の西側に置かれた町。中村家蔵膳所藩明細帳に町名がみえ、家数四一。もとは青木あおき町と称していたが、享保一六年(一七三一)清水町に改称(輿地志略)。付替え前の相模さがみ川が当地を流れていたことに由来するという。

清水町
しみずまち

[現在地名]金沢市瓢箪町ひようたんまち

塩屋しおや町の東に位置し、東は勘解由かげゆ町、南は外総構堀を経て彦三ひこそ町に至り、北は岩根いわね町。両側町で地子町。当町は塩屋町中丁とも称されていた所で(金沢市史)、文政六年(一八二三)塩屋町から分立(「又新斎日録」加賀藩史料)

清水町
しみずまち

[現在地名]高砂市高砂町清水町

高瀬たかせ町の南にあり、高砂町方二八町の一つ。元禄期(一六八八―一七〇四)の高砂町図(船津家蔵)によると、北堀きたほり川から南へ二筋目の道沿いに、東の東浜ひがしはま町から西の北本きたほん町までの東西に連なる町並。安永二年(一七七三)の棟数七一・竈数一一五・店借八七、人数五一四、うち田地持七(「高砂町方明細帳写」船津家文書)

清水町
しみずまち

[現在地名]松山市清水町一―二丁目・文京ぶんきよう

松山城下町の北端に位置し、東・西・北が味酒みさけ村に接する町。南は鉄砲てつぽう町に接する。町名の初見は、延宝年間(一六七三―八一)の松山城下町図(伊予史談会蔵)。元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(同会蔵)の「外巡町弐拾三町」のなかにも明記されている。

清水町
しみずちよう

[現在地名]小樽市清水町・長橋ながはし三丁目

大正四年(一九一五)の小樽区の町名改正に伴い手宮裏てみやうら町より分立、清水町が成立。手宮仲てみやなか川が流れる。昭和一七年(一九四二)アッツ島に上陸した日本軍はアリュート族を強制移住させ、清水町に抑留している。

清水町
しみずちよう

昭和一一年(一九三六)一月上川郡清水村が改称して成立。同年の戸口は一千七六一戸・一万五一六人(清水町史)。農業は畑作物中心であったが、大正期には造田熱が高まり水稲の作付面積が拡大、第二次世界大戦後は酪農への転換が進んだ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「清水町」の意味・わかりやすい解説

清水〔町〕
しみず

北海道中南部,日高山脈東斜面にある町。 1936年町制。 56年御影村を編入。地名はアイヌ語のペケレペツ (清き流れの意) に由来。 1898年香川,福井両県人が入植したのが町の起源。十勝平野西部の酪農の中心地。テンサイ,豆類などを栽培,製糖,乳製品工場が立地。 JR根室本線,国道 38号線,274号線が通る。面積 402.25km2。人口 9094(2020)。

清水〔町〕
しみず

静岡県東部,伊豆半島基部にある町。沼津・三島両市の間にある。 1963年町制。柿田川湧水群により水資源が豊富で製紙,毛紡織,編機,自動車部品などの工業が発達。湧水は沼津市の上水道用水ともなっている。国道1号線が通る。面積 8.81km2。人口 3万1710(2020)。

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