日本歴史地名大系 「戒重城跡・戒重陣屋跡」の解説
戒重城跡・戒重陣屋跡
かいじゆうじようあと・かいじゆうじんやあと
[現在地名]桜井市大字戒重
春日神社北の地域。戒重城は南北朝時代に南朝方であった戒重西阿の城で、興国二年(一三四一)七月二日に北朝方の細川勢によって落城(渡辺源四郎実軍忠状)。暦応四年(一三四一)九月六日付の田代文書に「五月二日攻寄開地井城」、同七月付の天野文書に「六月九日、開地井竹城夜責之時、責入于高矢倉之南塀内、焼落矢倉」などとある。また当地には興福寺国民戒重氏があり、戒重城に拠ったものと思われるが、「多聞院日記」永正三年(一五〇六)八月八日条に「戒重城多武峯申合堅固相踏了」、一一日条に「今暁戒重城没落了」の記事がみえ、管領細川政元の命を受けた赤沢朝経に攻められ、いずれ廃城となったものと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報