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織田有楽 おだ うらく

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美術人名辞典の解説

織田有楽

安土桃山・江戸前期の武将。茶道有楽流の祖。信秀の十一男、信長の弟。名は長益、有楽は号、通称を源五・源五郎本能寺の変豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川家康に従う。晩年は茶道に親しみ、千利休の高弟七人の一人に数えられる。元和7年(1621)歿、70才。

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デジタル大辞泉の解説

おだ‐うらく【織田有楽】

[1547~1621]安土桃山・江戸初期の武将。信秀の子。信長の弟。名は長益。兄の死後、一時は豊臣秀吉と対立したが、のち秀吉に仕え、大坂夏の陣の直前、京都に隠棲して風流を友とした。利休高弟七人の一。有楽流の祖とされる。織田有楽斎

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

織田有楽
おだうらく
(1547―1621)

安土(あづち)桃山時代から江戸初期にかけて活躍した武将、茶人。織田信長の弟。通称源五郎、名は長益(ながます)、有楽は号。本能寺の変には二条御所にいて襲撃されたが、難を逃れている。その後、甥(おい)信雄(のぶかつ)とともに豊臣(とよとみ)秀吉に対抗するが、和解してこれに臣従、剃髪(ていはつ)して有楽と号し、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)を勤めている。秀吉の没後は徳川家康につき、関ヶ原の戦いの戦功により、大和(やまと)山辺(やまのべ)郡に3万石の知行地(ちぎょうち)を与えられたが、その後、大坂城に入り、淀君(よどぎみ)の叔父として淀君・秀頼(ひでより)母子を補佐している。大坂冬の陣後も家康との和解にあたったが、主戦派が大勢を占めるに及び、1615年(元和1)夏の陣を前にして城を去り、京都二条、ついで東山建仁寺(けんにんじ)の塔頭(たっちゅう)正伝院(現正伝永源院)を再興してこれに隠棲(いんせい)した。千利休(せんのりきゅう)も一目置く茶人で、いわゆる利休七哲の一人に加えられることもあるが、むしろ別格の存在であった。利休を越えて村田珠光(じゅこう)や武野紹鴎(たけのじょうおう)に心を寄せ、その遺跡を整備している。現在愛知県犬山城下の有楽苑(えん)にある茶室如庵(じょあん)(国宝)は、もと有楽が正伝院内につくった茶室で、その名はキリシタン受洗名ジョアンJooに由来する。なお、江戸の屋敷地にちなみ、有楽(ゆうらく)町や数寄屋(すきや)橋の名が残る。[村井康彦]

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