日本歴史地名大系 「才川七村」の解説 才川七村さいかわしちむら 富山県:西礪波郡福光町才川七村[現在地名]福光町才川七小二又(こぶたまた)村の北東、小矢部(おやべ)川西岸にある。医王(いおう)山四八ヵ寺の本坊皆(かい)(開)往(おう)寺があったといわれ、同寺に仕えた市右衛門を村の開祖とする(福光町史)。江戸初期には古舘(ふるたち)・吉下(よしげ)・太谷(ふとたに)・長沢(ながさわ)・町(まち)・石坂(いしざか)・才川の七ヵ村からなり(「太田家留帳」太田家文書)、元和五年(一六一九)の家高新帳ではふるたち(役家数四)・才川町村(役家数一六)・才川村(役家数一四)・よしけ(役家数七)・いしさか(役家数五)・長沢(役家数八)・ふと谷(役家数四)と個別に記され、いずれも広瀬組に属した。寛永一一年(一六三四)には合併されて才川七村となった(「礪波郡拾弐組村名附帳」礪波町村資料)。正保郷帳では高一千七九〇石余、田方一〇九町三反余・畑方一〇町、新田高は四七石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一千六〇二石、ほかに同五年の新田高九石があり、免はいずれも四ツ九歩。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by