日本大百科全書(ニッポニカ) 「東プロイセン」の意味・わかりやすい解説
東プロイセン
ひがしぷろいせん
Ostpreußen
東ヨーロッパのバルト海沿岸、ビスワ(ワイクセル)川からネマン(メーメル)川に至る地方の歴史的呼称。プロイセンの名はこの地の先住民バルト民族のプロイセン人に由来する。ドイツ人の東方植民の過程で、1231~83年この地はドイツ騎士団に征服され、騎士団はここに騎士団長を支配者とするドイツ騎士団国を建設した。この国は14世紀に穀物貿易で栄えたが、1410年タンネンベルクの戦いでポーランドに敗れてから勢力が衰えた。首都は最初マリエンブルク(ポーランド語名マルボルク)、のちケーニヒスベルク(ロシア語名カリーニングラード)。
1525年ホーエンツォレルン家出身の騎士団長アルブレヒトのもとで宗教改革が行われ、騎士団国は世俗のプロイセン公国となる。1618年プロイセン公の男系断絶に際し、同族ホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯がこの国を相続し、以後プロイセンはブランデンブルクと結び付いて新しい発展の時代を迎える。1701年フリードリヒ1世は神聖ローマ帝国の領域外にあったプロイセンについて王号を得、以後ブランデンブルク・プロイセン全体がプロイセン王国とよばれるようになるが、他方、元来のプロイセンは、18世紀末のポーランド分割で得られた西プロイセンと区別するため、東プロイセンとよばれてプロイセン王国の一州となった。第二次世界大戦後、東プロイセンはその北部がソ連(現ロシア)領に、南部はポーランド領になった。
[坂井榮八郎]