プロイセンという呼称は,最も広い意味では,1871年以来ドイツ帝国の中核を形成したプロイセン王国を指す。しかし,行政区域としては,この王国の北東部,すなわちポンメルン州とブランデンブルク州の東方,ワイクセルWeichsel川(ビスワ川)を越えてメーメルMemel川(ネマン川)に至る,バルト海沿いの地域について用いられる。後者の意味でのプロイセンは,さらに,ワイクセル川を境に東プロイセン(オストプロイセンOstpreussen)と西プロイセンとに大別されるが,歴史的には東プロイセンが最も古く,中世初期この地域に定住していたバルト語系のプルッセン人(プロイセン人)Prussenからプロイセンという地名が生まれた。プロシアPrussiaともいう。
プロイセン人は固有の部族宗教を奉じ,10世紀の末プラハ司教アダルベルトがこの地に布教を試みて殉教したのをはじめ,その後ポーランド王による一時的な支配とキリスト教化の努力にもかかわらず,13世紀初頭まで頑強にその政治的・宗教的な独立性を保った。1126年,ポーランドのマゾビア(マゾフシェ)公が,プロイセン人を服属させるためにドイツ騎士修道会を招致すると,皇帝フリードリヒ2世も勅状によってこの企てを是認し,占領地に対する支配権を約束した。騎士修道会は,およそ半世紀に及ぶ激しい戦闘を通じて,83年までにプロイセンの征服をなしとげ,皇帝・教皇の支持のもとで,帝国諸侯のそれに匹敵する強力な領邦主権をこの地にうち立てた。そのころ,ワイクセル川とポンメルンPommern(ポモジェ)の中間地域(ポメレレンPomerellen)には,ダンチヒを中心にスラブ人の一公国が形成されていたが,ドイツ騎士修道会は14世紀初頭これをも征服し,西プロイセンに領土を拡大した。かかる領邦形成の過程で,騎士修道会はクルム,トルン,ケーニヒスベルク(現,カリーニングラード)をはじめ多くの都市を建設し,また計画的にドイツ人農民の入植を行わせ(東方植民),ハンザ商業圏と結びつく穀物輸出を通じて経済的にも大いに繁栄し,14世紀にその勢力は絶頂に達する。
しかし,騎士修道会による領邦経営の独占は,都市や地方貴族の不満を招き,これらの勢力はポーランドに支持を求めるようになった。その結果,ポーランドとの間に戦争が起こり,1410年,ドイツ騎士修道会はタンネンベルクの戦闘で大敗を喫する。本来プロイセンに入植したドイツ人農民は,土地所有の面では身分の別を問わず騎士修道会の上級支配に服していたが,14世紀後半以来貴族身分は土地を集積して封建領主の性格を帯び,敗戦による騎士修道会の窮状を利用しつつその特権をさらに拡大せんと努めた。彼らの一部は,騎士修道会経営の利益のため商業活動を制限されることに不満な諸都市と結び,ついに54年,騎士修道会国家を離脱してポーランドの主権に服した。ここに再びポーランドとの戦争が始まり,その結果,66年,トルンの和約で西プロイセンの全域および東プロイセン内のエルムラントはポーランドに割譲され,東プロイセンの残部領域もポーランドの宗主権下に置かれることとなった。
1511年ドイツ騎士修道会総長にホーエンツォレルン家のアルブレヒトAlbrechtが選ばれると,彼は25年ルター主義に改宗,騎士修道会領を世俗化して,これをポーランド王から封土として授与され,ここにプロイセン公国Herzogtum Preussenが成立した。アルブレヒトは行政・財政を改革し,教会秩序を整え,ケーニヒスベルク大学を創立(1544)するなど,模範的な領邦君主であった。しかし68年にその位を継いだ息子のアルブレヒト・フリードリヒは暗愚なうえ,まもなく精神障害に陥ったため,相次いで何人かの摂政が置かれたすえ,1618年に至って,彼の義子にあたるブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントJohann Sigismund(ブランデンブルク選帝侯(1608以降),プロイセン公(1618-19))が,プロイセン公国を相続することとなった。
これ以後,プロイセン公国は,ホーエンツォレルン家のもとに,同君連合のかたちで,歴代のブランデンブルク選帝侯の支配をうけるが,プロイセンに対するポーランドの宗主権はなおも存続した。ようやく〈大選帝侯〉フリードリヒ・ウィルヘルム(在位1640-88)のとき,スウェーデン・ポーランド間の戦争(1655-60)に乗じて,ブランデンブルクはポーランドからプロイセン公国における完全な主権を獲得し(1657),1660年のオリバOliva和約でこの主権はスウェーデン・ポーランド両国により承認された。
プロイセン公国でも,ブランデンブルクにおけると同様,16世紀以来ユンカー(地方貴族)の農奴制的な直営地経営(グーツヘルシャフト)が発展していた。しかし,ここではケーニヒスベルクをはじめとする自治都市の勢力も強く,ユンカーと並んで身分制国家の社会的基盤を形成する。1618年以後,プロイセンの貴族と都市は,領邦君主たるブランデンブルク選帝侯に対し,ポーランドの宗主権を後ろだてとして自己の身分的諸特権をまもろうと努めた。このため,大選帝侯フリードリヒ・ウィルヘルムが常備軍と租税制度の建設にとりかかったとき,これらプロイセンの特権身分は最後までこれに抵抗し,62年,選帝侯みずから軍を率いてケーニヒスベルクに乗り込むに及んで,ようやくこの反抗をうち破ることができた。
ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(在位1688-1713)はスペイン継承戦争の開始にあたりオーストリアを支持するという交換条件で,皇帝からプロイセン公国を王国に昇格させる認可を獲得し,1701年1月18日,ケーニヒスベルクで〈プロイセンにおける国王König in Preussen〉の冠を受け,プロイセン王フリードリヒ1世となった。王号がブランデンブルクではなくプロイセンに結びつけられたのは,ブランデンブルク選帝侯が形式上は神聖ローマ皇帝の封臣であったのに対し,プロイセン公国は帝国の外部にあり,この領域においては選帝侯が完全な国家主権をもっていたためである。これ以後,ホーエンツォレルン家のブランデンブルク・プロイセン国家は,しだいにプロイセン王国と呼ばれるようになったが,もとより,それはかつてのプロイセン公国が新王国の中心になったことを意味するものではない。西プロイセンがさしあたりまだポーランド領であったことを別としても,プロイセン王国の一州としてのプロイセン(東プロイセン)の政治的な比重は,首都ベルリンを中心とするブランデンブルクに比べてずっと小さかった。
第2代のプロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム1世(在位1713-40)は,祖父の〈大選帝侯〉が創設した常備軍の兵力を飛躍的に増強したが,これに必要な多額の資金を調達するため,御料地経営と租税徴収の両面にわたって,財政機構を拡大・整備した。常備軍制と緊密に結びついて発展するこの新しい財務行政の官僚組織こそが,これまで同君連合のかたちでゆるやかに結びつけられていた諸領域を,王権のもとで集権的に統治するための,かすがいの役割を果たした。そして,絶対王政の確立にともない,財務官僚はしだいに内政の全般をも担当するようになり,各州がかつて独立の領邦だった時代の政庁は,その機能をほとんど司法にのみ制限されて,一種の地方裁判所に転化した。典型的な〈軍事・官僚国家〉としてのプロイセンの特徴がここにみられる。
3代目のプロイセン王フリードリヒ2世大王(在位1740-86)は,父から受け継いだ強力な陸軍を活用して,オーストリアからシュレジエンを奪い(オーストリア継承戦争),さらに七年戦争の危機をも乗り切って,プロイセンをヨーロッパ列強の地位に高めた。領土の面では,1772年の第1次ポーランド分割を通じて,西プロイセンを併せ,東プロイセンをブランデンブルクと結びつけることができた。内政面におけるフリードリヒの諸改革は,〈啓蒙絶対主義〉の模範とされている。しかし殖産興業や司法の近代化,学校教育の改善,宗教上の寛容政策などの成果にもかかわらず,この王のもとでもユンカーの領主支配権は侵害されることなく,貴族は軍隊における将校団として,また高級官僚として,プロイセン絶対王政のおもな支柱となった。
フリードリヒ・ウィルヘルム1世以来,プロイセンの政治は,内治外交の両面にわたって,中央政府の諸大臣から実権を奪い,国王みずからが官房Kabinettにおいていっさいを決定し命令するという,きわめて独裁的な形で行われるようになった。しかしフリードリヒ2世の没後,統治能力の乏しいフリードリヒ・ウィルヘルム2世(在位1786-97),フリードリヒ・ウィルヘルム3世(在位1797-1840)のもとで,このような体制は有効に機能せず,国民から遊離した専断的政治の悪弊のみが表面に出てきた。このため,フランス革命の影響のもと,開明的な官僚のあいだに改革の気運が高まり,イェーナの戦(1806)の大敗北に続く国家的危機のなかで,シュタイン,ハルデンベルクらすぐれた大臣の指導による一連の国制・社会改革が着手された(プロイセン改革)。中央・地方行政機構の改組,農民解放,都市自治の再建,〈営業の自由〉原則の導入などがそれである。これらの改革は,あくまで君主制の枠内で,諸大臣の責任に基づいて行われた〈上からの革命〉であったが,これによって旧来の身分制度が原理的に否定され,経済の自由化への道が開かれたことの意義は大きい。またそれと並んで行われたシャルンホルストらの軍制改革,K.W.vonフンボルトによる教育改革も,近代的な国民意識の育成を促すこととなった。ナポレオンに対する解放戦争でプロイセンが主役を演ずることができたのは,こうした改革のたまものである。
しかし,いったんナポレオンによる支配から解放されると,メッテルニヒの〈ウィーン体制〉のもとで,プロイセンはウィーン会議後結成されたドイツ連邦における政治的反動の一翼を担い,国内における改革もユンカーの勢力挽回によって頓挫を余儀なくされた。西南ドイツを中心に立憲君主制が連邦諸国で実現されつつあるこの時期に,プロイセンは,オーストリアと同様,憲法も国民代表機関としての議会ももたず,絶対主義的な統治体制を固持しつづけた。とはいえ,ウィーン会議の結果,ドイツにおける工業の先進地帯ラインラント・ウェストファーレンの領有を認められたプロイセンは,少なくも経済政策の面では,自由主義の路線をとった。この経済的自由主義が,ドイツ連邦内でのプロイセンのヘゲモニーへの志向と結びつくところに,1834年のドイツ関税同盟が生まれたのである。
この時期のドイツにはロマン主義の高揚が見られたが,ベルリンは18~19世紀のかわり目以来ロマン主義文学の一中心をなし,ケーニヒスベルク大学のカントに始まるドイツ観念論哲学も,ベルリン大学(1810創立)の講壇から,フィヒテ,ヘーゲルらによって市民層の間にひろめられた。さらに同大学は,ランケの活動を通じてドイツ歴史学の発展に指導的な役割を果たすこととなる。
1840年に即位したフリードリヒ・ウィルヘルム4世(在位1840-61)は,家父長的な国家観を奉じ,工業化の開始に伴う自由主義・国民主義の動きに対する理解を欠いていた。48年,プロイセンが三月革命(48年革命)の嵐に見舞われると,ベルリン市民の暴動におびえた王は,統一ドイツ国家の建設とプロイセン憲法の発布を約束した。しかし,新たに組織されたハンゼマンらの自由主義的な政府のもとでも,国制の根本的改革は行われることなく,早くも同年の秋以来,プロイセンはオーストリアとともに反革命運動の先頭に立つ。フランクフルト国民議会は,なおもフリードリヒ・ウィルヘルム4世に期待をかけ,ドイツ皇帝の冠を提供せんとしたが,王はすげなくこれを拒絶し,革命の挫折を決定づけた。
このように国王は〈下からの革命〉に対して君主主権の原理を貫き通したが,1849年5月の欽定憲法発布により,プロイセンもいちおう立憲君主国としての体裁をととのえた。しかし,50年代に支配的となった政治的反動の空気のなかで,国王の統帥権に服する軍部の力が強まり,官僚行政の発展を通じて経済的な自由主義がさらに促される反面,政治体制の民主化はまったく阻まれた。他方,革命の挫折後にプロイセン王が試みた諸君主の連合によるドイツ統一の計画も,オーストリアの妨害で失敗に終わり(1850年,オルミュッツ協定),革命前のドイツ連邦体制が復活した。とはいえ,経済が好況を迎え,工業化が本格化したこの時期に,ドイツ関税同盟の主導国であるプロイセンの優位は動かしがたいものとなり,多民族国家オーストリアを除外した〈小ドイツ主義〉の方向におけるドイツ統一は,すでに時間の問題であった。
1858年にフリードリヒ・ウィルヘルム4世の精神障害が悪化し,王弟ウィルヘルムが摂政になると,プロイセンの自由主義者は彼に〈新時代〉の開始を期待した。しかるにウィルヘルムは軍部の要求をいれて,プロイセン改革時代の理念をふみにじるような陸軍の改組拡充計画に乗り出したため,このころ議会で多数を占めた自由主義者と激しい対立におちいった。そこで61年,彼がウィルヘルム1世として即位すると,王はユンカー出身の保守主義政治家ビスマルクを招いて首相に任じ(1862),ここに軍事予算問題をめぐる〈プロイセン憲法紛争〉が燃え上がった。ビスマルクは議会の反対を無視して軍備拡張を強行,この軍事力と巧みな外交工作により普墺戦争でオーストリアを倒し,プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を組織,さらに普仏戦争の勝利により,南ドイツ諸邦をもこれに組み入れるかたちでドイツ帝国の建設をなしとげた。
ドイツ帝国は,なお連邦体制を維持したものの,プロイセン王が世襲の皇帝として君臨し,ビスマルクが帝国宰相に任ぜられたことが示すように,まったくプロイセン主導の国家であった。ドイツの経済がめざましく発展し,科学や技術でも世界に重きをなす一方で,プロイセンの軍国主義と保守主義的な体質は帝国の内政・外交を深く規定し,皇帝ウィルヘルム2世のもとで第1次世界大戦に突入する。大戦末期に勃発したドイツ革命により,プロイセンにおけるホーエンツォレルン家の支配はついに終りをつげた。
ワイマール共和国のもとでは,プロイセンも他の諸邦と対等の地位に置かれ,プロイセン首相とドイツ首相とは分離された。そして,民主的な議会政治が実現されたプロイセンでは,大戦前とは逆に左派の勢力が進出し,1920年から33年まで,社会民主党のブラウンOtto Braun(1872-1955)が首相の地位を占めた。しかしナチスの勢力拡大によってプロイセンのこうした新時代も短命に終わり,ヒトラーの政権掌握とともにベルリンはナチス・ドイツの首都となった。連邦制が廃止された〈第三帝国〉でも,プロイセンは名目的に自己の政府をもち,ゲーリングが首相を務めている。第2次世界大戦の敗北により,プロイセンは政治的領域として完全に解体されたうえ,オーデル,ナイセ両川以東はポーランドに,東プロイセンの北半分はソ連に併合された。
→ブランデンブルク
執筆者:成瀬 治
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プロシアともいう。元来バルト海沿岸に居住したスラヴ系のプロイセン人よりその名が生じたが,13世紀ドイツ騎士団がこの地を征服しドイツ人の国を建てた。16世紀ホーエンツォレルン家の騎士団長がプロテスタントに改宗してプロイセン公国を始めた。17世紀同じくホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯国と同君連合で結びついてブランデンブルク‐プロイセンとなったが,1701年プロイセン公国が王国に昇格したため,ブランデンブルクを含め国全体がプロイセン王国と呼ばれるようになった。18世紀フリードリヒ2世(大王)の代にオーストリアからシュレージエンを奪うなどして大国としての地位を築き,19世紀にはプロイセン‐オーストリア戦争に勝って小ドイツ主義的なドイツ統一をなしとげた。ドイツ帝国内では指導的連邦国であり,ヴァイマル共和国でも中心的な連邦州であったが,第二次世界大戦後,連合国の命令で解体,消滅させられた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
ノルウェーの児童文学作家、作詩家。ヘドマルク県リングサーケルに生まれる。1950年代にラジオ放送の児童番組で自作の物語を語り、詩を歌って人々を魅了する。のち、作家活動に専念し、物語や詩を多数発表。鋭い洞察力をもとに、弱い者の思いや、日常生活のささやかな喜びをほのぼのと軽妙に語る。からだが不意にスプーンほどに小さくなってしまう田舎(いなか)のおばさんの痛快な物語『小さなスプーンおばさん』のシリーズは57年から67年までに四巻書かれている。63年に『ミッケリクスキ・サーカス』でノルウェー社会教育省の賞を得、70年にはノルウェー児童文学への貢献に対して名誉賞を贈られる。ほかに短編集『しあわせなてんとうむし』や自伝的短編集『今は昔』などがある。
[山内清子]
『大塚勇三訳『小さなスプーンおばさん』(1972・学習研究社)』
「プロシア」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…12~13世紀には増加した人口は都市に集中しただけでなく,東ドイツ植民(東方植民)の波にのって東方に進出し,東部に大領国が建設されていった。ドイツ騎士修道会によるプロイセンの植民やブランデンブルク,プロイセン,オーストリアなど後のドイツ史において大きな役割を果たす大領国の基礎がつくられていった。しかし西部ドイツの領域では,領主制は,土地領主制,体僕領主制,裁判領主制などに分かれ,一円的支配領域を形成しにくい状況にあった。…
※「プロイセン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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