プロイセン王国(読み)ぷろいせんおうこく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「プロイセン王国」の意味・わかりやすい解説

プロイセン王国
ぷろいせんおうこく

かつてドイツの北東部を占め、ドイツ帝国内の指導国として重きをなした国。その国土は歴史的由来を異にする多数の地域からなるが、骨格をなしたのはプロイセンPreußen(英語読みはプロシアprussia、後の東プロイセン)とブランデンブルクBrandenburgである。この2邦が1618年、ブランデンブルク選帝侯たるホーエンツォレルン家の下に統合されてブランデンブルク・プロイセンとなり、1701年には選帝侯フリードリヒ3世がプロイセンに関して王号を得、初代のプロイセン国王フリードリヒ1世となった。当初王号がプロイセンに限って認められたのは、この土地が神聖ローマ帝国の領域外にあったという事情によるが、王号の重みからして、やがて全ホーエンツォレルン領がプロイセン王国の名でよばれるようになる。ただし国の中心は実際にはブランデンブルクのほうにあった。プロイセン王国にはこのほかポメラニア、クレーフェ、マルク、ユーリヒなど多数の領土があり、それらはなかば自立的な領邦として、独自の法や行政組織をもっていた。

[坂井榮八郎]

プロイセン主義と「大王」の統治

17世紀の「大選帝侯」フリードリヒ・ウィルヘルムの時代以来、常備軍制度をてこにして統一的君主権力が確立されていたが、プロイセン王国に行政制度上統一国家体制を築いたのは、2代目の国王の「軍人王」フリードリヒ・ウィルヘルム1世である。彼は総監理府を頂点とする国内財務行政の一元化を行うとともに、その財政的基礎のうえに、ヨーロッパの列強に伍(ご)する強力な軍隊を建設して、プロイセンに絶対主義国家体制を確立した。なおプロイセンの軍隊においては、兵士農民、他方将校は貴族で固められて、これは、農村グーツヘルシャフトにおける貴族領主と農民の支配‐服従関係を、そのまま軍隊に移植するものであった。そしてこの軍隊が国家生活の中心に据えられることによって、支配と服従を基調とする軍隊的規律が行政や市民生活にも浸透して、ここに「プロイセン主義」とよばれる独特の規律が、この国と国民の特徴として形成されることになる。次代の「大王」フリードリヒ2世は啓蒙(けいもう)絶対主義君主として名高いが、彼は父の残した軍隊を駆使してシュレージエン戦争と七年戦争を戦い、オーストリアからシュレージエンを奪うとともに、第一次ポーランド分割(1772)を行って国土を大幅に拡大した。プロイセンがヨーロッパの強国としての地位を固めたのはこの「大王」の時代からである。しかしこの「啓蒙された」君主の下で身分制はかえって硬直化し、すべてが上からの命令で動くこの国で、国民は国政にまったく関与させられぬままフランス革命の時代を迎えたのである。

[坂井榮八郎]

プロイセン改革以後

1806年プロイセンはナポレオン1世と戦って敗れ、領土のなかばを失って国家存亡の危機に瀕(ひん)した。このときシュタイン、ハルデンベルクらの革新派官僚が政治の実権を握り、「プロイセン改革」とよばれる国家・社会の近代化のための改革を断行した。新生プロイセンは、ナポレオンを打倒した解放戦争で中心的役割を果たし、ウィーン会議でふたたび大国としての地位を回復する。この会議でプロイセンは西部ドイツにラインラント、ウェストファーレンの2州を得たが、これはドイツにおける産業の最先進地域であって、従来グーツヘルシャフトが支配するエルベ川以東地域を中心としてきたプロイセン王国に新たな要素を付け加えるものであった。その後の反動期にプロイセンでは改革が停滞し、官僚が上から指導する体制(官僚絶対主義)のみ残ることになるが、この体制下でもプロイセンの経済政策は先進的で、1834年発足のドイツ関税同盟は、プロイセンの指導下にドイツ諸国を経済的に糾合するものであった。1848年の三月革命でプロイセンには一時カンプハウゼン、ハンゼマンなどラインラントの市民を中心とする内閣がつくられたが、同年秋には反革命派が巻き返す。しかし農民解放の完結など社会経済上の改革にはみるべきものがあり、また憲法も発布されて(1849年発布、50年修正憲法発布)プロイセンは立憲君主国になった。1850年代以降プロイセンの経済は飛躍的に発展する。

[坂井榮八郎]

ドイツ統一

1862年ビスマルクが首相になり、憲法を無視して予算なしの政治を行って紛争を招いたが、この憲法紛争中に増強された軍隊の力によって、プロイセンは対デンマーク(1864)、対オーストリア(1866)、そして対フランス(1870~71)の戦争を勝ち抜き、対オーストリア戦争後つくられた北ドイツ連邦を基礎に、プロイセンの覇権をドイツに確立する形でドイツ統一を成し遂げる。71年成立のドイツ帝国においてプロイセンは国土の3分の2を占め、プロイセン国王はドイツ皇帝となった。帝国宰相は通例プロイセン首相であり、プロイセンの軍制は全ドイツに拡大された。しかしプロイセンがドイツを制圧したこの過程は、反面プロイセンがドイツの中に解消する過程でもあって、以後ドイツと離れたプロイセンは存在しえなくなるのである。

 第一次世界大戦の敗戦と革命でホーエンツォレルン家は帝位と王位を失い、プロイセンはドイツ共和国の一州となった。第二次大戦後プロイセンは州としても解体される。それは「ドイツにおける軍国主義と反動の担い手」とされて、もはや州自治体としても存在を許されなかったのである。

[坂井榮八郎]

『林健太郎著『プロイセン・ドイツ史研究』(1977・東京大学出版会)』『F・ハルトゥング著、成瀬治・坂井榮八郎訳『ドイツ国制史』(1980・岩波書店)』


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