東方植民 (とうほうしょくみん)
Ostkolonisation[ドイツ]
狭義には,12~13世紀にネーデルラントやドイツ西部からエルベ川以東に多数の農民,市民,騎士が移動し,遠くウクライナまで足跡をのこした移住現象の全体を,東方植民(東ドイツ植民)運動とよぶ。この運動は中世後期までつづき,ひとたびとだえるが,17~18世紀に再びドイツ人の東進運動が起こる。広義には近代の東進運動を含める場合もあるが,ここでは中世の東ドイツ植民のみを扱う。
人間の大量移動現象としてみた場合,東ドイツ植民はヨーロッパ史全体のなかではけっして唯一のものではなく,先史時代からはじまり,数千年もつづけられてきた長期にわたる土地開発の一つの頂点にすぎない。東ドイツ植民と同時代のヨーロッパをみると1066年のフランドル,ノルマンディーの農民のイギリスへの移住,ロベール・ギスカールの例にみられるようなノルマンディーからのイタリア遠征とノルマン国家の建設,1100年ころにはじまり12世紀までつづくフランスの大開墾,スペインのレコンキスタ(国土回復戦争),地中海からシリアにかけ進められた十字軍の大量移動現象と十字軍国家の建設,12~13世紀に成立しつつあった都市への人々の集中,ウクライナにおけるポーランド人による植民などが目につく。ほぼ同時代に起こったこれらの人間の大量移動現象は互いに関連しあう面をもっていた。明らかにこうした運動の根底には人口の増加があった。しかし人口増加の原因そのものを探ることは困難である。われわれにわかっていることは,9世紀に入ると農業技術の発達(三圃農法の成立と有輪犂の導入)によって穀物生産高が増大し,人口増加を促したという事実である。注目すべき点はこうした人口増加をふまえて人間の移動現象が起こった場合,それがそれぞれの地域の歴史的,社会的,政治的要因に規定されてどのような社会的結果をもたらしたかという点である。
東ドイツ植民運動によってドイツは東部に新たに広大な領域を獲得し,そこに近代のドイツの政治を動かしてゆくことになるプロイセンやブランデンブルク,オーストリアなどの大領国が成立しただけでなく,西部においても農民の東方移住とその可能性の存在によって社会的対立が弛緩した点に注目させられる。12~13世紀において西部ドイツやフランドル,ホラントからエルベ川以東の地に農民が大量に移動した直接的な原因としては,西部ドイツなどにおける社会的対立の激化がまずあげられるだろう。この対立は西部ドイツでは単に封建領主による農民搾取の強化だけでなく,こうした事態に基づく農民の都市への逃亡,逃亡した農民をめぐる領主と都市共同体との争いをも包摂するものであり,さらにこうした現象の背後には領域支配権(ランデスヘルシャフト)の成立をめぐる社会的緊張があった。村落を全体として直接掌握しうるか否かが,この時点で領主権力が直面していた課題であった。村落をめぐる領主権力の争いは,一円的支配としての領域支配権の成立によって一応の決着をみたが,敗者となった騎士層は盗賊騎士となって社会不安の種をまくか,あるいは東部に移住して本国で失った権利をより大規模な形でとり戻そうとしていた。このような騎士層は東ドイツ植民の尖兵として早くからエルベ川,ザーレ川地域,ポンメルン,プロイセンへ移住し,城を築き,原住スラブ人に君臨する体制を形成しつつあり,その代表的な例がドイツ騎士修道会〈国家〉であった。領主権力相互の間での村落支配をめぐる争いは私闘(フェーデ)という形で激しく行われ,その最大の犠牲者が農民であった。賃租の引上げや私闘の被害に耐えかねた農民はしばしば都市に逃亡し,これら逃亡農民に対して領主は強制送還法を行使しようとしたが,〈都市の空気は自由にする〉という原則をもっていた都市は,この法によって農民の受入れを確保しようとした。しかしながらこの対決は,同一空間のできごとである限りで領域君主や王権が都市と農村を同時に掌握しようとするときの体制内部の編成替えの一つの過程であるにすぎなかった。
しかしながら東部ドイツへの農民の移住は,この編成替えに異なった要素をもたらした。エルベ川以東への農民の移住は強制送還法もとどかない域外への移動であり,農民がひとたび東部への移住を決意すれば,領主にはそれをとめるすべはなかった。エルベ川以東の地は,いまだ西部ドイツにおける支配者の編成替えの闘争にまきこまれていない領域であり,しかも色あせたとはいえ皇帝権,教皇権が掌握をめざしていた土地であったから,その地域への移動には大義名分もあった。エルベ川以東に農民が移住するということは,西部ドイツにおいては農民の絶対的な減少を意味し,しかもとどめようのない減少なのであった。エルベ川以東の地でははじめ農民に対して十分の一税の免除,定額貢租,移動の自由,さらに当初の免租期間などが保障されていた。この移住に参加する農民が実際に存在したために,東部に新しく大領域支配が形成される端緒がつくられたのみならず,西部ドイツの支配者も農民支配の方法の転換を余儀なくさせられた。領主は農民にある程度良好な条件を示さなければならない。その結果,農民の掌握をめぐる領主権力や領域支配権力の争いには一定の枠が与えられ,いたるところに妥協と現状維持の政策がとられることになった。こうして社会的編成替えはそれ以上進行せず,古いものと新しいものとの均衡のうえで階級対立の先鋭化が一時ひきのばされた。その結果ドイツでは,中世後期まで統一王権なしにつじつまを合わせることができたのである。
中世末期には東部でも領域支配権が確立し,ポーランドなどの国民国家が形成されつつあった。東部では領主支配権力は西部ほど錯綜していなかったから,比較的容易に近代のドイツの政治を先導することになる大領国が形成された。その過程で植民期に農民に与えられた特権が急速に狭められて,領主は農民の賦役労働による直営農場経営(グーツヘルシャフト)を発展させていった。こうした領域支配の確立によって,東部諸領域は西部から農民を誘引する魅力を失い,14世紀には東ドイツ植民運動は実質的に停滞せざるをえなくなっていった。東ドイツ植民によってほぼ250年の間決定的な社会的対立,編成替えの進行を引延されていたドイツ中世後期の社会は,15世紀に西欧と東欧に国民国家が台頭したとき,みずからの国家と社会の編成替えの課題を,東部をも含む二元的社会構造をもつ国家のなかで,一挙に遂行しなければならない状況に追いつめられていた。しかしながらこの問題の解決は容易ではなく,ついに19世紀までもちこされることになる。東ドイツ植民の過程でマクデブルク法などドイツの都市法が東欧に伝えられ,東欧の都市法制の基礎となっていった。東欧独自の自生的な非農業経済の中心地としての都市の萌芽もあったが,それらものちにはドイツ的な都市法の影響をうけていった。こうして東ドイツ植民は東欧における国家形成にも少なからぬ影響を与えたといえる。
執筆者:阿部 謹也
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東方植民
とうほうしょくみん
Ostkolonisation ドイツ語
12世紀初頭より14世紀まで行われたドイツ人の東方スラブ人居住地域への植民事業。東ドイツ植民運動ともいう。主として東部国境地域の領邦君主によって植民が推進された前期(13世紀初頭まで)と、ドイツ騎士団が中心となってプロイセンの征服、植民が行われた後期とに分けられる。
民族移動後のゲルマン人の定住地域の東境は、ほぼエルベ川とその支流ザーレ川、ボヘミアの森とバイエルン東境を連ねる線であり、それ以東はスラブ人の居住地であった。10世紀以降、この地域のキリスト教会が精力的に活動を行い、多数の司教座が建設され、後の東方植民の前提がつくられたが、バイエルンに隣接する南部地域を除けば、植民活動はあまり進展せず、とくに983年のスラブ人の大反乱の結果、エルベ、オーデル両川間に設置された、ザクセン東方の諸マルクも放棄せざるをえなかった。ところが12世紀初頭以来、活発な植民活動が再開され、本格的な東方植民運動が展開される。
この時代は、ドイツ本国でも都市の発展、国内開墾の盛行などから知られるように、一種の経済成長がみられた時期であり、それに伴う急激な人口増加によって生み出された過剰人口が、東方植民の形で流出した。ザクセンのハインリヒ獅子(しし)公、ノルトマルク(後のマルク・ブランデンブルク)の辺境伯アルプレヒト、マイセンとラウジッツの辺境伯コンラートなど東部国境地域の大諸侯たちが、東方に支配領域を広げて、それぞれの領国を形成すべく、積極的に植民を誘致し、植民村落の設置と、要地に都市建設を行った功績は大きい。1147年以降、これら諸侯が共同で、エルベ川とオーデル川に挟まれた地域のスラブ人(ドイツ人はこれをウェンド人Wendenとよぶ)に対する征服戦争(対ウェンド十字軍)を敢行した結果、先住民の組織的抵抗という最大の障害が除かれ、以後植民運動は津波のような勢いで進行した。
13世紀の前半以降は、植民運動の主役としてドイツ騎士団が加わる。1226年、プロイセン人の抵抗に手を焼いたポーランドの大領主コンラートが、彼らのキリスト教化を騎士団に委任したのがきっかけで、1283年までに、騎士団はプロイセン全域を征服し、ポーランド王の名目的宗主権の下にたつが、事実上はほとんど独立国家といえるドイツ騎士団領をつくりあげた。
領邦諸侯や騎士団は、実際の植民事業の遂行をロカトールLocatorとよばれる請負人にゆだねた。ロカトールは、ドイツ本国において植民者を募集し、彼らを率いて植民村落の建設を行った。ロカトールは村長として裁判権などの特権を賦与され、村民から地代を徴収して、領主である諸侯や騎士団に納めた。植民地域の建設都市のうち、バルト海沿岸の海港都市や比較的大きな商業都市のように、ハンザ都市その他本国の都市が母都市となり、母都市の商人団が娘都市Tochterstaadを建設したものもあるが、内陸の中・小都市の多くは、植民村落の場合と類似の方法で、ロカトールの請負により建設された。
第二次世界大戦後、東方植民の歴史的評価をめぐり、この地域の経済や文化の向上に寄与した点を強調する旧西ドイツの歴史家と、侵略的植民地化にすぎないと否定的に評価する旧東ドイツや社会主義圏の歴史家との間で、見解が対立している。当時の西ドイツで、東方植民のかわりに、「東方移住」(OstsiedlungないしOstbewegung)という表現が用いられるようになったのは、これと関係している。
[平城照介]
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東方植民【とうほうしょくみん】
中世ドイツで行われたエルベ川以東への植民運動。この地域は民族大移動後スラブ人が占領したが,12世紀以後諸侯の主導下にドイツ人の東方進出が本格化。最盛期は13世紀前半。ドイツ騎士修道会によるプロイセン地方の軍事的征服を除けば,大半は平和的入植だった。西方からの農民誘致のため,賦役の免除や自由な土地保有権など各種の特権を付与した。植民は旧神聖ローマ帝国領の半ばを越える新領域をドイツに付加し,政治の重心は東方へ移動した。14世紀来植民は停滞し,15世紀ポーランドの軍事攻勢で大幅に後退した。
→関連項目グーツヘルシャフト|トランシルバニア|ハインリヒ[獅子公]|ポーランド
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東方植民
とうほうしょくみん
Ostdeutsche Kolonisation
12~14世紀に行われたエルベ,ザーレ両川以東の地への西部ドイツ人の大量植民。エルベ以東の地方は,民族大移動前ゲルマン人の居住地域であったが,その後スラブ人 (ベンド人) により占拠された。このスラブ人に対しドイツ諸皇帝は武力で支配しようと企てた。ハインリヒ1世のブルクワルト (堡城) の設置,オットー1世 (大帝) によるザクセン人の辺境伯設置などその例である。 12世紀ザクセン朝最後の王ロタール2世は,エルベ川以東の地にドイツ騎士とキリスト教化したベンド人より成る辺境領を設定した。彼らはその支配強化と土地開発を目指して,有利な条件で西ドイツの農民に移住を呼びかけ,これに応じて西部ドイツ,フリースラント,フランドル各地から大規模な集団移住が行われた。このときシトー会をはじめとするキリスト教修道会は,異教徒のキリスト教化と荒地開墾に成果を残した。 13世紀以後,移住は散発的となったが,現状不満の農民たちが移住し,村落を設け,また新来のドイツ市民によって多くの都市も創設された。ブランデンブルク=プロシア,ザクセン公国などは,この植民の結果,生れた東方の大領邦である。
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東方植民(とうほうしょくみん)
Ostdeutsche Kolonisation
12~14世紀に行われたエルベ川以東の地への西部ドイツ農民の植民。オストエルベの地はもとゲルマン人の居住地だったが,民族移動後代わってスラヴ人(ヴェンド人)が占拠していた。12世紀皇帝ロタール3世(在位1125~37)は辺境伯領設置など積極的に諸侯を東方へ送り込んだ。彼らは自己の支配権強化と土地開発のため,有利な条件をもって西ドイツの農民に移住を呼びかけ,多くの建設都市を興した。貧しい農民の大規模な集団移住はオストエルベを再びゲルマン化したが,異教徒のキリスト教化と軍事的制圧のうえで,シトー修道会とドイツ騎士団の果たした役割は大きい。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
東方植民
とうほうしょくみん
Ostdeutsche Kolonisation
12〜14世紀にかけて行われたエルベ川以東のスラヴ人居住地へのドイツ人の植民運動
ハインリヒ獅子 (しし) 公のリューベック司教区建設に始まり,征服と開拓農民の進出に伴って司教区が増加した。この結果,ドイツ騎士団領が成立してこの地域がドイツ化され,プロイセンの起源となるとともに,今日まで民族問題を残すことになった。
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世界大百科事典(旧版)内の東方植民の言及
【ザクセン】より
…しかし,12世紀初頭にドイツ人の開墾,入植活動がはじまり,それが同世紀の後半から,王権を含む諸領主の指導下に爆発的な勢いで進展したことにより,この地方の様相は急激に変貌する。すなわち,ザーレ川,エルベ川の間の地域には主としてチューリンゲン出身の農民により,またエルツ山地からなだらかに北へくだる高地には,東フランケンや北バイエルンからやって来た入植者により,競うようにして村落が開かれ,その間の交通上の結節点には多くの建設都市も誕生した([東方植民])。加えて,エルツ山地に発見された豊かな銀鉱の開発が13世紀に入ると大規模化するなど,この地方の人口は200年足らずの間に10倍以上にもなったといわれ,ここにまったく新しいドイツの一地方が出現することになったのである。…
【住居】より
…さらに構造体だけでなく,窓,建具,設備機器の多くが工業製品となることによって,住宅は風土,伝統に根ざして生み出されてきたというその歴史的性格を大きく変えつつある。[集合住宅]【鈴木 博之】
【東欧】
[ポーランド平野の中世都市と住居]
ポーランド平野は北ドイツ平原に連なり,12世紀以降ここを舞台にいわゆる[東方植民]が行われた。ドイツ人商工業者は卓越した資力と技術をもち,聖俗両界が領主の援助のもとに新しい都市を次々と建設した。…
【チェコ】より
…13世紀半ば,チェコはバーベンベルクBabenberg家の断絶(1246)に乗じてオーストリア公領を奪い,ハンガリーを破ってさらに領土を拡大したが,オーストリアの領土回復を願うハプスブルク家との争いを招くことになる。 このようにチェコが中欧における一大強国になった背景には,ハンガリーやポーランドとは異なりモンゴル襲来に遭わなかったために国土の荒廃を免れたことと,13世紀に隆盛をみたドイツの[東方植民]があった。国王は財政政策の一環としてドイツ人の農民,職人,市民の移住を奨励し,都市建設や鉱山開発に彼らを従事させた。…
【プロイセン】より
…そのころ,ワイクセル川とポンメルンPommern([ポモジェ])の中間地域(ポメレレンPomerellen)には,ダンチヒを中心にスラブ人の一公国が形成されていたが,ドイツ騎士修道会は14世紀初頭これをも征服し,西プロイセンに領土を拡大した。かかる領邦形成の過程で,騎士修道会はクルム,トルン,ケーニヒスベルク(現,[カリーニングラード])をはじめ多くの都市を建設し,また計画的にドイツ人農民の入植を行わせ([東方植民]),ハンザ商業圏と結びつく穀物輸出を通じて経済的にも大いに繁栄し,14世紀にその勢力は絶頂に達する。 しかし,騎士修道会による領邦経営の独占は,都市や地方貴族の不満を招き,これらの勢力はポーランドに支持を求めるようになった。…
※「東方植民」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」