日本大百科全書(ニッポニカ) 「東廠・西廠」の意味・わかりやすい解説
東廠・西廠
とうしょうせいしょう
中国、明(みん)代宦官(かんがん)の官署。東廠は、成祖永楽帝によって1420年に創設され、以後1644年の明滅亡時まで存続した。東廠の長である提督東廠には皇帝親任の宦官1人が任ぜられ、その下に貼刑(ちょうけい)2人、檔頭(とうとう)100余人、番役1000余人があり、貼刑以下は錦衣衛(きんいえい)から選抜してあてた。東廠は錦衣衛と同様に、ひそかに官民の動静を探り、謀逆、妖言(ようげん)、大姦(たいかん)、大悪などを犯す者を逮捕する権限を与えられた。成化帝は、李(り)子竜事件のあと、スパイ政治の強化の必要を感じ、1477年、別に西廠を設け、宦官汪直(おうちょく)に統轄させた。5年後汪直の没落とともに廃止されたが、1506年宦官劉瑾(りゅうきん)が権力を得るとふたたび西廠を開いた。しかし、1510年劉瑾が失脚し刑死すると廃止された。結局、東廠のみが永続し、西廠の設置は前後2回10年ほどにすぎなかったが、両廠は専横を極め、明一代を通じて恐怖と怨嗟(えんさ)の的であった。
[川越泰博]