気仙郡(読み)けせんぐん

日本歴史地名大系 「気仙郡」の解説

気仙郡
けせんぐん

面積:四七四・二九平方キロ
三陸さんりく町・住田すみた

県の南東部に位置し、西は江刺市・東磐井ひがしいわい大東だいとう町、南は陸前高田りくぜんたかた市、北は遠野市・釜石市、東は太平洋に臨む。郡中央部に大船渡おおふなと市が入込み、東の海岸部三陸町と西の山間部住田町に分断される。海岸部を国道四五号が南北に走り、大船渡さかり町から住田町世田米せたまいを経て北西へ国道一〇七号が向かう。三陸町の沿岸部をほぼ南北に南リアス線が縦断している。旧郡域は大船渡市・陸前高田市および釜石市南端部を含んでいた。郡名の初見は「日本後紀」弘仁元年(八一〇)一〇月二七日条で、「気仙けせ郡」とみえる。

〔原始〕

住田町は北上高地に囲まれ、気仙川とその支流によりつくられた沖積地・河岸段丘上にあり、石灰岩地帯の洞窟遺跡が多い。これに対し三陸町は陸中海岸の南部に位置し、天然の漁場を成す綾里りようり越喜来おきらい吉浜よしはまの各湾をかかえ、貝塚遺跡が多い。旧石器時代の遺物・遺跡は発見されていない。縄文時代の早期の遺跡としては住田町上有住かみありす蛇王洞じやおうどう洞穴・小松洞こまつどう洞穴がある。前者は蛇王洞II式土器とよばれる早期土器の標式遺跡。後者は未発掘であるが早期から晩期までの土器片と人の歯、獣骨などが採取されている。前期遺跡には三陸町綾里の宮野みやの貝塚があり、晩期までの複合遺跡で、後期になると墓地に使用されたと考えられる配石遺構が認められる。後・晩期の遺跡としては住田町世田米の湧清水わきしみず洞穴、三陸町綾里の野々前ののまえ貝塚があげられる。前者には早期から弥生時代までの土器片がみられるが、中心は後・晩期である。この遺跡からは人骨の出土が多く、縄文時代の人骨二七体、室町時代の人骨二体が含まれ、洞窟の奥は墓地として使用されていた。後者からは土器・石器・骨角器のほか人骨も出土している。弥生時代以降の遺物は、湧清水洞窟にみられる弥生式土器片のほかは見当らない。

〔古代〕

弘仁元年一〇月二七日、わたり(北海道)から狄二〇〇余名が気仙郡に来着したことが陸奥国衙から報告された。国衙では所管外であるとして帰るよう促したが、狄らは冬季は海を越えるのが難しいとして春になってからの帰郷を望んだという。朝廷は春までとどまることを許し、衣と食料を与えるよう陸奥国衙に命じた(日本後紀)。建郡の時期は同年よりさかのぼるとみられる。大同三年(八〇八)撰の「大同類聚方」には衣太手きぬたて神社所伝の介前薬を奉納した「気仙郡気瀬直麻呂」がみえる。この気瀬氏をのちの気仙金氏の遠祖にあたるとする説もあるが、推量の域を出ない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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