藤原秀衡(読み)フジワラノヒデヒラ

デジタル大辞泉 「藤原秀衡」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ひでひら〔ふぢはら‐〕【藤原秀衡】

[?~1187]平安後期の陸奥むつ豪族基衡の子。鎮守府将軍。平家滅亡後は、源義経をかくまって頼朝対抗奥州藤原氏3代の栄華頂点をつくった。

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精選版 日本国語大辞典 「藤原秀衡」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ひでひら【藤原秀衡】

  1. 平安末期の陸奥の豪族。出羽押領使基衡の子。平泉に館を構え、白河関以北を支配、鎮守府将軍となる。平氏滅亡後も頼朝に従わず、義経を庇護して屈せず、子泰衡に義経擁護を命じて死んだ。京都文化を移植して嘉勝寺無量光院をつくり、奥州藤原氏三代の栄華の頂点を示した。遺骸は中尊寺金色堂に収められている。文治三年(一一八七)没。

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原秀衡」の意味・わかりやすい解説

藤原秀衡 (ふじわらのひでひら)
生没年:1122-87(保安3-文治3)

平安末期の東北地方の武将。父は藤原基衡。1170年(嘉応2)5月25日鎮守府将軍,従五位下となり,81年(養和1)8月25日陸奥守,従五位上となる。83年(寿永2)にも鎮守府将軍だった。陸奥守との兼官かと思われる。奥州藤原氏の3代目として,奥羽一円におよぶ支配を確立した。源義経の保護者としても有名。それは74年(承安4)から80年(治承4)までと,85年(文治1)からその死にいたるまでの,2度にわたる。源平争乱の中で,平家および朝廷から関東の源頼朝背後をつくことを期待され,地方豪族としては異例の国守(陸奥守)への任命が行われたりしたが,ついに平泉を動かなかった。その間京都では,秀衡は2万余騎を率いて白河関を出たとか,頼朝が秀衡の娘をめとる約束をした,つまり両者は和睦したとかのうわさが流れていた。しかし秀衡が頼朝追討の請文(うけぶみ)を提出していたことは事実であり,また83年閏10月には平家追討中の源義仲に対し,協力して東西から頼朝を攻めようと進言したともいう。事態を静観してばかりいたわけではないのである。86年4月,頼朝の呼びかけに応じて表面的にはその勢力下に入ったが,なお独立性を保っていた。死にのぞんで,国衡,泰衡の2子および源義経に互いに異心のない旨の起請文(きしようもん)を書かせ,2子に対しては義経を主君として仕えるよう遺言したという。しかしその1年半後,泰衡は義経を討ち,頼朝により奥州藤原氏は滅亡した。平泉に宇治平等院を模した無量光院(むりようこういん)を建立。その東門に一郭を構え,伽羅御所(きやらのごしよ)と号して常の居所としていた。その遺体中尊寺金色堂に葬られているが,1950年の調査によれば胸は幅広く,厚く,骨格からは弓術など武芸の強行のあとがうかがわれ,肥満型で,身長は160cm前後であったという。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原秀衡」の意味・わかりやすい解説

藤原秀衡
ふじわらのひでひら
(1122―1187)

古代末期東北の武将。清衡(きよひら)の孫、基衡(もとひら)の子。鎮守府将軍。陸奥守(むつのかみ)に任ぜられて、平泉(ひらいずみ)政権を北方の独立王国の地位に高めるとともに、平氏、源氏と並ぶ第三の政治勢力として評価されるまで権威あるものにした。

 1170年(嘉応2)彼が鎮守府将軍に任ぜられたときには、心ある公家(くげ)はこれを「乱世の基」であると評した。なぜなら、陸奥現地の者はこの職に任じない規定だったからである。また源平合戦のさなか81年(養和1)陸奥守に任命されるが、これは、前例のない東北政治の地元委譲として論議をよんだ。平家は鎌倉の源頼朝(よりとも)を牽制(けんせい)し、頼朝を征討できる唯一の東国勢力として秀衡を評価し、この地位につけて鎌倉を謀ろうとしたのである。秀衡は一方で京都とこのように結ぶとともに、他方では86年(文治2)鎌倉とも友好協定を結んで、平泉のバランスとしての地位を確立している。晩年、頼朝に追われている義経(よしつね)をかくまい、死後、彼と子泰衡(やすひら)らとの協力による平泉の独立を策したが、これはかえって平泉滅亡の因となった。無量光院を建てている。文治(ぶんじ)3年10月29日死去。

高橋富雄

『高橋富雄著『奥州藤原四代』(1958・吉川弘文館)』

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百科事典マイペディア 「藤原秀衡」の意味・わかりやすい解説

藤原秀衡【ふじわらのひでひら】

平安末期の陸奥(むつ)の豪族。奥州(おうしゅう)藤原氏の第3代。基衡の子。1170年鎮守府(ちんじゅふ)将軍となり,源氏の挙兵後,平氏から源頼朝討伐に誘われたが動かず,平氏滅亡後は源義経をかくまい頼朝に対抗した。ミイラ化した遺体は中尊寺金色堂に現存
→関連項目歌津[町]金売吉次白水阿弥陀堂平泉無量光院跡柳之御所跡

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朝日日本歴史人物事典 「藤原秀衡」の解説

藤原秀衡

没年:文治3.10.29(1187.11.30)
生年:保安3(1122)
平安末期の武将。奥州藤原氏の3代。父は藤原基衡。母は安倍宗任の娘。父基衡の死のあと陸奥・出羽押領使。嘉応2(1170)年,鎮守府将軍,従五位下。養和1(1181)年,陸奥守,従五位上。源義経の保護者として有名。治承・寿永内乱の中で,源頼朝の背後をつくことを期待されて,地方豪族としては異例の国守に任ぜられるが,結局,兵をあげなかった。しかし頼朝追討の請文を提出したのは事実であり,また平家追討中の木曾義仲に呼応して頼朝を討とうと呼び掛けたともいわれる。平泉に宇治平等院の鳳凰堂を模して無量光院を建て,その東門のところに加羅御所をつくって常の居所とした。またその北に平泉館という宿館を構えていたが,それは奥羽支配の政庁というべきもので,いま柳之御所跡と称している場所がそれである。発掘調査の結果,そこからは大きな堀で囲まれた館の跡が発見された。内部には園池をともなう建物群があり,陶磁器など貴重な遺物が出土した。死に際して,義経を大将軍として一致結束するよう,子息の泰衡らに遺言したが,泰衡は義経を攻め,2年足らずで藤原氏は滅亡してしまった。遺体は中尊寺の金色堂におさめる。身長160cm前後,胸は幅広く,厚く,肥満型であった。血液型はAB型。死因は骨髄性脊椎炎または脊椎カリエスといわれる。<参考文献>朝日新聞社編『中尊寺と藤原四代』,高橋富雄『奥州藤原氏四代』,平泉文化研究会編『奥州藤原氏と柳之御所跡』

(大石直正)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原秀衡」の意味・わかりやすい解説

藤原秀衡
ふじわらのひでひら

[生]? 平泉
[没]文治3(1187).10.29. 平泉
平安時代末期~鎌倉時代初期の陸奥の豪族。基衡の子。父の跡を継いで奥州に勢力を張り,奥州藤原氏の最盛期を現出した。嘉応2 (1170) 年鎮守府将軍に任命され,源頼朝の挙兵後,養和1 (81) 年陸奥守に任じられて,頼朝の背後を突くことを命じられたが動かなかった。平氏滅亡後も頼朝にとって隠然たる敵対勢力を形成し,頼朝と対立した源義経を平泉にかくまった。死にのぞんで,子の国衡,泰衡に,義経を主君と仰いで結束し頼朝攻略の策をめぐらすよう遺言したと伝えられる。秀衡も父祖の例にならって,無量光院を建てた。彼の遺体はミイラとなって中尊寺金色堂に収められている。 (→平泉文化 )  

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原秀衡」の解説

藤原秀衡 ふじわらの-ひでひら

1122-1187 平安時代後期の豪族。
保安(ほうあん)3年生まれ。藤原基衡(もとひら)の子。母は安倍宗任(むねとう)の娘。奥州藤原氏の3代。鎮守府将軍となり,養和元年(1181)平氏政権に同盟を期待されて陸奥守(むつのかみ)に任じられる。源平争乱では中立をまもるが,のち源頼朝に反した源義経を平泉で保護した。義経を主君とする一族の結束を遺言し,文治(ぶんじ)3年10月29日死去。66歳。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原秀衡」の解説

藤原秀衡
ふじわらのひでひら

1122~87.10.29

平安末~鎌倉初期の武将。奥州藤原氏3代目の当主。基衡の子。母は安倍宗任の女。1170年(嘉応2)従五位下,鎮守府将軍となる。81年(養和元)従五位上・陸奥守。平泉を拠点として陸奥・出羽両国に強力な支配を展開した。源平争乱に際しては,双方から誘いをうけたが動かなかった。源義経の保護者で,源頼朝の追討令が出たのちも義経をかくまったことが,平泉攻めの口実となった。無量光院を建立。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原秀衡」の解説

藤原秀衡
ふじわらのひでひら

?〜1187
平安末期の陸奥国の豪族。奥州藤原氏第3代
清衡の孫。鎮守府将軍・陸奥守に任命され,平泉を本拠に奥州に勢威をふるった。亡命した源義経を保護して頼朝に従わなかった。遺骸はミイラとして中尊寺金色堂に納められている。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原秀衡の言及

【奥州藤原氏】より

…平安時代末期(11世紀末~12世紀末)の東北地方の豪族。藤原清衡,基衡,秀衡,泰衡の4代をいう。清衡,基衡,秀衡3代のミイラ化した遺体と泰衡の首が岩手県中尊寺金色堂の須弥壇の下に葬られている。奥州藤原氏は,かつては蝦夷の出身でアイヌの血をひくものと考えられていた。しかし初代清衡の父の藤原経清は俵藤太秀郷の子孫で,系譜的には中世の武士に多い秀郷流藤原氏である。1950年に行われた遺体調査の結果も,彼らがアイヌ人らしくないことを明らかにした。…

【平泉文化】より

…平安時代末の12世紀,奥州藤原氏代の保護のもとに,その居館のあった平泉を中心に開花した仏教文化。平泉は,その盛時には中尊寺(ちゆうそんじ),毛越寺(もうつじ),無量光院(むりようこういん)などの大寺院が甍(いらか)を並べ,日吉,白山,祇園,王子,北野天神,金峰山,今熊野,稲荷などの諸社が計画的に配置された都市であった。 中尊寺は藤原清衡(きよひら)によって1105年(長治2)に着工され,26年(大治1)3月24日に落慶供養が行われた天台系の寺院で,このときの堂宇は,供養願文によれば三間四面の檜皮葺堂1宇,三重塔3基,二階瓦葺経蔵1宇,二階鐘楼1宇というものであったが,《吾妻鏡》の文治5年(1189)9月17日条では,寺塔60余宇,禅坊300余宇といわれている。…

【猛者】より

…特別の技能をそなえた勇者という点では新興の武士階級の〈名ある武者(むしや)〉をさすし,これに威徳・富裕ということもあわせみると,武力に富んで各地で威勢を張っていた〈富豪の輩(やから∥ともがら)〉が〈猛者〉像の中心をなしたのがわかる。文献に現れた初期の一例は奥州の豪族であった藤原秀衡(ひでひら)に関するもので,〈奥州猛者藤原秀平(衡)真人(まひと)〉といわれている(《東大寺造立供養記》)。〈もさ〉の語は,その道その道で難関にも敢然と立ち向かい,闘いつづける気概・実力・技能を兼備した〈つよい男性〉を比喩的に表現する語として,今日もなお用いられている。…

※「藤原秀衡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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