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藤原秀衡 ふじわらのひでひら

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原秀衡
ふじわらのひでひら

[生]? 平泉
[没]文治3(1187).10.29. 平泉
平安時代末期~鎌倉時代初期の陸奥の豪族。基衡の子。父の跡を継いで奥州に勢力を張り,奥州藤原氏の最盛期を現出した。嘉応2 (1170) 年鎮守府将軍に任命され,源頼朝の挙兵後,養和1 (81) 年陸奥守に任じられて,頼朝の背後を突くことを命じられたが動かなかった。

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デジタル大辞泉の解説

ふじわら‐の‐ひでひら〔ふぢはら‐〕【藤原秀衡】

[?~1187]平安後期の陸奥(むつ)の豪族。基衡の子。鎮守府将軍。平家滅亡後は、源義経をかくまって頼朝に対抗。奥州藤原氏3代の栄華の頂点をつくった。

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百科事典マイペディアの解説

藤原秀衡【ふじわらのひでひら】

平安末期の陸奥(むつ)の豪族。奥州(おうしゅう)藤原氏の第3代。基衡の子。1170年鎮守府(ちんじゅふ)将軍となり,源氏の挙兵後,平氏から源頼朝討伐に誘われたが動かず,平氏滅亡後は源義経をかくまい頼朝に対抗した。
→関連項目歌津[町]金売吉次白水阿弥陀堂平泉無量光院跡柳之御所跡

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原秀衡 ふじわらの-ひでひら

1122-1187 平安時代後期の豪族。
保安(ほうあん)3年生まれ。藤原基衡(もとひら)の子。母は安倍宗任(むねとう)の娘。奥州藤原氏の3代。鎮守府将軍となり,養和元年(1181)平氏政権に同盟を期待されて陸奥守(むつのかみ)に任じられる。源平争乱では中立をまもるが,のち源頼朝に反した源義経を平泉で保護した。義経を主君とする一族の結束を遺言し,文治(ぶんじ)3年10月29日死去。66歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原秀衡

没年:文治3.10.29(1187.11.30)
生年:保安3(1122)
平安末期の武将。奥州藤原氏の3代。父は藤原基衡。母は安倍宗任の娘。父基衡の死のあと陸奥・出羽押領使。嘉応2(1170)年,鎮守府将軍,従五位下。養和1(1181)年,陸奥守,従五位上。源義経の保護者として有名。治承・寿永内乱の中で,源頼朝の背後をつくことを期待されて,地方豪族としては異例の国守に任ぜられるが,結局,兵をあげなかった。しかし頼朝追討の請文を提出したのは事実であり,また平家追討中の木曾義仲に呼応して頼朝を討とうと呼び掛けたともいわれる。平泉に宇治平等院の鳳凰堂を模して無量光院を建て,その東門のところに加羅御所をつくって常の居所とした。またその北に平泉館という宿館を構えていたが,それは奥羽支配の政庁というべきもので,いま柳之御所跡と称している場所がそれである。発掘調査の結果,そこからは大きな堀で囲まれた館の跡が発見された。内部には園池をともなう建物群があり,陶磁器など貴重な遺物が出土した。死に際して,義経を大将軍として一致結束するよう,子息の泰衡らに遺言したが,泰衡は義経を攻め,2年足らずで藤原氏は滅亡してしまった。遺体は中尊寺の金色堂におさめる。身長160cm前後,胸は幅広く,厚く,肥満型であった。血液型はAB型。死因は骨髄性脊椎炎または脊椎カリエスといわれる。<参考文献>朝日新聞社編『中尊寺と藤原四代』,高橋富雄『奥州藤原氏四代』,平泉文化研究会編『奥州藤原氏と柳之御所跡』

(大石直正)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのひでひら【藤原秀衡】

1122‐87(保安3‐文治3)
平安末期の東北地方の武将。父は藤原基衡。1170年(嘉応2)5月25日鎮守府将軍,従五位下となり,81年(養和1)8月25日陸奥守,従五位上となる。83年(寿永2)にも鎮守府将軍だった。陸奥守との兼官かと思われる。奥州藤原氏の3代目として,奥羽一円におよぶ支配を確立した。源義経の保護者としても有名。それは74年(承安4)から80年(治承4)までと,85年(文治1)からその死にいたるまでの,2度にわたる。

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大辞林 第三版の解説

ふじわらのひでひら【藤原秀衡】

?~1187) 平安末期・鎌倉初期の陸奥の豪族。基衡の子。鎮守府将軍。平氏滅亡後、源義経をかくまって頼朝と対立した。奥州藤原氏三代の最盛期を現出、嘉勝寺無量光院を建立。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原秀衡
ふじわらのひでひら
(1122―1187)

古代末期東北の武将。清衡(きよひら)の孫、基衡(もとひら)の子。鎮守府将軍。陸奥守(むつのかみ)に任ぜられて、平泉(ひらいずみ)政権を北方の独立王国の地位に高めるとともに、平氏、源氏と並ぶ第三の政治勢力として評価されるまで権威あるものにした。
 1170年(嘉応2)彼が鎮守府将軍に任ぜられたときには、心ある公家(くげ)はこれを「乱世の基」であると評した。なぜなら、陸奥現地の者はこの職に任じない規定だったからである。また源平合戦のさなか81年(養和1)陸奥守に任命されるが、これは、前例のない東北政治の地元委譲として論議をよんだ。平家は鎌倉の源頼朝(よりとも)を牽制(けんせい)し、頼朝を征討できる唯一の東国勢力として秀衡を評価し、この地位につけて鎌倉を謀ろうとしたのである。秀衡は一方で京都とこのように結ぶとともに、他方では86年(文治2)鎌倉とも友好協定を結んで、平泉のバランスとしての地位を確立している。晩年、頼朝に追われている義経(よしつね)をかくまい、死後、彼と子泰衡(やすひら)らとの協力による平泉の独立を策したが、これはかえって平泉滅亡の因となった。無量光院を建てている。文治(ぶんじ)3年10月29日死去。[高橋富雄]
『高橋富雄著『奥州藤原四代』(1958・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の藤原秀衡の言及

【奥州藤原氏】より

…平安時代末期(11世紀末~12世紀末)の東北地方の豪族。藤原清衡,基衡,秀衡,泰衡の4代をいう。清衡,基衡,秀衡3代のミイラ化した遺体と泰衡の首が岩手県中尊寺金色堂の須弥壇の下に葬られている。奥州藤原氏は,かつては蝦夷の出身でアイヌの血をひくものと考えられていた。しかし初代清衡の父の藤原経清は俵藤太秀郷の子孫で,系譜的には中世の武士に多い秀郷流藤原氏である。1950年に行われた遺体調査の結果も,彼らがアイヌ人らしくないことを明らかにした。…

【平泉文化】より

…平安時代末の12世紀,奥州藤原氏代の保護のもとに,その居館のあった平泉を中心に開花した仏教文化。平泉は,その盛時には中尊寺(ちゆうそんじ),毛越寺(もうつじ),無量光院(むりようこういん)などの大寺院が甍(いらか)を並べ,日吉,白山,祇園,王子,北野天神,金峰山,今熊野,稲荷などの諸社が計画的に配置された都市であった。 中尊寺は藤原清衡(きよひら)によって1105年(長治2)に着工され,26年(大治1)3月24日に落慶供養が行われた天台系の寺院で,このときの堂宇は,供養願文によれば三間四面の檜皮葺堂1宇,三重塔3基,二階瓦葺経蔵1宇,二階鐘楼1宇というものであったが,《吾妻鏡》の文治5年(1189)9月17日条では,寺塔60余宇,禅坊300余宇といわれている。…

【猛者】より

…特別の技能をそなえた勇者という点では新興の武士階級の〈名ある武者(むしや)〉をさすし,これに威徳・富裕ということもあわせみると,武力に富んで各地で威勢を張っていた〈富豪の輩(やから∥ともがら)〉が〈猛者〉像の中心をなしたのがわかる。文献に現れた初期の一例は奥州の豪族であった藤原秀衡(ひでひら)に関するもので,〈奥州猛者藤原秀平(衡)真人(まひと)〉といわれている(《東大寺造立供養記》)。〈もさ〉の語は,その道その道で難関にも敢然と立ち向かい,闘いつづける気概・実力・技能を兼備した〈つよい男性〉を比喩的に表現する語として,今日もなお用いられている。…

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