平安末期の東北地方の武将。父は藤原基衡。1170年(嘉応2)5月25日鎮守府将軍,従五位下となり,81年(養和1)8月25日陸奥守,従五位上となる。83年(寿永2)にも鎮守府将軍だった。陸奥守との兼官かと思われる。奥州藤原氏の3代目として,奥羽一円におよぶ支配を確立した。源義経の保護者としても有名。それは74年(承安4)から80年(治承4)までと,85年(文治1)からその死にいたるまでの,2度にわたる。源平争乱の中で,平家および朝廷から関東の源頼朝の背後をつくことを期待され,地方豪族としては異例の国守(陸奥守)への任命が行われたりしたが,ついに平泉を動かなかった。その間京都では,秀衡は2万余騎を率いて白河関を出たとか,頼朝が秀衡の娘をめとる約束をした,つまり両者は和睦したとかのうわさが流れていた。しかし秀衡が頼朝追討の請文(うけぶみ)を提出していたことは事実であり,また83年閏10月には平家追討中の源義仲に対し,協力して東西から頼朝を攻めようと進言したともいう。事態を静観してばかりいたわけではないのである。86年4月,頼朝の呼びかけに応じて表面的にはその勢力下に入ったが,なお独立性を保っていた。死にのぞんで,国衡,泰衡の2子および源義経に互いに異心のない旨の起請文(きしようもん)を書かせ,2子に対しては義経を主君として仕えるよう遺言したという。しかしその1年半後,泰衡は義経を討ち,頼朝により奥州藤原氏は滅亡した。平泉に宇治平等院を模した無量光院(むりようこういん)を建立。その東門に一郭を構え,伽羅御所(きやらのごしよ)と号して常の居所としていた。その遺体は中尊寺金色堂に葬られているが,1950年の調査によれば胸は幅広く,厚く,骨格からは弓術など武芸の強行のあとがうかがわれ,肥満型で,身長は160cm前後であったという。
執筆者:大石 直正
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古代末期東北の武将。清衡(きよひら)の孫、基衡(もとひら)の子。鎮守府将軍。陸奥守(むつのかみ)に任ぜられて、平泉(ひらいずみ)政権を北方の独立王国の地位に高めるとともに、平氏、源氏と並ぶ第三の政治勢力として評価されるまで権威あるものにした。
1170年(嘉応2)彼が鎮守府将軍に任ぜられたときには、心ある公家(くげ)はこれを「乱世の基」であると評した。なぜなら、陸奥現地の者はこの職に任じない規定だったからである。また源平合戦のさなか81年(養和1)陸奥守に任命されるが、これは、前例のない東北政治の地元委譲として論議をよんだ。平家は鎌倉の源頼朝(よりとも)を牽制(けんせい)し、頼朝を征討できる唯一の東国勢力として秀衡を評価し、この地位につけて鎌倉を謀ろうとしたのである。秀衡は一方で京都とこのように結ぶとともに、他方では86年(文治2)鎌倉とも友好協定を結んで、平泉のバランスとしての地位を確立している。晩年、頼朝に追われている義経(よしつね)をかくまい、死後、彼と子泰衡(やすひら)らとの協力による平泉の独立を策したが、これはかえって平泉滅亡の因となった。無量光院を建てている。文治(ぶんじ)3年10月29日死去。
[高橋富雄]
『高橋富雄著『奥州藤原四代』(1958・吉川弘文館)』
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(大石直正)
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1122~87.10.29
平安末~鎌倉初期の武将。奥州藤原氏3代目の当主。基衡の子。母は安倍宗任の女。1170年(嘉応2)従五位下,鎮守府将軍となる。81年(養和元)従五位上・陸奥守。平泉を拠点として陸奥・出羽両国に強力な支配を展開した。源平争乱に際しては,双方から誘いをうけたが動かなかった。源義経の保護者で,源頼朝の追討令が出たのちも義経をかくまったことが,平泉攻めの口実となった。無量光院を建立。
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…平安時代末期(11世紀末~12世紀末)の東北地方の豪族。藤原清衡,基衡,秀衡,泰衡の4代をいう。清衡,基衡,秀衡3代のミイラ化した遺体と泰衡の首が岩手県中尊寺金色堂の須弥壇の下に葬られている。奥州藤原氏は,かつては蝦夷の出身でアイヌの血をひくものと考えられていた。しかし初代清衡の父の藤原経清は俵藤太秀郷の子孫で,系譜的には中世の武士に多い秀郷流藤原氏である。1950年に行われた遺体調査の結果も,彼らがアイヌ人らしくないことを明らかにした。…
…平安時代末の12世紀,奥州藤原氏代の保護のもとに,その居館のあった平泉を中心に開花した仏教文化。平泉は,その盛時には中尊寺(ちゆうそんじ),毛越寺(もうつじ),無量光院(むりようこういん)などの大寺院が甍(いらか)を並べ,日吉,白山,祇園,王子,北野天神,金峰山,今熊野,稲荷などの諸社が計画的に配置された都市であった。 中尊寺は藤原清衡(きよひら)によって1105年(長治2)に着工され,26年(大治1)3月24日に落慶供養が行われた天台系の寺院で,このときの堂宇は,供養願文によれば三間四面の檜皮葺堂1宇,三重塔3基,二階瓦葺経蔵1宇,二階鐘楼1宇というものであったが,《吾妻鏡》の文治5年(1189)9月17日条では,寺塔60余宇,禅坊300余宇といわれている。…
…特別の技能をそなえた勇者という点では新興の武士階級の〈名ある武者(むしや)〉をさすし,これに威徳・富裕ということもあわせみると,武力に富んで各地で威勢を張っていた〈富豪の輩(やから∥ともがら)〉が〈猛者〉像の中心をなしたのがわかる。文献に現れた初期の一例は奥州の豪族であった藤原秀衡(ひでひら)に関するもので,〈奥州猛者藤原秀平(衡)真人(まひと)〉といわれている(《東大寺造立供養記》)。〈もさ〉の語は,その道その道で難関にも敢然と立ち向かい,闘いつづける気概・実力・技能を兼備した〈つよい男性〉を比喩的に表現する語として,今日もなお用いられている。…
※「藤原秀衡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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