朝日日本歴史人物事典 「大河兼任」の解説
大河兼任
生年:生年不詳
平安末期の武将。通称次郎。名字の大河の地は,秋田郡大河郷説や津軽説または米代川流域説などがある。平泉藤原泰衡の郎従。秋田城在庁でもあったとみられる。文治5(1189)年奥州合戦後,従来の権益を制約され,主人泰衡の敵を討つと称して反旗を翻した。津軽での挙兵,秋田城攻撃,再度の津軽攻撃などで戦果をあげ,平泉から栗原郡(宮城県)まで進軍したが,鎌倉幕府軍に押し戻され,外浜多宇末井梯で大敗を喫し,出羽国山北(秋田県)を経て栗原寺に単騎出現したところを樵夫に斧で殺された。この間わずか3カ月余。奥羽両国衙の有力在庁まで味方に募った行動の早さと反乱の広がりは幕府を驚愕させた。
(遠藤巖)
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