水科村(読み)みずしなむら

日本歴史地名大系 「水科村」の解説

水科村
みずしなむら

[現在地名]三和村水科

飯田(いいだ)川右岸に位置し、北は法花寺(ほつけじ)村・窪(くぼ)村に接する。建武四年(一三三七)四月日の市河助房代嶋田助朝軍忠状(市河文書)に「頸城郡内水科・水吉」とあり、南朝方の池・風間両氏と信濃国から進攻した高梨・市河両氏とが、四月一六日水科と東方山沿いの水吉(みずよし)で戦った。貞和四年(一三四八)六月三日の本阿打渡状写(鶴岡神主大伴氏所蔵文書)によれば「頸城郡水階光名」のうち、惟延の跡が本来の知行主である鎌倉鶴岡八幡宮若宮神主に引渡されている。天正二年(一五七四)一〇月一〇日上杉謙信は越中館山城主若林家吉に肥田森(ひだのもり)村(現新井市)内大関弥七分・津野川(つのがわ)村(現上越市)とともに水品村を宛行った(上杉年譜)。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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