諏訪神社(読み)スワジンジャ

デジタル大辞泉 「諏訪神社」の意味・読み・例文・類語

すわ‐じんじゃ〔すは‐〕【諏訪神社】

長崎市上西山町にある神社。祭神は建御名方命たけみなかたのみこと八坂刀売命やさかとめのみことほか五神。寛永元年(1624)の創建。諏訪祭は「御宮日おくんち」として知られる。
諏訪大社の旧称。

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精選版 日本国語大辞典 「諏訪神社」の意味・読み・例文・類語

すわ‐じんじゃすは‥【諏訪神社】

  1. [ 一 ] 長崎市上西山町にある神社。旧国幣中社。主祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)八坂刀売命(やさかとめのみこと)。寛永元年(一六二四)松森に社殿を創建。以後、長崎の氏神として幕府の崇敬を受けた。慶安元年(一六四八)現在地に移転。例祭は一〇月七、八、九日に行なわれ、おくんち祭(長崎くんち)として有名。
  2. [ 二 ]すわたいしゃ(諏訪大社)」の旧称。

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日本歴史地名大系 「諏訪神社」の解説

諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]長崎市上西山町

上西山かみにしやま町の南西部に鎮座。松森まつのもり神社・伊勢宮とともに長崎三社として信仰され、「おすわさん」として親しまれる。古くは諏方大明神などと称され、諏方の表記を用いていた。旧国幣中社。祭神は建御名方命・八坂刀売命で、相殿として境内の森崎もりさき社に伊邪那岐命・伊邪那美命、同じく住吉社に表筒男命・中筒男命・底筒男命を祀る。

〔由緒と社頭景観〕

長崎市中に祀られていた諏訪大明神・森崎大権現・住吉大明神の三社を前身とする。慶長年間(一五九六―一六一五)頃これらはキリシタンに破却されたが、元和年間(一六一五―二四)肥前唐津からつの修験金重院青木賢清が長崎奉行などの援助を得て再建、寛永三年(一六二六)円山まるやま(現松森神社の地)に合祀、慶安元年(一六四八)玉園たまぞの山中腹の現在地に移した。同年玉園山神宮寺の仏寺号を受け、初代の宮司は賢清。長崎奉行は幕府の命に従って社殿を造営、同三年畑地九反余を含む社地八千七八二坪を寄進した(長崎市史)。オランダ商館員らは境内の山道を進んで頂に出て、有馬ありま湾の全景や長崎市中の建物・街路、また開いた扇の形のようなつき(出島)などを見渡したようである(「長崎オランダ商館の日記」一六五二年五月条)。寛文九年(一六六九)以後朱印地となり、天和三年(一六八三)唯一神道となる。例年唐船の置銀は一艘当り銀二両ずつとされたが、元禄二年(一六八九)六月今後は銀五両ずつと改めた(唐通事会所日録)。同年三月より森崎の祭礼で能が始まったという(華蛮交易明細記)。正徳四年(一七一四)三月在津の唐船二八艘の船頭らが「諏方大明神」に幣物を奉納したいと請願、許可された(唐通事会所日録)


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]都城市庄内町 宮原

安永やすなが城跡の東方丘陵上にある。祭神は建御名方神・事代主神・天忍穂耳命・建御雷之神。旧村社。古くは諏方上下大明神社などとよばれた。文和元年(一三五二)北郷資忠は島津家が累代尊崇する鹿児島の諏訪神社に参詣したとき、社頭から鎌一丁が飛来して直衣の袖に入った。同年ほん郷に入部した資忠は安永のうね原で出迎えた石川氏に命じて鎌を神体とする諏訪大明神を勧請、同氏を祠官としたと伝える(「三国名勝図会」、「北郷家聞書写」都城島津家文書)。社蔵の樟板二枚には応安五年(一三七二)六月一日の銘があった。代々北郷氏により崇敬され、享禄三年(一五三〇)一一月二一日の棟札には、北郷忠相により当社宝殿が修造されたことがみえる(庄内地理志)。北郷家聞書写によれば一六世紀中期の忠相の代には当社をはじめ安永の妙見などの五社は北郷氏当主の参詣社とされ、忠相・持久の代には立願に伴って笠懸も興行された。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]小海町大字豊里 松原

標高一一二三メートル、松原湖沼群最大の猪名いな(松原湖)畔にある。千曲川の渓谷に沿って南北に通じる佐久甲州往還(現国道一四一号)から西方、比高約一〇〇メートルの台地上にあり、西方に天狗てんぐ岳・硫黄いおう岳などの八ヶ岳連峰が間近に迫って湖面に姿を映す。

上社は猪名湖の東南岸に、下社は北東岸に相対して、鬱蒼たる樹林の中に鎮座する。祭神は建御名方命・八坂刀売命・事代主命の三神である。上社・下社を総称して松原神社ともいう。神社の創建については記録を欠くが、「伊那古松原大明神縁起」の写文(「松原神社文書」畠山理輔氏蔵)によれば、観応三年(一三五二)当社の神官と思われる和泉太夫が、諏訪大明神の御正体が佐久郡伴野庄の「伊那古之松原」に飛び移ったとしているが定かでない。

武田信玄は信濃国・上野国への侵攻にあたり、この神社にしばしば願文をささげている。天文一七年(一五四八)松原上下社人に対する安堵状、永禄三年(一五六〇)信濃奥郡攻略の信玄自筆の願文(以上「松原神社文書」畠山理輔氏蔵)及び永禄二年、長尾景虎上洛の機に乗じて越後に出兵するにあたり神馬などを寄進する願文、永禄四年、西上州出兵戦勝祈願文、永禄一〇年、長刀一振寄進状(以上同文書)などが残されている。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]智頭町智頭

宮前みやのまえに鎮座し、祭神は建御名方神・木花咲耶姫命など一六柱。旧村社。弘安元年(一二七八)信濃諏訪神の分霊を勧請したと伝える。本殿落成までの間、山崎やまさきの花社に合祀し、のちに遷宮を行ったが、諏訪神が本折もとおり峰岐を渡るときその下駄が千代川に落ちて流れたという。稲常いなつね(現河原町)の人がこれを拾って祀り下駄諏訪げたすわ大明神と称した。この下駄が朴の木で作られていたため同地の人は朴の下駄を用いなかったという(初稿八頭郡誌)。勧請以後、軍神・鎮火の神として尊崇され、元寇の際には敵国調伏を祈り、また後醍醐天皇は関東調伏を祈願させたという伝えがある。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]新発田市諏訪町一丁目

鎮座地は旧城下東南方にあたる。建御名方命・八坂刀売命・溝口太祖神(溝口秀勝)を祀り、旧郷社。城下の総鎮守であった。「日本書紀」に渟足柵ぬたりのき(現新潟市)磐舟柵いわふねのき(現村上市)を設け、こしと信濃の民を柵戸としたことがみえるが、伝えによると、このとき移住してきた信濃の民が故郷の諏訪神社の分霊を勧請して祀ったのが始めという。当初は現北蒲原きたかんばら聖籠せいろう町の諏訪山にあったが、のち佐々木加地氏の崇敬を受け、市内中曾根なかぞね諏訪すわ木谷地きやじに遷したと伝える。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]宮城町上愛子 宮下

仙山線愛子あやし駅の南方、御殿ごてん山の麓に鎮座。祭神は建御名方命、中宮に白幡大神、左宮に黒鳩大神、右宮に弥渡大神を祀り、さらに住吉大神も祀る。旧村社。近世までは国分こくぶ庄三三ヵ村の総鎮守で国分一宮と称する。明治四二年(一九〇九)作並さくなみの六社、翌年くまの三社を合祀。

社伝の縁起(「宮城郡誌」所載)によると延暦年代(七八二―八〇六)山神としてこの地に祀られ、文治年中(一一八五―九〇)源頼朝が奥州合戦の際祈願して戦勝を得たので、家臣の伊沢(留守)四郎家景に社殿を造営させた。これより建御名方命を祀り諏訪社と改称した。のち頼朝に従って来た信濃国佐久さく郡住人源房治の後裔佐久太郎房義と佐久次郎治義が社務をつかさどることになったという。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]都城市野々美谷町 古城

野々美谷ののみたに川が大淀川に合流する地点の西方、標高一五〇メートルの丘陵上の野々美谷城跡にあり、南方に野々美谷のふもと集落を見下ろしている。旧村社。祭神は建御名方神・事代主神。応永年間(一三九四―一四二八)に勧請されたという。明暦元年(一六五五)の北郷領内神社改帳写(都城島津家文書)では野々美谷の宗廟として諏訪上下大明神をあげて、上宮本地は文殊・普賢、下宮本地は千手観音・地蔵、籠物は大般若経・縁起上下で、年五回の祭を行い、社人屋敷は四ヵ所。由来については樺山氏が梶山かじやま(現三股町)へ居城の頃に、領地樺山かばやま(現同上)の諏訪神社参詣の隙を突いた伊東氏により梶山城を攻略され、都城へ退去、その途中に早水はやみず原の路端で鎌を拾った。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]栃尾市表町

栃尾城大手口の上り坂、通称上の山うえのやまにある。祭神建御名方命。栃尾町の鎮守で旧村社。勧請年代不詳であるが、口碑では延暦一五年(七九六)という。しかし諏訪社由来書(神子田家文書)によると、もとは現在地に栃尾城鎮守として八幡社が置かれ、別当は太田おおだ(現見附市)五宝ごほう(永宝院)なる修験者がいて、慶長元年(一五九六)に八幡宮を太田に遷し、代りに諏訪神社を祀り、修験明王みようおう安養あんよう院が代代当社の別当を勤めたという。明王寺(神子田家)は当山派修験で、栃尾郷二一ヵ寺の中老役であった。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]久慈市長内町 元木沢

久慈新港南側の台地上にある。建御名方命を祭神とする旧村社。延享三年(一七四六)の縁起書によれば、建久二年(一一九一)南部光行が陸奥三戸と久慈に諏訪神社を勧請したとあるが、諏訪信仰が浸透したのは久慈地方が北条得宗領に組入れられたとみられる弘安―正応(一二七八―九三)の頃とみられる。久慈地方で藩主の代参のあったのは当社だけといわれ、承応二年(一六五三)盛岡藩三代藩主南部重直の病気平癒祈願八〇寺社のなかに久慈毘沙門(現若宮八幡宮)夏井なつい大坊権現(現大宮神社)とともに「久慈之諏訪」がみえ、さらに熊野・羽黒・湯殿の参詣に諏訪別当が派遣され、米二〇俵を支給されている(雑書)


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]浜玉町大字浜崎字宮の元

浜崎はまさき集落の中央より西に寄った旧筑前街道の北側に位置する。旧村社。祭神は健御名方命。延暦三年(七八四)一〇月二七日勧請と伝え、祭日は一〇月二七日。この日北の浜に神幸がある。末社七宇(皇大神宮こうたいじんぐう祇園ぎおん宮・八幡宮・猿田彦大神さるたひこおおかみ・稲荷社・たか社・誓来せいらい社)。社家熊本(隈本)氏は建武三年(一三三六)より相続。

諏訪宮古伝記によれば、延暦三年玉島たましまの里(→玉島神社に聖母大菩薩の社を建てる際、ここは神功皇后ゆかりの地であることを以て、朝鮮出兵の軍船を守護したとされる諏訪明神を勧請したという。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]青森市栄町一丁目

つつみ橋の東畔、さかえ町にあり、祭神は武御名方神・猿田彦大神。

もとは作道つくりみち浪打なみうち(現合浦公園入口)にあり、稲荷林いなりばやし(稲荷神社)と並んで、諏訪林の中に鎮座していたという。青森開港にあたって、航海の安全祈願のため寛永八年(一六三一)堤川の河口近くの中洲へ移転、博労ばくろう町に表参道、たばこ町に裏参道があった。明治五年(一八七二)の大火で本殿・拝殿を焼失し、現在地に移った(青森市史)。貞享四年(一六八七)の検地帳に「宮建無之」二〇間に一〇間の諏訪社地が記される。安政二年(一八五五)の神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)に、貞享四年の検地帳にみえる社地が供田として社司の抱地となっている。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]美山町大字鶴ヶ岡 川合

西にし川と棚野たなの川の合流地の左岸に鎮座。祭神は建御名方神。旧郷社。社伝によると、応安二年(一三六九)僧円勝が信濃国諏訪神社(現長野県諏訪市)を勧請して神官を兼ね、棚・砂木すなぎ二ヵ村を祈祷料所と定めて永和四年(一三七八)に社殿を創建したという。現在の建物は正徳二年(一七一二)の再建。本殿は北向、柿葺・単層・神明造で三間三面、唐破風向拝が付き上屋がある。

当社では毎年一月五日、お狩の神事が行われた。神主が神幣を捧げて先頭に立ち、氏子一同がその後に従って砂木の狩倉かりくら山まで疾走する。氏子は途中小銃を発射しときの声を挙げて威勢をつけるという行事であった。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]白根町下今諏訪

下今諏訪にあり、祭神は建御名方命・事代主命。旧村社。信濃国諏訪大社を勧請したもので、地名もかつて上諏訪・下諏訪といったが、その後今の字を冠するようになったという。この地域は信濃国から移住してきたという由緒をもつ家が多く、徳島とくしま堰の建設を請負った有野ありの村矢崎又右衛門などもその一人である。末社にはる宮・あき宮・御柱おんばしら宮・あめ宮などがあり、本社と同様すべて除地であった。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]南部町南部

南部の西の山腹にあり、祭神は建御名方命・事代主命。旧郷社。信濃国諏訪大社を本社とし、同じく上・下両社が鎮座する。勧請時期は不明だが、新羅三郎義光が勧請したと伝える。正中三年(一三二六)(南部)茂時が再興したことが神体の墨書にみえ、嘉吉三年(一四四三)七月二八日に源(南部)元時が再造営し、棟札・太刀・長刀、祭札のための諸器などを奉納したという(甲斐国志)。これらのことから南部に居館を構えていた南部氏による勧請が考えられ、河内かわうちの惣社と称されたという(南部町誌)


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]徳島市南佐古三番町

山北麓の諏訪山にある。主祭神は建御名方命。旧郷社。蜂須賀家政いの山に徳島城を築いたとき、山麓にあった諏訪明神社を現在地に移したと伝え(阿波志)、また一説には名西みようざい下浦しもうら(現石井町)の諏訪社(現多御奈刀弥神社)から分祀したともいわれる。武神として蜂須賀氏から信仰され渭津いのつ五社(もと渭山にあった伊勢祠・諏訪社・住吉社・龍王社・弁天社)の随一と称されたという(最近文明史料)。寛永五年(一六二八)には拝殿周り一町四方での草刈取・土石取、牛馬の放飼を禁じる定書(阿淡年表秘録)が出された。元禄一三年(一七〇〇)・同一四年などに徳島藩主蜂須賀氏の参詣があった(同書)


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]出水市麓町

ふもと町の北部に位置する。建御名方命・八坂刀売命を祀り、旧郷社。島津家初代忠久が山門やまと院に下向して木牟礼きのむれ(現高尾野町)に入った折、同城の近くに信州諏訪社(上社・下社)の分霊を勧請したのが草創と伝える。その後、市住連いちのしめ(一ノ住連)に分霊を移し、文正二年(一四六七)薩州家島津国久が上社(建御名方命)を現在地に勧請、のち下社(八坂刀売命)も移して併せ祀ったといい(「諏訪神社由緒略記」など)、「三国名勝図会」によると文正三年(応仁二年)銘の棟札には「大檀那国久」とみえるという。なお現鹿児島市清水しみず町の南方みなかた神社も奥州家島津氏久が東福寺とうふくじ(現鹿児島市)に移った際に忠久が勧請した山門院の諏訪神社を勧請、遷座したものといわれている。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]君津市清和市場

小糸こいと川左岸の字市場いちばに上諏訪神社・下諏訪神社が向い合って鎮座。旧郷社。上諏訪神社の祭神は建御名方命。社殿は流造・銅葺、拝殿は春日造・瓦葺。下諏訪神社の祭神は八阪刀売命。社殿は流造・杉皮葺、拝殿は春日造。両社の境内は杉の巨樹、雑木の老木が密生して鬱蒼とした森をつくる。嘉吉三年(一四四三)秋元直家が再建したと伝える。天文二三年(一五五四)の棟札に新再造「御狩大明神御社」とあり、大檀那は秋元義政・政次。弘治二年(一五五六)には諏訪大明神社一宇が造営されている。この時の大檀那は秋元政次(社蔵棟札)。社伝によると、明暦三年(一六五七)本殿を再建、延宝八年(一六八〇)に下諏訪神社本殿、元禄一六年(一七〇三)には上諏訪神社の本殿および拝殿を再建。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]小出町四日町

四日よつか町の集落の北東、破間あぶるま川の近くにある。祭神健御名方命。創建年代は不明。「新編会津風土記」には「昔は左計の大社」と記す。「北魚沼郡志」には「本社上之宮・下之宮二社あり、其分立せし因由年代とも詳ならず、社記其他の文旧二社各々之を有せり」と記す。現在の下宮は貞享二年(一六八五)の再建。上宮は安永年間(一七七二―八一)の再建。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]根占町川南

諏訪上すわかみに鎮座する。祭神は建御名方命・事代主命。旧郷社。古くは今の雄川おがわ橋東岸に石灯籠が左右に併立していた。ここからが参道で、現在の諏訪下・諏訪上を真っ直ぐに通り抜けると、二基の鳥居が宮の入口に併列して建っている。「三国名勝図会」に諏方上下大明神社とみえ、上宮・下宮の社が相並んでいたと記される。併列の鳥居は上宮・下宮のものとみられるが今の社は一つになっている。文明年間(一四六九―八七)頃と推定される諏訪祭礼頭役支配状(禰寝文書)は当社にかかわるものとみられ、一番組から一〇番組まで頭役が割当てられている。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]四日市市諏訪栄町

江戸時代は諏訪大明神という。四日市宿の南、東海道のすぐ西にある。旧県社。地籍上は浜田はまだ村。浜田村・四日市町立会の氏神であった。享保九年(一七二四)の勢州御領郷鑑(東京都林英夫氏蔵)では、社地一千八八坪、これは年貢免除地。「五鈴遺響」は社伝によるとして「建仁年中信濃国諏訪上下二社ヲ勧請」とし、例祭については「四日市祭ト称ス、近邑農商群詣ス」と記す。この旧暦七月二七日の祭礼では山車二両のほか各町々から練物が出、二六日には陣屋の前を、二七日には諏訪神社の前を練った。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]えびの市大明司

川内せんだい川北岸にある。祭神は櫛門戸神。旧村社。江戸時代には大戸おおと諏方神社・大戸諏訪上下大明神などと称した(「三国名勝図会」など)。創建の時期は不明だが、天正三年(一五七五)当時島津忠平(義弘)夫人が在城していた加久藤かくとう城で忠平嫡男家久が誕生(正しくは天正四年か)、諏訪神は島津家擁護の神であるので当社を産土神として崇敬を加え、七月二七日の例祭には忠平らも参詣し、流鏑馬を興行したという(同書)。忠平は大明司だいみようじ村の一三町を寄進し、この高は大宮司井尻神力坊が守り大明寺という寺にあって祭・法事を勤めた。神主には黒木氏代々が命じられた。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]六郷町六郷 本道町

六郷の西部にあり、北西部には水田が広がる。祭神は天照大神・健御名方富命・八坂刀女命。社伝によれば、坂上田村麻呂の創建と伝え、その後六郷氏の崇拝を受け、寛政六年(一七九四)の「六野燭談」に「当処の鎮守にして六郷侯の氏神也」とある。六郷氏は転封後も社領一〇石を本荘(現本荘市)から寄付したという(秋田風土記)


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]新居町新居

新居の西方の丘陵東麓に鎮座する。旧郷社。祭神は建御名方命。宝永四年(一七〇七)の地震(宝永地震)による新居宿総移転までは西にし町の北裏に鎮座した。創建時期は不詳。慶長八年(一六〇三)九月一一日の徳川家康朱印状写(諏訪神社文書)に大明神領とあり一五石を与えられた。社領一五石のうち一石はみなと神社に配分された(正徳二年「新居宿指出帳」愛知県豊橋市美術博物館所蔵文書)


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]美濃加茂市下米田町山本

地内北方、加茂郡川辺かわべ下飯田しもいいだ境の山の手に鎮座する。諏訪大明神を祭神とし、旧郷社。「濃飛両国通史」は「延喜式」の中山神社と推定する。もと中山天神と称したが、永禄年中(一五五八―七〇)に炎上し、同一二年肥田長寿丸と酒向与六が再建した。その時の棟札が残る。その頃諏訪社を合祀したという。神主は山田右近右衛門、禰宜は矢野七郎左衛門であった(同年棟札)。山田氏は下飯田村の、矢野氏は山本村の住人と思われる。延宝八年(一六八〇)の棟札では、米田庄本郷一〇ヵ村が氏子となっている。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]辰野町大字伊那富 宮木

宮木みやき村の中央にあり、社地を月丘の森つきおかのもりとよんでいる。祭神は健御名方命で、境内に諏訪南宮祖母神の神霊をおさめる古墳がある。

創建についてはつまびらかでないが、社宝の木造棟札によると、天正三年(一五七五)一一月、武田勝頼が諏訪郡高島たかしま(現諏訪市)の沙門春芳軒に命じて宝殿一宇を再興させている。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]勝央町河原 宮ノ谷

河原かわら集落の東に鎮座。祭神建御名方命など、旧郷社。「美作国神社資料」に載せる由緒によると、長久三年(一〇四二)諏訪部清扶なる者が来住し、小吉野こよしの庄中央の鏡山(現風見山)にあった社に信濃の諏訪大明神の分霊を奉斎した。康平二年(一〇五九)には大宮司清扶の兄幸扶も来住し、開発に努めた。安元二年(一一七六)那岐なぎ山の颪で大破したので現在地のみやだにに移した。天正年間(一五七三―九二)宮司の出雲井氏ら一五騎は三星みつぼし(現英田郡美作町)の後藤氏の加勢に出るが敗れ、宇喜多氏に神田一六町・高三〇〇石を没収された。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]浜松市利町

旧村社。祭神は建御名方命・八坂刀売命・事代主命・大己貴命・舎人親王。現在の法人名は五社・諏訪神社で、五社神社に併祀されている。社蔵の延宝三年(一六七五)の棟札によれば、享徳三年(一四五四)諏訪大明神が天竜川を下り、中島なかじま(上中島村)に祀られていたが、弘治二年(一五五六)浜松に移されたという。なお延暦一〇年(七九一)坂上田村麻呂が東征の折、勧請したとも伝える。慶長八年(一六〇三)徳川家康は諏訪大明神に寺島てらじま村のうち二〇石を寄付した(「徳川家康社領寄付朱印状写」諏訪神社文書)


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]日立市諏訪町三丁目

多賀山地丘陵東端の台地上の字だいに下社、あゆ川の渓谷を挟んで北側の字かみ諏訪すわの山地中腹に上社がある。祭神は建御名方命(下社)、蹈鞴五十鈴姫命(上社)。旧村社。

社伝によると建長二年(一二五〇)信州諏訪の神人、万年大夫藤原高利が霊夢により下諏訪大社の分霊を台に勧請したのが創建という。万年大夫は自ら夫婦の像を刻み、夫婦ともに諏訪川の上流にある水穴に入り行方知れずになったという(加藤寛斎随筆、新編常陸国誌)。水戸藩の鎮守帳(彰考館蔵)によると、下諏訪大明神社の社領は一二・六八二石、神体は万年大夫・万年守子(守子は方言で巫女の意)とある。これが社伝にいう万年大夫夫婦像で、当社に参詣した水戸藩主徳川光圀は像のいたみがひどいのを知り、長く後世に伝えるため、二体の像を胎中に納めるような夫婦像を元禄三年(一六九〇)工人に命じて造らせたという。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]下京区下諏訪町

祭神は建御名方たけみなかた神・八重事代主やえことしろぬし神。旧村社。「坊目誌」には源義経の勧請とあるが、社伝によれば、延暦二〇年(八〇一)坂上田村麻呂が陸奥より平安京に凱旋した際、無事帰還できたことを謝し、かねてより信仰していた信州諏訪大明神を五条坊門ぼうもんの南に勧請したことに始まるという。その後社殿も荒廃したが、文治二年(一一八六)源義経が社殿を再建、社域を広げ樹木を植え池を造ったという。「山州名跡志」に「伝云古当社封内広シ。近隣人家ノ裏ニ池アリ。今尚云諏訪池、是又大境ニシテ魚鳥群栖セシト云」とあるのがその池という。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]藤岡市藤岡

大戸おおど町にある。祭神は建御名方神。旧村社。永禄九年(一五六六)芦田信守が信州佐久さく芦田あした(現北佐久郡立科町)から藤岡へ移り、信州一宮から剣一口・鏡一面を勧請、天正一八年(一五九〇)信守の孫康貞が藤岡移封に際し祖父ゆかりの社を造営したという。延宝六年(一六七八)近隣六町村三七二人の寄進額金一両一分と銭二二貫文余によって社殿造営(奉加帳)。享保元年(一七一六)には正一位の宗源宣旨を受ける。別当は天龍てんりゆう寺が勤めた。明治元年(一八六八)高山たかやま庄にちなみ高山神社と改称、同三四年に現在名に改称する。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]会津若松市本町

かつての本二之ほんにの丁の西端に南面して建つ。祭神は建御名方命・誉田別命で、旧県社。永仁元年(一二九三)蘆名氏五代盛宗は、新宮氏を討つため河沼郡笈川おいかわ(現湯川村)へ軍を進めたとき、信州諏訪の神官の加護により勝利を得ることができたので、翌二年信州諏訪社から黒川くろかわの現在地に勧請して社殿を造営し、社領を寄進した(新編会津風土記)。以来軍神として歴代領主の尊信・保護を受け、城下の総鎮守であった。現行の祭礼は七月二七日であるが、江戸時代には祭礼のほかに、藩主の在城する一年おきに授光祭を盛大に行い、神輿渡御や山車が出て惣町が賑わった。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]鳴門市里浦町里浦

里浦さとうら地区の南端字恵美寿えびすにある。主祭神は建御名方命。旧村社。創立年代は明らかではないが、万治年間(一六五八―六一)に建てられたともされている(板野郡誌)。「阿波志」「鳴門辺集」・寛保改神社帳とも粟津あわづ浦の神社として記している。氏子区域は粟津および里浦の一部となっている。疱瘡に霊験ありとして九月二七日の祭礼には参詣人が多く訪れ、また鎌を好む神とされ立願に鎌を奉納するという習俗があった(鳴門辺集)。明治三九年(一九〇六)「神社寺院仏堂合併跡地譲与に関する件」の勅令が発せられて神社合併が推進された際、恵美寿出身の宮崎四郎は祭司者もいない小祠が散在していることを理由に(「徳島毎日新聞」明治四三年一二月二七日付)皇典講究所の礼典講師としての立場から神社合祀・合併を推進した。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]花巻市葛

くずの北部、かみやまの北上川沿いにある。祭神は建御名方命。旧村社。草創については明らかではないが、社伝によればかつては稗貫氏配下の葛氏が拠った上の山城の鎮護神であったといわれる。宝暦五年(一七五五)の書上(社蔵)には諏訪権現社とみえ、本地は薬師如来、境内に稲荷宮、聖観音を本地とする運満宮を祀り、羽黒派修験善蔵院が別当を勤めている。「邦内郷村志」などによると、往古は霊験著しく世人の尊崇を集めていたが、三ヵ年に一度一五、六の少女を生贄として差出さなければならなかった。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]那珂町西木倉

西木倉にしきのくらの北東の諏訪すわうちの地に森に囲まれて鎮座する。祭神は建御名方命・八坂刀命。旧村社。天正一八年(一五九〇)信州諏訪の神霊を諏訪ノ内に勧請したという。元禄七年(一六九四)徳川光圀は祠宇修営の際に修験玉蔵院に命じて祭典を厳修させた(茨城県神社誌)。初めは若宮八幡を一村の守護神として建御名方命を祀っていたが、のち八坂刀命を合祀し一村の鎮守とした(那珂郡郷土史)


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]城辺町城辺

城辺市街に囲まれた諏訪山(四〇メートル)の頂上にある。祭神は大国主命・武皆方命・事代主命。御荘みしよう一円の総鎮守であった。旧郷社。

「宇和旧記」に永正三年(一五〇六)の棟札の写として「上棟奉再興造宮事、特者領主承賢子息助賢」の記事がみえ、この年再興されたのは間違いないが、由緒や創立年月は不明。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]結城市上山川

上山川かみやまかわの南西、字はらに鎮座。祭神武御名方命・事代主命。旧村社。神官山川氏は、この地方の有力領主山川氏の一族で、慶長六年(一六〇一)の結城秀康の越前転封以後、神官になったという(諏訪神社文書)。古くは一一四石余をもったとも伝えるが、同九年の伊奈忠次黒印状(同文書)では神領五石。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]板橋区大門

新大宮バイパス(国道一七号)南沿いの大門だいもんにあるが、一般に赤塚あかつかの諏訪社といわれる。社伝によれば、赤塚郷の領主千葉介自胤が長禄年間(一四五七―六〇)に、信州諏訪社から勧請し、武運長久を祈ったという。中世には入間川(現荒川)に面した高台に位置し、社伝のように千葉氏の勧請によるとすれば、あたかも赤塚城に付属する砦のようである。近世初期に十羅刹女を祀る十羅刹じゆうらせつ社が合祀され(寛永七年「赤塚村氏神十羅刹預り証文」須田家文書)、「風土記稿」には十羅刹諏訪合社と記される。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]大子町小生瀬 諏訪前

月居つきおれ山東北の諏訪前すわまえの森に囲まれて鎮座。祭神は健御名方命。旧村社。寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)に「諏訪大明神」とみえ、文永元年(一二六四)の建立で、除地四石余とある。当社には正徳二年(一七一二)に社殿を改築した棟札が残る。元治元年(一八六四)水戸領内騒乱のとき御神体が不明となり、明治一二年(一八七九)大藤猛彦らが信州諏訪の本社から分霊を迎えて鎮斎した。安政二年(一八五五)の「常陸国北郡里程間数之記」には「諏訪明神 祭礼二月廿七日猪鹿ノ頭ヲイケニエトシ祀ル社中エ六月七八月迄蚫茸出ル切口味トテモヨク蚫ニ似タリトテ源義公様ヨリ山蚫茸ト御号ケ被遊候ト申伝候ヨシ 氏神八竜神社地と鎮守諏訪の社地と引替と成し事あり八竜神の社地へ蚫茸出たる事なきに諏訪神遷してより茸出ルと云八竜神の社地へも出ル諏訪神の四辺土産也と不浄のもの覗時は其年必茸不生と土人の話」とある。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]新町 五区

旧中山道の東側沿いに鎮座する。祭神は建御名方命。旧村社。旧笛木ふえき村の鎮守。安永九年(一七八〇)の田口氏留書(田口文書)によると、古くは西方の本屋敷ほんやしきにあったが、宝永五年(一七〇八)神木の火事があって光物の飛び来たった現在地に移したという。留書には慶安四年(一六五一)の検地に際し畑五反三六歩が除地とされたこと、享保九年(一七二四)京都吉田家から正一位を授与されたこと、延享四年(一七四七)の大火で焼失したが、宝暦七年(一七五七)に再建されたことなどを記す。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]鎌倉市植木

玉縄たまなわ城跡の東方、竜宝りゆうほう寺北西の植谷戸うえやとに位置する。祭神は建御名方命。旧村社、植木うえき岡本おかもと城廻しろめぐり地域の氏神社。本殿・覆殿・神楽殿などからなる。例祭八月二七日。「風土記稿」に玉泉ぎよくせん寺持ちとある。永正九年(一五一二)北条早雲が玉縄城築城の際、城内東側最高所(諏訪壇)に当社を勧請したと伝える。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]富士町大字市川

市川いちのかわ集落の小高い地にある。口碑によれば千葉氏の一族で小城おぎから進出した野中伊賀守が勧請したと伝え、祭神は建御名方神などである。

この神社の祭礼に奉納される浮立ふりゆう(県重要無形文化財)は玄蕃一流の天衝舞てんつくまいである。旗・ばれん・かさぼこ・高張提灯・謡組・棒使・笛・太鼓・てんつくみゃー・ばんぱこ打ち・かねうち・もりゃーし・扇子舞・ささら・にわか連中から構成され、小字別輪番(辻・向・打越・谷・山中・葛尾の順)で亭主前(司祭者)が選ばれ、亭主前の庭先から出発して定められたコースを道行き浮立が演ぜられる。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]流山市駒木

駒木こまぎ南部の台地上、県道柏―流山線の北側に面して鎮座する。この道は近世には布施ふせ(現柏市)村を結ぶ往還で、当社参詣の人々も多く利用し、諏訪道ともよばれた。祭神は武御名方命。旧村社。当社の由来書(東葛飾郡誌)によれば高市皇子の子正照が駒木に住し、信州諏訪から移した額面をもって氏神として祀ったのが草創という。源義家が後三年の役の折に参籠、乗馬および馬具を献じたと伝え、そのとき馬具をかけたという鞍掛松の碑が残る。古く当社の信仰圏は下総国はもちろん、武蔵・上野・下野・常陸などにも及び、八月二三日の祭礼には多くの人々が参集した。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]南部町玉掛 諏訪ノ平

玉掛たまかけの東、国鉄東北本線諏訪ノ平すわのたいら駅前に位置する。祭神は建御名方富命で、旧郷社。雑書の寛永二一年(一六四四)七月二一日条に「三戸諏訪之祠当月廿七日也依鹿毛三歳之神馬一疋今日御馬責三四郎ニ被為挽遣候」とあり、藩の祈願が行われていた。宝暦(一七五一―六四)頃の御領分社堂には「諏訪大明神」とみえ、神主治郎吉とある。建久二年(一一九一)南部光行が糠部ぬかのぶ入部にあたって勧請したものといわれる。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]仙台市郡山五丁目

東北本線長町ながまち駅の南東に鎮座。建御名方命などを祭神とし、例祭は五月一日で、旧村社。古老の伝によれば、天喜四年(一〇五六)に源頼義が創建し、当初は稲荷大明神と称したが、文明年間(一四六九―八七)に粟野国定が再建し、永禄年間(一五五八―七〇)北目きため城主粟野国重がさらに堂宇を改造したという。「封内風土記」郡山こおりやま村の項に当社ほか春日神社がみえるが、春日神社境内には周囲二丈余の北目大杉と称する神木があったという。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]白馬村大字北城 切久保

かつては塩島しおじま村枝郷であった切久保きりくぼに鎮座する神社で、健御名方命・手力雄命・八坂刀売命ほかを祭神とし、「霧降宮きりふりのみや」の通称がある。

宝徳三年(一四五一)の小笠原持長安堵状案(諏訪大社下社文書)にみえる「千国庄内塩島村」を諏訪社下社大祝に安堵したとのことは、この諏訪神社の社領を安堵したものとみられる。

九月二七日の例祭神事には七道祭とも尾花祭とも称する祭があり、この祭に使用した鎌倉時代作と伝える木彫神面一面が後補の面とともにある。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]大曲市上大町

祭神は建御名方命・八坂刀売命。旧郷社。社寺明細調抄(大曲町史資料)に由緒について「元禄年中火災ニ罹リ古書記焼失、勧請年月不詳」とあり、文化一二年(一八一五)の「秋田風土記」には「諏訪社 大曲の鎮守、別当修験金剛院、例祭七月廿七日湯立神楽有、神輿総町渡御、総氏子供奉、踊山飾山等練物多く出る」とみえる。菅江真澄の「月の出羽路」に「此須波ノ神殿の組天井は、国々其名高ク聞えたる画工かきてとりどりに見えたる絵どもめもあやに、ふりあふぎ見ぬ人ぞなき」と記される。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]富岡市富岡

かみ町にあり、祭神は建御名方命・八坂刀売命。旧村社。慶長一七年(一六一二)富岡町創設に際し、宮崎みやざきから遷座して上町・中町の鎮守となる。二七日を町日と定め、祭礼を中心に富岡市が開かれ、のち七日・一七日・二七日には在々より商物を持参して市が開かれた(寛延二年「富岡市由緒書上」黒沢文書)。祭礼は七月二六日・二七日で、上・中両町が一年交替で行い、神事も両町の馴合いで勤めた(祭礼仕法)


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]長崎市相生町

古くは諏訪大明神と称し、上西山かみにしやま町の諏訪神社と区別するため大浦諏訪おおうらすわ神社とよぶ。旧村社。祭神は建御名方命。天正二年(一五七四)キリシタンによる社寺焼打ちのあと、大浦郷に諏訪明神の化身である老翁が現れ、その神威を敬った郷民が社殿を建立したのが始まりともいう(長崎市史)。または元禄六年(一六九三)大村藩四代藩主大村純長が祈願して創建したと伝える。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]一色町一色 宮添

一色町の中心を南流する市子いちご川の右岸、集落の端に鎮座。建御名方神を祀る。永禄年間(一五五八―七〇)に信濃国諏訪大明神の分霊を勧請して祀ったのが始まりと伝える。元禄五年(一六九二)西尾藩主土井利意が一〇石二斗八升の除地を寄進。

神事に大提灯の献灯祭がある。初め篝火をたいて海魔退散を祈願したのが、途中から提灯に変わり、互いに大きさを競い、安政三年(一八五六)上市場かみいちば組献灯の大提灯は一丈三尺にも達した。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]伊万里市松浦町桃ノ川 下分字堂山

ももかわ盆地のほぼ中央にある。祭神は建御名方神・豊受媛神・大山祇命・菅原道真。旧村社。

「佐賀県神社誌要」に「遠く上古より奉祀の神社ならむ。(中略)藩主鍋島勝茂の臣、中野神右衛門・成富兵庫茂安と共に此地を開墾し、社地の周囲耕地となりしを以て、神威を畏み文化年間現在地に遷座し鎮護の産土神と崇奉し元の社地を古宮と称す」とある。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]名川町高瀬 宮野

高瀬たかせの東、県道櫛引―上名久井―三戸線の南側の丘陵地に位置する。祭神は建御名方命で、旧村社。宝暦五年(一七五五)の堂林寺門間数改書上帳(常泉院文書)に「一名久井諏訪明神堂」とあり、寛保三年(一七四三)の建立とされる。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]川西町上小松

上小松かみこまつ若松沢わかまつざわにあり、祭神は健御名方命ほか一二柱。旧郷社。「三代実録」貞観一二年(八七〇)八月二八日条にみえる「出羽国須波神」に比定する説がある。創建年代は不明だが、古来当地方きっての古社として尊崇されてきた。出羽国建置のとき朝廷は数回にわたり、信州方面から移民を行っており、それらの人々が故郷の神を祀ったのではないかと考えられている。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]八戸市諏訪一丁目

現在の諏訪一丁目の北、かつての小中野こなかのの南にある。祭神は諏訪大神。雑書の承応二年(一六五三)五月一一日条に「八戸之内佐比代諏訪ニ今六日御湯立」とあり、寛文五年(一六六五)の無量院の御立願状(常泉院文書)には「一左比代諏訪 鷹絵納事」とある。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]南相木村字御三甕

南相木村の中央にある。樹木鬱蒼と茂り、数十メートル下の相木あいき川へ高さ一六・五メートルの滝がかかり、深さ七メートル、幅一四メートル、長さ二七メートルの滝つぼは、上んぶち・中んぶち・下のふちとよばれる三つの甕状の淵からなり、滝は中んぶちにかかっている。祭神は建御名方命。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]東区北十二条東一丁目

創成そうせい川の右岸にある。旧村社。明治一五年(一八八二)に札幌村に入植した長野県出身者が、同年郷里の諏訪大社の分霊を勧請して創設。創設当時の社地は札幌村字新川添二七七番地であった。祭神は建御名方命・八坂刀売命。明治三〇年一〇月に神社創立を出願し、同三一年二月に許可を受け、同三三年六月に社殿が落成する。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]常陸太田市三才町

里川橋たもとの杉木立の中に鎮座。祭神は建御名方命・八坂富命。旧村社。寛文三年(一六六三)の鎮守開基帳(彰考館蔵)および「新編常陸国誌」によると、康平五年(一〇六二)源頼義の次男加茂次郎義綱が東北下向の途次、方忌をしてこの村に三年間滞留し、治暦元年(一〇六五)に信州諏訪大明神を勧請して巽位に社を創建した。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]山越郡八雲町山越

山越やまこしの市街地に鎮座する。祭神は建御名方命。旧郷社。「胆振国地誌提要」によると山越内やまこしない村の鎮守で草創未詳、文化四年(一八〇七)再建という。「明治神社誌料」は松前城下の者が漁業繁栄の祈願とアイヌの鎮守として造立したのに始まるとする。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]名川町剣吉 上町

上町かみまちの北の山沿いに位置する。祭神は建御名方命で、旧村社。大同二年(八〇七)田村将軍利仁(坂上田村麻呂)の創建と伝え、境内の古池には田村麻呂が蝦夷征伐の際剣を磨いたという伝説が残る。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]高遠町大字東高遠 板町

東高遠板町宮の下いたまちみやのしたにある。祭神は健御名方命。もと高遠城の鎮守として城内にあったものを保科正光が新たに今の所に遷宮したと伝えられている。「保科御事歴」によれば「于爰郡主神氏正光建立焉了者」「于時元和八竜集壬戌夷則念日」とある。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]十日町市 宮下町東

町部の南東丘陵の中腹にある。祭神建御名方命に八千戈命・沼河媛命を合祀。十日町村の鎮守。創立年代は不詳。社伝によれば、初め町の西方諏訪島すわじまにあったが、承徳―天永(一〇九七―一一一三)の頃信濃川洪水のため現在地に移った。


諏訪神社
すわじんじや

[現在地名]立川市柴崎町一丁目

奥多摩街道北方の諏訪の森公園近くに鎮座する。主祭神は建御名方神。旧郷社。社伝によると、弘仁二年(八一一)信州諏訪社より勧請されたと伝える。祭礼日は当社が勧請されたとされる七月二七日で、草相撲などが行われた(風土記稿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「諏訪神社」の意味・わかりやすい解説

諏訪神社(長崎市)
すわじんじゃ

長崎市上西山(かみにしやま)町に鎮座。建御名方命(たけみなかたのみこと)、八坂刀売(やさかとめ)命を主神とし、相殿(あいどの)に伊邪那岐(いざなぎ)命、伊邪那美(いざなみ)命、表筒之男(うわつつのお)命、中(なか)筒之男命、底(そこ)筒之男命の五神を祀(まつ)る。旧国幣中社。この神社はもと別々に鎮座していた諏訪・森崎・住吉(すみよし)の三神社を、1624年(寛永1)松森の地に合祀(ごうし)し社殿を創建したもの。室町時代末期(16世紀末~17世紀初め)ごろよりこの地にも切支丹(キリシタン)宗門が盛んとなり、彼らによって右三社も慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に破壊されたため、一社に合祀、再建された。1647年(正保4)、幕府は長崎奉行(ぶぎょう)に命じて現在地(玉園山(たまそのやま))に遷座、壮大な社殿が造営された。1693年(元禄6)には霊元(れいげん)上皇より宸翰(しんかん)が授けられるなど朝廷・幕府の崇敬が厚く、長崎総鎮守として知られている。現在の社殿は、1868年(明治1)に10年余をかけて再建されたもの。例祭は10月8日。これを挟んで神事が1日から13日まで行われる。諏訪祭という。なかでも例祭を挟む前後3日間は「御宮日(おくんち)」とよばれる。有名な蛇(じゃ)踊りは7日に行われ、お旅所へ神輿(みこし)が渡御、傘鉾(かさぼこ)・鯨(くじら)台など各種の奉納踊りでにぎわう。

[飯尾直樹]



諏訪神社(秋田県)
すわじんじゃ

秋田県仙北郡美郷(みさと)町六郷(ろくごう)に鎮座。1987年(昭和62)に「秋田諏訪宮」と改称。健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)と八坂刀女命(やさかとめのみこと)を主祭神とする。802年(延暦21)坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の創建と伝える。中世、領主六郷氏の総鎮守として尊崇され、近世に入り佐竹氏もまた厚い崇敬を寄せて社殿の修造や社領の寄進などを行った。旧県社。例祭は8月24日。2月15日に行われる小(こ)正月行事の竹打ちは、南北二手に分かれた若者が青竹で打ち合い、その年の豊凶を占うものである。

[高橋美由紀]


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改訂新版 世界大百科事典 「諏訪神社」の意味・わかりやすい解説

諏訪神社 (すわじんじゃ)

長崎市上西山町に鎮座。健御名方(たけみなかた)命と妃の八坂刀売(やさかとめ)命を主神とし,相殿に森崎大神(伊邪那岐(いざなき)命,伊邪那美(いざなみ)命),住吉大神(表筒之男(うわつつのお)命,中筒之男命,底筒之男命)をまつる。創建年代は不詳であるが,中世に信濃国の諏訪神を勧請したものとみられる。近世初頭,この方面の社寺はキリスト教徒により破壊されたが,1626年(寛永3)青木賢清らが諏訪・森崎・住吉三社を合祀して円山に復興。土地が狭いため48年(慶安1)現在地に遷座,幕府も朱印地1万7000坪を寄進,長崎奉行に命じ社殿を造営させた。また外国人も崇敬,中国通商船,オランダ商人からも造営資金が寄せられた。1915年国幣中社となる。例祭10月8日を中心として1日より13日までお九日(くんち)の行事がある。
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百科事典マイペディア 「諏訪神社」の意味・わかりやすい解説

諏訪神社【すわじんじゃ】

長崎市上西山町に鎮座。旧国幣中社。建御名方(たけみなかた)神・八坂刀売(やさかとめ)神などをまつる。1624年の鎮祭。例祭は10月8日。それをはさんで行われる諏訪祭(10月7〜9日)はお九日(おくんち)として名高い。
→関連項目長崎[市]巻狩

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デジタル大辞泉プラス 「諏訪神社」の解説

諏訪神社〔長崎県〕

長崎県長崎市にある神社。「鎮西大社」「おすわさん」などとも呼ばれる。祭神は諏訪大神(建御名方命(たけみなかたのみこと)・八坂刀売命(やさかとめのみこと))、森崎大神(伊邪那岐(いざなぎ)神・伊邪那美(いざなみ)神)、住吉大神。厄除け・縁結び・海上守護の神として信仰を集める。毎年10月に行われる例大祭は「長崎くんち」として国の重要無形民俗文化財に指定。

諏訪神社〔新潟県〕

新潟県新発田市にある神社。648年、諏訪山(現在の北蒲原郡聖籠町)に鎮座したのが起源とされる。祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)、藩祖溝口大祖源秀勝朝臣命(はんそみぞぐちおおみおやみなもとのひでかつあそんのみこと)(新発田藩の初代藩主)。

諏訪神社〔三重県〕

三重県四日市市にある神社。旧県社。1202年、信州の諏訪大社の分霊を勧請して創祀と伝わる。祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)、八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)。江戸時代から伝わる例大祭、四日市祭が知られる。

諏訪神社〔鹿児島県〕

鹿児島県肝属郡南大隅町にある神社。祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)。2基の鳥居が横に並んだ「並列鳥居」で知られる。「川南諏訪神社」とも呼ばれる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「諏訪神社」の意味・わかりやすい解説

諏訪神社
すわじんじゃ

長崎市上西山町に鎮座する元国幣中社。祭神はタケミナカタノカミ (建御名方神) ,ヤサカトメノミコト (八坂刀売命) 。日本西辺の守護神として信仰され,鎮西大社と呼ばれる。例祭は 10月8日で,7~9日の3日間は江戸時代初期から続いている有名な祭り,長崎くんちが行なわれる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

事典 日本の地域遺産 「諏訪神社」の解説

諏訪神社

(岩手県遠野市松崎町光興寺2-6)
遠野遺産」指定の地域遺産。
阿曽沼氏19代・親郷が、諏訪大神のお告げで蛇妖を退治し、賜った神剣をまつり「諏訪明神」と呼んだのが始まりとされる

諏訪神社

(東京都練馬区西大泉3-13)
ねりまのとっておきの風景(地域景観資源)」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

事典・日本の観光資源 「諏訪神社」の解説

諏訪神社

(滋賀県甲賀市)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

諏訪神社

(東京都昭島市)
東京の名湧水57選」指定の観光名所。

諏訪神社

(岐阜県中津川市)
信州の神社百選」指定の観光名所。

諏訪神社

(長野県塩尻市)
信州の神社百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の諏訪神社の言及

【岡屋牧】より

…平安初期に成立した勅旨牧で信濃16牧の一つ。左馬寮の管する荘園となり,治承年中(1177‐81)に立野牧とともに諏訪神社下宮に寄進され,その神領となったが,その後も一定の貢馬駒牽役は負担している。なお源平争乱期に年貢を納めず,1186年(文治2)に源頼朝を通じて催促されたことが《吾妻鏡》にみえる。…

【お九日】より

…九州では,一般に祭礼の日をいい,必ずしも9月9日でない場合も数多くある。長崎市に鎮座する諏訪神社の〈おくんち(長崎くんち)〉はとくに有名であるが,これは新暦10月7日から9日にかけて行われる。まず7日は各町の傘鉾(かさほこ)を先頭にめいめい趣向をこらした踊りがあり,続いて3基の神輿(みこし)が本殿を出て200段の階段を一気に駆け上る行事がある。…

※「諏訪神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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