日本歴史地名大系 「永富町一丁目」の解説 永富町一丁目ながとみちよういつちようめ 東京都:千代田区旧神田区地区永富町一丁目[現在地名]千代田区内神田(うちかんだ)二―三丁目皆川(みながわ)町一丁目の東に位置する町屋で、竜閑(りゆうかん)橋から北に向かう道筋を挟んだ両側町。東は新石(しんこく)町一丁目、南は松下(まつした)町三丁目南側代地・新革屋(しんかわや)町代地・鎌倉横(かまくらよこ)町南側代地、北は永富町二丁目・同三丁目。永富町一―三丁目の町域は慶長九年(一六〇四)に佐竹家(出羽秋田藩)が上屋敷として拝領。同家は天和三年(一六八三)四月二六日に屋敷を収公され、天和年間の絵図では鎌倉横町の北方に永富町が成立している。元禄年間(一六八八―一七〇四)に、鎌倉町北側の武家地(神尾伊予守・遠山権左衛門・酒井石見守・太田摂津守)が収公された際には一時的に町域が広がったが、享保六年(一七二一)二丁目からの出火で一―四丁目が類焼し、享保年間の絵図では明地と他町域になった(沿革図書・江戸藩邸沿革事蹟など)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by