19世紀(明治前期)以前の日本での普通の地図に対する呼称。そもそもは条里制施行時代,農地の状態を表した図に〈田図〉〈文図〉があったが,条里名称などを注記した方格のみの〈田図〉を〈白図〉と呼び,方格のほか山川,湖海,道路,家屋など地形・地物を記入した〈田図〉を,〈白図〉と区別して〈絵図〉と呼んだようである。〈文図〉は条里座標に基づく農地の位置および面積などを記載した一覧表を指したものと考えられる。漢字の〈図〉は〈系図〉という語からも連想されるように,主語・述語の明瞭でない一覧表的記事をも意味することがあるからである。
〈白図〉〈文図〉なる呼称は条里座標制の崩壊とともに姿を消すことになったが,〈絵図〉のみはその名にふさわしい荘園図や寺域図が引き続いて作られたこともあって,それらを一括して呼ぶのに便利な言葉として広く使用された。12世紀には鬼界島(きかいがしま)への海路を示した図や陸奥・出羽両国の地図をも等しく〈絵図〉と称している(《吾妻鏡》)。《拾芥抄(しゆうがいしよう)》(14世紀中期)の1589年(天正17)書写本では同書所載の簡略な〈大日本国図〉を〈国絵図〉と称しているので,〈絵図〉がこの頃では地図一般を指す呼称となっていたことをうかがわせる。また1595年(文禄4)天草で刊行されたイエズス会士の編になる羅葡和辞典には,地理を意味するゲオグラフィアgeographiaが〈諸国の絵図〉,絵画を意味するピクトゥラpicturaが〈絵〉と説明されており,〈絵図〉と〈絵〉がはっきり区別されている。
〈地図〉という呼称が〈絵図〉にとってかわるきっかけをつくったのは,18世紀後半蘭書の翻訳を手がけた長崎の通辞たちで,彼らはオランダ語のカールトkaartの訳語に〈地図〉を当てた。もっとも漢語としての〈地図〉は早く《管子》や《史記》に使用例があり,日本でも1634年(寛永11)や1646年(正保3)における東海道の道路図作りに関する《徳川実紀》の記事に〈地図〉と記載する当時の記録がそのまま引用されているから,〈地図〉は決して通辞たちの造語ではない。要するに江戸時代を通じて地図一般を指す呼称として〈絵図〉が主流ではあったが,〈地図〉もまたときにその同義語として使用されていたのである。〈絵図〉という語が影をひそめるのは,明治政府が学校教育に〈地図〉という呼称を持ちこんでからであり,明治中期以降地図一般を〈絵図〉と称することはほとんどなくなった。現在では〈絵地図〉という語があって,古来使用されてきた〈絵図〉を〈絵地図〉と解するむきもあるが,それが誤りであることは上記の説明によって明瞭であろう。
日本では〈絵図〉という語が何世紀にもわたって地図一般を指していたので,ここでは広く日本における地図作成の歴史を通観することにしたい。
《古事記》や《日本書紀》が伝える国生み神話に登場する島嶼の中には,国土の構成にさして重要であるとも思えない小島嶼の名があがっている。《古事記》の場合には,東シナ海に浮かぶ知訶島(ちかのしま)(五島列島),両児島(ふたごのしま)(男島,女島)の名すら挙げている。これらの離島に関する知識はおそらく海上を往来した海人族(あまぞく)のもっていたものであり,目で見うる形の地図は描かなかったとしても,彼らの脳裡には日本列島の島々の配置を示す地図が刻みこまれていたと思われる。このような脳裡地図が意外に正確であることは,近世の探検家たちの要求によってエスキモーや樺太・千島原住民が描いたそれぞれの土地の地図の内容から容易に想像がつくであろう。
さて文献に見える最も早い地図作成の記事は《日本書紀》巻二十五の646年(大化2)の詔に〈宜しく国々の壃堺(さかい)を観て,或は書(ふみにしる)し,或は図(かたちをか)き,持ち来て示(み)せ奉(まつ)れ〉とある国ごとの地図作成に関する命令である。次いで早いのは682年(天武11)種子島に派遣された使節が〈多禰国(たねのくに)の図(かた)〉を持ち帰ったという記事である(書紀巻二十九)。3年後の685年には信濃の〈地形(ところのありかたち)〉を調べるために派遣された三野王(みののおおきみ)らがその国の〈図(かた)〉を作っている(同上)。この時代はまだ特に地図を意味する日本語がなく,〈かた〉と称していたことがこれらの記載から明らかとなる。
国家による地図作成事業はさらに738年(天平10),796年(延暦15)に行われており,それぞれ国郡図を提出すべきことを地方官庁に命じている。前者に関する《続日本紀》の記事は簡単であるが,後者について記す《日本後紀》によると,〈郡国の郷邑,駅道の遠近,名山大川の形体広狭〉をつぶさに記入すべきことが指示されている。現存する756年(天平勝宝8)の《東大寺山堺四至図(とうだいじさんがいししのず)》に中国流の方格が記入されており,これらの国郡図も実測に基づくかなり精細なものであったと思われる。
ところで正倉院にはこの東大寺寺域図のほか8世紀の田図が20種保存されている。これは東大寺が全国各地に所有していた農地の実測図で〈開田地図(かいでんじのず)〉または〈墾田地図(こんでんじのず)〉と題されている。作成年の最も早いものは751年,おそいものでも767年(神護景雲1)であり,紙に書かれた3種を除くとあとはすべて麻布である。767年の越中国伊加留岐村墾田地の図のみが〈白図〉に相当し,残りはいずれも〈絵図〉の部類に属する。大部分の図にはそこに描かれる土地の所轄国庁の官印が数多く押されていて,地籍図としての重要性を物語っている。この種の地図が何世紀にもわたって保管されたのは,将来の境界紛争に備えるためだったのである。
中世においては寺社・貴族らの領有地の範囲を示す地図がいっそう重要性を増し,〈四至牓示図(しじぼうじのず)〉とか〈下地中分図(したじちゆうぶんのず)〉とか呼ばれる図が作られた。これらの地図には方格の記入はないが,測量に基づくものであることはその内容から見て明らかであり,少数ながら精度の高い図も残っている。
日本全図の古いものとしては,16世紀以前の作品が数点残っているが,称名寺所蔵図(13世紀後半),《二中歴》(15世紀中期)所載図を除いては,平滑な曲線で示される海岸線・国界,山城を起点とする諸国への道線を描示する点で共通しており,それらは〈行基図〉と総称される。〈行基図〉であると否とにかかわらず,いずれも大型の官撰図から派生したものに相違ないが,古代・中世の日本全図については〈行基図〉の項を参照されたい。
同じく地図とはいっても,世界図は国土内部すなわち既知空間を描く地図とちがって未知の空間を対象とするものであり,世界像の確立が前提となる。その点日本では独自の世界像の誕生が見られず,仏教の伝来とともに宇宙像・世界像をそれが説くところにゆだねることになった。すなわち749年鋳造の東大寺大仏蓮弁に刻まれる須弥山図(しゆみせんず)に壮大な仏教の宇宙像を見ることができるし,仏教の世界像を背景とする法隆寺所蔵《五天竺図》(1364)や《拾芥抄》(14世紀前半)所載天竺図が,ヨーロッパとの接触以前における日本での世界図だったのである。まず大仏蓮弁の須弥山図についてみると,日月がその中腹をめぐる須弥山の周囲にひろがる大海の中に,それぞれ形状を異にする4大陸があり,南の大陸がインドのある現実の陸地,閻浮提(えんぶだい)(瞻部洲(せんぶしゆう))である。この大陸はデカン半島の輪郭に着想されて南にゆくほど細くなっている。蓮弁の図にはインド北方の空想の湖,阿耨達(あのくたつ)(無熱池)からその湖をひとめぐりして流れ出るシンドゥ(インダス),ガンガー(ガンジス),バクス(アム・ダリヤ),シーター(タリム?)の4大河が描かれている。
法隆寺所蔵図や《拾芥抄》所載図は,仏説の現実大陸である瞻部洲をかたどった図形の中に,インドをはじめとするアジア諸国を描示したものであり,いずれも大陸から伝来した図を源流としている。なぜなら後世の作品ながら大陸にも同種の構図をもつ図が伝存しているからである。法隆寺所蔵図と同系統の後世の模写本は今日もいくつか諸寺院に伝わっているが,おびただしい大陸内の地名はそのほとんどが玄奘の《大唐西域記》(646)に拠るものであり,図のそもそもの作成意図は玄奘のインドへの旅を地図上に再現することであったと考えられる。《拾芥抄》所載図は簡略化・図案化が進んだ作品で,地名の誤記も多く,何回も転写が重ねられたことを物語っている。おそらく源流は法隆寺所蔵図と同一であろう。
ヨーロッパとの接触以後の地図学については〈地図〉の項を参照されたい。
執筆者:海野 一隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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