( 1 )中古の「こじき」は促音の無表記で、「こっじき」と読むべきか。中世から近世にかけて「こつじき」が一般的で、近世にしだいに「こじき」が増え、近代以降「こじき」が普通となった。
( 2 )本来は托鉢(たくはつ)のことで僧の修行の一つであったが、中世頃から物もらいの意が主になり、近世になると托鉢の意ではあまり用いられなくなる。
家々を訪れては神の祝福のことばを告げて、食を乞い求めた「ほかいびと(乞食)」が、仏教の頭陀行(ずだぎょう)の一つである「乞食(こつじき)」と混淆して、「こじき」の語を生じた。
食物や生活に必要な金品を他人に乞うて暮しをたてている者の総称。
こじきは地方によりコジキ,モライ,カタイ,ホイト,カンジン,ヘンドなどをはじめ実にさまざまの呼び名がある。ただしコジキの呼び名がもともとは仏教僧の托鉢(たくはつ)を意味する乞食(こつじき)からきているように,その多くは本来の意味からの転用である。したがって,こじきの範囲は今日一般に考えられているよりもはるかに広く,そのさかいめもあいまいであった。
ではたとえば近世以前の社会では,こじきとはどのような人々と考えられていたのだろうか。江戸時代の随筆類や風俗調査などにあらわれたところを大きく分類すれば,この時代のこじきに,(1)純然たる物もらいのためのこじき,(2)托鉢勧進する宗教者,(3)門付(かどづけ)芸人,(4)旅をする行商人,などをあげることができる。
このうち第1のタイプのものはおそらくどの時代にも普遍的に存在した。それは冷厳な経済の構造が多くの人々を社会の外へと切り捨てていった結果にほかならないが,風あたりはことに病人に対してきびしかった。カタイというこじきの呼び名が,業病とおそれられた癩(ハンセン病)の異名であるとした土地が少なくないことにも,それはよくあらわれている。彼ら病人たちはこじきとなって故郷を捨て,しばしば治外法権的な性格をもった神社仏閣の庭にたむろして余命をつないだのである。
2番めのタイプのこじきには勧進僧,六十六部,巡礼など,いずれも旅をむねとする宗教者が含まれる。仏典によれば比丘(びく)の生活には十二頭陀(ずだ)行と呼ばれる12の戒律があり,乞食(こつじき)行はその一つとされる。托鉢というのもこれと同じで,修行僧が煩悩のあかをおとし衣食住にむさぼりの心をおこさないため,門ごとに食物を乞い歩くことをいう。したがって午前中に行うこと,生命をささえるにたるだけにとどめることなど,いくつもの厳格な制約があった。しかし一方では働かずに食物を手に入れられるところから旅僧まがいの世間師や故郷で食いつめた巡礼など,ほとんどこじきとしかいいようのないものも少なくなかったのである。
第3の門付芸人には,節季候(せきぞろ),万歳(まんざい),春駒のように一年中の定まった季節にやって来るものと,説経,祭文,歌比丘尼などのように時を定めぬ者とがいた。いずれも第2の場合と同じく,もともとこじきだったわけではない。むしろ季節を定めて祝福に訪れてくる神々への信仰に源流をもち,神の姿をした祝福芸人〈ほかい人〉の末裔にほかならなかった。だから,《万葉集》巻十六に〈ほかひびと〉の歌がおさめられていることからもわかるように,その起源はきわめて古いといってよい。しかしこれら祝福芸がたとえば能や狂言などのように社会の上層に上昇転化するきっかけを失い,また近世に入ってからは,これらの芸をになった人々のほとんどが,差別視された身分におとしめられるにつれ,かつての巡遊芸人たちもこじきと同様にみなされるに至ったのである。
また最後のタイプのこじきにはたとえば,おもに箕(み)なおし,筬(おさ)作りなどにたずさわったといわれる山窩(さんか),オゲと呼ばれる漂泊漁民,野鍛冶などがあたる。彼らの場合も,中世から近世にかけて都市が発達してゆく過程で,そこに定着することに失敗した職種の商人たちが,のちのちまでこじきとして残されてしまったのであろう。
いずれの型のこじきにしろ彼らに共通する特徴として,経済的にも身分的にも社会の最下層に位置していること,社会の一般的な経済システムから排除されていること,そしてきわめて放浪性の高いことがあげられる。逆に土地に根づく農民を主体に作られてきた日本の文化にあっては,一ヵ所に定住しないことはみずから食物を作り出さないことであったから,旅の境涯にある人々の生活様式は必然的に物乞いであるほかはなかったであろう。その意味では,旅を基盤にした文化,あるいは都市でつちかわれてきた文化とは,こじきとそれにまつわるさまざまな習俗を生み出してきた文化であるともいえる。
一方,農民はじめ一般庶民の間にも習俗化された物乞いの行為が入りこんでいることが少なくない。たとえばまぶたに生ずるはれものをモノモライとかメボイト,メコジキなどこじきを意味することばで呼ぶのは,近所の家々をまわって障子の穴から手をさし出し,すこしずつ食物をもらい歩いて食べるとよいなどという民間療法からきている。そのほか八月十五夜の月見のだんごを盗んで食うと健康になるというのはよく知られた風であるし,小正月のころ若者や子どもたちがわざとこじきのなりをして家々から金品や食物をもらい歩く,カセドリとかコトコトなどと呼ばれる習俗もかつては全国に分布していた。これは食物をともにすることにより,多くの人々と力をあわせ,より健康な生活をおくることができると信じた心意にもとづく慣行だと考えられている。
これに対して,一般庶民が,門ごとに訪れるこじきたちに対していだく期待も少なくはなかった。江戸時代の四国諸藩がたびたび乞食遍路の取締りを行いながらも,彼らを弘法大師の化身とみなす庶民信仰にはばまれてついに成功しなかったのは,乞食行脚(こつじきあんぎや)の宗教者に対する民衆の期待や信仰がいかに強かったかを物語っている。施される金品とひきかえにこじきたちは宗教的な霊威や門付芸による祝福,あるいは生活上必要な物資さえもたらした。つまり都市や農村に住む民衆にとってこじきとは,生活圏の外から訪れてくる,なかばの期待となかばの恐れとをもって迎えるべき神聖な旅人でもあったのである。
執筆者:真野 俊和
中国ではこじきは一般に〈乞丐(きつかい)〉と呼ばれ,また仏教で俗に施物を乞うことを〈教化〉といったことから,転じて〈叫化子〉あるいは〈叫花子〉〈花子〉とも称された。貴賤の観念からすると,〈娼,優,隷,卒〉すなわち娼妓,俳優,小役人,兵卒が賤流とされたのに対して,こじきは社会的にその範疇にはいらないが,決して敬われる存在ではなかった。
古くからその社会にもギルドに似た組織があり,頭目は〈丐頭〉〈団頭〉と呼ばれた。一説には,明の太祖が難民を統制するため,その手形として皇帝をあらわす黄色のふさのついた棒を与えたのに始まるといわれ,こじきの側でも,なにがし皇帝は立身出世する前はこじきだったので,とくにその恩沢をうけて今にいたるというように,組織の沿革を説くこともあった。頭目の下には小頭目も置かれ,配下のこじきたちはほぼ年齢によって順位づけられて,物乞いすると,その一部を日銭として上納しなければならず,新入りのものは数日にわたり稼ぎのすべてを献納した。一方,頭目は組織の頂点にたつ者として,配下のこじきを指揮統制し,仲間内の縄張りあらそいなどには絶対的な発言力をもち,家々で誕生祝いや婚礼などの慶事があると,こじきを代表して祝儀をもらいにゆく役目もあった。また天候のすぐれないときや,配下に病人が出たり死亡したときには,そのいっさいのめんどうをみる義務もあった。この頭目の役は世襲されることもあったが,おおむね仲間の最高齢者が跡目をついだ。
このような厳格な組織のなかで,施主に対する呼びかけ方や憐れみを乞う哭(こく)し方,あるいは物乞いの際に唱えるめでたいことばも伝習されたが,中には街頭で見世物まがいのことをやってのけるものもあった。清末から民国初年のころの旧北京には,ナイフや煉瓦(れんが)などで自分の肉体を傷つけたり,皿まわしやヘビをあやつるもの,失明した目や障害をきたした手足をみせるものも見られたという。〈乞食芸〉として〈喜歌〉や〈蓮花落(れんげらく)〉も歌われたが,これらの歌謡は頭目やその専門の師匠から伝授されるものであった。〈喜歌〉は〈門付芸〉の性格をもち,婚礼,誕生祝い,新築,開店などに歌われる祝儀歌であり,〈蓮花落〉はすでに宋代ころから行われていたらしく,民国以後は〈改良蓮花落〉と称されて一種の茶番劇と化した。のちに〈蓮花落〉とともに雑芸場で上演されるようになった〈(すう)来宝〉も,〈乞食芸〉に始まるという。このほか江南地方には,こじきたちが扮装して家々をまわる〈跳竈王〉〈跳鍾馗〉という旧暦12月の行事のあったことが,宋の呉自牧の《夢粱録》や清の顧禄《清嘉録》から知られる。また文学の世界でこじきというと,のちに戯曲化もされた唐の伝奇小説《李娃伝(りあでん)》の主人公がとくに有名であるが,明末刊行の《喩世明言》と《今古奇観》に収められた〈金玉奴棒打薄情郎〉は,団頭のひとり娘の結婚を題材とした物語で,こじきの社会的な面もうかがえる。
執筆者:堀 誠
こじきは一般的には贈与,互酬関係のなかで成立する人間の生活形態である。富める者は再分配の義務を負うが,貧しい者は施しを受け,その代りに富める者のために祈るという関係は,どの宗教においても普遍的にみられるものだといえる。ヨーロッパにおいてはこのような関係のうえにキリスト教の教義が形成され,現世における最大の善行のひとつとして喜捨が位置づけられ,そのためにこじきの存在がキリスト教倫理の前提とされていた。中世においてはこじきは現代と違って社会的に容認された存在であり,こじきの仲間団体すら結成されていた。社会的には,貧民救済の制度が不完全で,食を求める行為として認められる必要があったためであるが,貴族や高位者はつねにこじきに取り巻かれ,物惜しみせずに喜捨しなければならなかった。それゆえにS.ブラントの《阿呆船》(1494)の63章にあるように,職業としてこじきが成立しえたのであった。一方で托鉢修道会のように所有を否定し,托鉢によってのみ生活する修道会も生まれていた。こじきは決していやしむべき生活態度ではなかったからである。健康な身体をもった者が片足,片腕,盲目などに苦心して身をやつし,多くの人々の同情をひき,人々は自分の霊の救いのためにこじきに施物をする。こじきへの喜捨は,施す人の霊の救いを確保する最も簡単な方法であったから,多くの人々は遺言書のなかで死後に遺産のなかからこじきにパンを分け与えるよう書きのこしている。このようにして中世末にはこじきがあふれてきたため,たとえばドイツのフランクフルト・アム・マインなどではギラー小路など街の一部にこじき街をつくり,こじきをする日も数日間に限定し,特定の場所を指定しはじめるようになった。すでに宗教改革以前にこじき取締法がつくられ,こじきには目印をつける義務が課されていた。しかし村のなかではよそ者のこじきと村出身のこじきとは区別され,村抱えのこじきには特定の日に施しをすることが長い間定めとなっていた。
執筆者:阿部 謹也
コーランは信者に対して〈その財産を,近親者,孤児,貧者,旅人,物乞い,奴隷の解放のために費やす〉べきことを繰り返し説いている。そのためイスラム社会ではこじき(スールークṣu`lūk,ハルフーシュḥarfūsh)や貧者(ファキール)に対する自発的な喜捨(サダカ)が奨励され,施しは来世のために善行を積むことになるとみなされた。モスクに集まるこじきには入口のひさしで夜を過ごすことが認められ,礼拝を済ませた信者は,これらのこじきに相応の施しをすることが慣例となった。12世紀以後,多くの托鉢者(デルウィーシュ)が現れ,スーフィーとしての修行の旅を続けることができたのも,このような施しの社会慣行があったからにほかならない。またマムルーク朝時代のアミールたちは,それぞれ特定のこじき集団を抱えていたが,これによってアミールは日常的な施しの機会をもつことになり,ムスリム大衆に対して,公正でしかも気前のよい支配者であることを印象づけることができた。9世紀以後のアラブの散文学は,洗練された都会の教養人と対比して,こじきや浮浪人などの下層民を好んで取り上げ,やがてこじきを主人公とするマカーマートやカシーダ(長詩)も書かれるようになった。
しかしこじきとなるのは,清掃人や墓掘人,あるいは無頼人などと同様に,イスラム社会の最下層民である場合が多かったから,いきおい押しつけがましい物乞いや偽って不具に見せかける者の数が増大した。スブキー(1370没)はこのようなこじきをシャッハーズと呼んで〈職人づくし〉の最後に取り上げ,彼らによる物乞いのための技巧を詳しく説明している。それによれば,モスクの礼拝者やカーッス(説教師)を取り巻く聴衆にしつこくつきまとうのは忌むべきこととされた。これらのシャッハーズを取り締まるのは,ムフタシブ(市場監督官)の役目であった。こじきへの施しを徳として奨励し,またこれを脱俗的な聖者の一種とみなす一方では,このように健全な社会生活を乱す者であるとする見方が近代以降にも受け継がれて,今日にいたっている。
執筆者:佐藤 次高
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
金銭や食べ物を他人からもらって生活する者。社会の落後者としてのイメージがあるが、歴史的には、宗教活動や芸能活動として行われたものや、民間信仰、風習上行われたものもあった。日本の例でいえば、山伏、虚無僧(こむそう)や一般の僧侶(そうりょ)も行った托鉢(たくはつ)などは、単に生活できないための対策としてではなく、宗教活動の意味をもったものの例である。また、万歳、鳥追い、獅子舞(ししまい)、人形回しなどの門付(かどづけ)芸人は、庶民の芸能活動として行われた例である。さらに、物ごいをすると、ある病気が治るとか健康でいることができるといった伝承などは、民間信仰、風習の例である。
外国にも同じような歴史があり、古代ギリシア・ローマ時代にはミモスやミムスとよばれる身振り狂言師が放浪、物ごい生活をしており、中世には種類も多くなって、吟遊詩人(逃亡したり追放されたりした僧侶や学生が多かった)、曲芸師、道化師、演歌師などが放浪、物ごい生活をしていた。これらの者が果たした役割は文芸史の一端を担う意味をもっていた。
[真田 是]
歴史的には、乞食が社会的落後者とは違ったものとしてあったとしても、それぞれの時代の社会の問題の産物であり表現であった。このことは次の3点で知られる。第一は、社会の動揺期、移行期に乞食は増大してきたことである。第二は、それぞれの時期の社会のおもな生産活動からはじき出され、また社会統制が十分及ばないものであることから、乞食は社会の病を集中表現したものであったことである。第三には、乞食は生活困窮者としての性格を備えていたことである。
第一の点については、日本では、平安時代の末期に古代の貴族、社寺の支配体制が弱まり、動揺が始まるとともに、宗教的、芸能的なものも含めた乞食が増えた。また、江戸末期に近世の封建制が矛盾を深めるとともに、侠客(きょうかく)、博徒(ばくと)や売春婦などの反社会的なものとともに乞食の数も増えた。外国でも、中世末期から近代初頭にかけて、それまでの生活手段から切り離されて浮浪する者が増えた。イギリスの「囲い込み」(エンクロージャー)などはその典型である。また、ヨーロッパのこのような事態が多くの人をアメリカに赴かせたが、ここで乞食、浮浪者やそれに類する生活に陥った者も少なくなかった。アメリカやヨーロッパでホボhoboとよばれたものがその例である。このように乞食は、社会の動揺期に進行する社会解体の産物としてとくに数が増えるものである。なお、戦争も社会の解体や破壊をもたらすものとして乞食を増やす。第二次世界大戦直後の日本と西欧諸国がその大規模な例である。
第二の点についていえば、乞食は、社会の動揺期はもちろんのこと、そうでない時期でも、そのときのおもな生産活動から外れ、また支配機構で掌握しきれない面をもっていることから、社会病理としてとらえられた。日本の古代でも、逃散(ちょうさん)して課役を納めない者のあったことが示されており(『令集解(りょうのしゅうげ)』)、江戸幕府による封建支配の再編、強化の時期には、乞食をも支配網に収めるために身分制を敷き「賤民(せんみん)」として社会体制の最下層に組み込んで差別した。ヨーロッパでも、イギリスのヘンリー8世やエドワード6世による浮浪を禁じた16世紀の「残虐立法」とよばれるものが、乞食を非生産的、秩序紊乱(びんらん)的なものとして取締りの対象にした例である。
第三の点については、日本や欧米の寺院や教会の救済活動や救貧制度その他で、乞食がおもな対象の一つになってきたのをみれば明らかである。
[真田 是]
乞食は、宗教的、芸能的、習俗的意味合いをもちながらも問題現象であった。そのために、乞食への社会的対応は、貧困対策としてだけではなく社会病理に対する取締り対策とが交錯してきた。たとえば、貧困対策であるイギリスのエリザベス救貧法は、乞食、浮浪者のなかで労働能力のない者だけを対象にし、労働能力のある者はワークハウス(労役場)に入れたり、残虐立法の対象にして取り締まった。日本の1874年(明治7)の恤救(じゅっきゅう)規則も、対象を「70歳以上の老人、12歳以下の児童、廃疾者(障害者)」というように労働能力がないと当時考えられた者や、かつ身寄りのない者だけを救済の対象にした。その後も、社会福祉の歴史は、貧困者イコール怠け者というとらえ方が繰り返し現れたことから、乞食も貧困者として単純に救済されるのではなく、生活規律を確立する指導=取締りを条件にしたり、権利の懲罰的な制限をしたりしてきた。このように、社会福祉にはなお体制に組み込もうとする取締り的要素があることから、社会福祉制度の利用を嫌って乞食や浮浪者になる者も存在する。
社会福祉の制度がある程度充実してくると、乞食になる前に、たとえば公的扶助のようななんらかの制度が対応するために、乞食は第二次世界大戦後の混乱が収まるとともに減ってきた。しかし、資本主義経済につきものの景気循環やリストラ・「合理化」は、失業者やホームレスなど、おもな生産活動から排除されて生存権を脅かされるものを繰り返し生み出し、乞食の社会的基盤を用意する。ここでいうホームレスは、住宅・住所が定まっていない者の名称である。乞食は仕事を長いことなくしているのが通例であるが、ホームレスは不定期の職、あるいは定職についている者もある。生存権が脅かされると、人間らしさが脅かされる。人間らしさが損なわれると自分を律する力が弱まって、犯罪を犯しやすくなったり、妄想などに左右されやすくなったりする。生存権への脅威は、社会病理といわれるものにも深く影響している。
[真田 是]
乞食はホイト、オコモなどともいわれた。貧窮による者のほかに、病気による者などもいた。また信仰に基づいて乞食をして歩く者もあった。『万葉集』巻16に乞食者の歌2首がある。これはホカイビトといい、今日の乞食とは違って祝言を述べて喜捨を乞(こ)う者で、万歳や鳥追いの徒などに類する者であった。仙台地方をはじめ東北各地では、経文や仏名などを唱えてくる乞食に物を与えることをホカイといい、その乞食のことをホイトといった。仏教では乞食をコツジキといって、これは一種の修行として一定の行儀作法に従って托鉢(たくはつ)して食を乞うことをいった。仏徒以外にも、福島県で神明様というオシラ神を祀(まつ)っている家の主婦は、1年に一度乞食に出る習慣があったという。乞食に対しては上代以来いろいろな対策が講ぜられたことが文献にみえている。『続日本紀(しょくにほんぎ)』淳仁(じゅんにん)天皇の天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762)閏(うるう)12月の条に、乞索児(きっさくじ)一百人を陸奥(むつ)国に配置したことが書かれている。推古(すいこ)天皇や聖武(しょうむ)天皇のとき設けられた悲田院(ひでんいん)や施薬院(せやくいん)の設備も、貧窮者に対する救済策として知られる。本居内遠(もとおりうちとお)の『賤者考(せんじゃこう)』によれば、乞食は一つに袖(そで)乞いともいい、貧民が面を覆い往来で哀れみを乞う者であるが、これには偽者がままあると記している。京都、江戸、名古屋などでは官がお救(すくい)小屋というものを建てて、そこに貧窮者を集めたので一名乞食小屋とよばれたとある。
岡山県では正月にくる乞食に与える団子をホイトダンゴといった。また乞食の名称を付した年中行事が全国各地にみられる。石川県能登(のと)地方、同石川郡、岐阜県高山市高根町日和田などでは、正月20日を乞食正月という。長野県北安曇(きたあずみ)郡では9月29日を乞食の節供(せっく)といって、この日はいっさいの贈答を避ける習わしがあった。この日は刈揚げ節供ともいわれ休日としている所が多いので、ホエト(乞食)も餅(もち)を搗(つ)くという。長崎県五島(ごとう)列島では12月20日を乞食の袋を洗う日といって、女性が洗濯をするのを忌む日としている。
[大藤時彦]
『那須宗一・岩井弘融・大橋薫・大藪寿一編『都市病理講座』全4巻(1973~76・誠信書房)』▽『右田紀久恵・高沢武司・古川孝順編『社会福祉の歴史』(1977・有斐閣)』▽『『吉田久一著作集2 日本貧困史』(1993・川島書店)』▽『庄司洋子・杉村宏・藤村正之編『貧困・不平等と社会福祉』(1997・有斐閣)』▽『「モノモラヒの話」(『柳田国男全集10 食物と心臓』所収・1998・筑摩書房)』▽『社会政策学会編『日雇労働者・ホームレスと現代日本』(1999・御茶の水書房)』
比丘(びく)が食を求めて行くことをいう。出家の比丘は、修行(しゅぎょう)に専念するため、自己の肉体を維持する手段として自己の労働によって自活するのを邪命(じゃみょう)として許されず、食を他人に乞(こ)うのが十二頭陀行(ずだぎょう)の一とされている。早朝に村邑(そんゆう)の家々の門口にて食物を鉢に受けるのが、古来からの規矩(きく)である。このようにして鉢の中に受けた食物をピンダパータpiapātaといい、漢語では分衛(ぶんえ)、あるいは鉢に受ける食物の形状が団子状をしているので団堕(だんだ)という。比丘の乞食姿は、今日の日本ではほとんどみかけなくなったが、上座仏教の伝えられた南アジアの諸国では、いまでも行われており、早朝の風物詩となっている。しかしスリランカではあまりみることがなく、むしろ檀家(だんか)のほうが寺に食物を運んでいる。比丘の乞食は、自給自足の生活を送るカトリックの修道僧とは著しい対照をなしている。
[高橋 壯]
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托鉢(たくはつ)・行乞(ぎょうこつ)・分衛(ぶんえ)とも。少欲知足を旨とする出家者集団がみずからの生命・身体のたすけとするために,一定の規律・行儀にしたがって在家から食物を乞うこと。十二頭陀行(ずだぎょう)のうちの一つ。「僧尼令」などに規定があるが,規律は守られず,ついには物乞いのみする者を乞食(こじき)と称するようになった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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[日本]
こじきは地方によりコジキ,モライ,カタイ,ホイト,カンジン,ヘンドなどをはじめ実にさまざまの呼び名がある。ただしコジキの呼び名がもともとは仏教僧の托鉢(たくはつ)を意味する乞食(こつじき)からきているように,その多くは本来の意味からの転用である。したがって,こじきの範囲は今日一般に考えられているよりもはるかに広く,そのさかいめもあいまいであった。…
…江戸時代から明治にかけて,都市を中心に活動した雑芸人(ぞうげいにん)で,いわゆる乞食の一種とみなされた人々の呼称。身分制度では町人の扱いを受けたが,万歳(まんざい),大黒舞(だいこくまい),節季候(せきぞろ),厄払,猿若(さるわか),辻放下(つじほうか),説経,講釈など,さまざまな雑芸を演じて門付(かどづけ)してまわり,わずかな報酬をえて生計をたてており,〈物もらい〉とも呼ばれた。…
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[日本]
こじきは地方によりコジキ,モライ,カタイ,ホイト,カンジン,ヘンドなどをはじめ実にさまざまの呼び名がある。ただしコジキの呼び名がもともとは仏教僧の托鉢(たくはつ)を意味する乞食(こつじき)からきているように,その多くは本来の意味からの転用である。したがって,こじきの範囲は今日一般に考えられているよりもはるかに広く,そのさかいめもあいまいであった。…
…サンスクリットのパインダパーティカpaiṇḍapātikaの訳で,行乞(ぎようこつ),乞食(こつじき)などとも訳される。インドでは婆羅門(ばらもん)教などに鉢をもって在家に食を乞(こ)うことが行われたが,仏教もその風習をとり入れ,出家した僧は,厳密に定められた種々の規律に従って行乞を行い,生活の手段とした。…
…おのずとそれは,人間とその社会,歴史をとらえるさいの二つの対立した見方,立場にもなりうる。例えば定住的な農業民にとって,漂泊・遍歴する人々は異人,〈まれひと〉,神であるとともに乞食であり,定住民は畏敬と侮蔑,歓待と畏怖との混合した心態をもって漂泊民に接したといわれるが,逆に漂泊・遍歴する狩猟・漁労民,遊牧民,商人等にとって,定住民の社会は旅宿の場であるとともに,交易,ときに略奪の対象でもあった。また農業民にとっては田畠等の耕地が生活の基礎であったのに対し,狩猟・漁労民,商人等にとっては山野河海,道,市等がその生活の舞台だったのである。…
…人はなんらかの集団に所属して役を務めるべきであり,そうでないものは徒者(いたずらもの)として取り締まられた。乞食も,非人頭の手下でないものは野非人(のひにん)として捕らえられ,郷里のあるものは送り帰されて百姓とされ,ないものは非人頭の手下に編成されて町の清掃などの役を務めさせられた。乞食さえも役にたてずにはおかないのが,この時代であった。…
…このほか皮剝ぎ(皮),羊飼い,犬皮鞣工,家畜を去勢する者なども同時に共同体構成員ではない存在として賤視されていたが,彼らも動物とかかわる点で,人間の共同体を超えた世界と接していたのである。 煙突掃除人,乞食,遍歴楽師,陶工,煉瓦工なども共同体構成員になれない存在であり,特に遍歴芸人のような放浪者は定住民の共同体成員からは怖れられ,賤視される存在であったが,彼らも,土,火,水などとかかわる点で共同体にとって不可欠なものでありながら,他面で危険なエレメントと深くかかわる存在として怖れと賤視の対象とされたのである。 狭義の共同体Mikrokosmosとその外に広がる世界Makrokosmosとの狭間に生きる以上の人々の仕事は共同体が成立する以前においてはまだ職業として確立していたわけではなかった。…
…16世紀イギリスで大量に発生した浮浪者や乞食に対する一連の残虐な抑圧立法。イギリスにおける浮浪者を取り締まる立法の歴史は,1348年の黒死病(ペスト)に端を発した労働力不足に対応し労働可能な貧民の物乞いを処罰し施与を禁止した,エドワード3世治下,1349年の労働者条例までさかのぼることができる。…
※「乞食」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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