泗沘(読み)しひ(英語表記)Sabi

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「泗沘」の意味・わかりやすい解説

泗沘
しひ
Sabi

朝鮮,古代三国の一つ百済最後首都。所夫里(そふり)ともいう。今日の大韓民国韓国)中央西部,チュンチョンナム(忠清南)道南西部,プヨ(扶余)邑にあたる。聖王16(538)年,熊津からここに都が移され,義慈王20(660)年の百済滅亡まで約 120年あまりその都であった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「泗沘」の解説

泗沘
しひ

扶余(ふよ)

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世界大百科事典(旧版)内の泗沘の言及

【百済】より

…大和王朝は百済からの新文物にひかれ,外交上のみならず軍事的にも百済を支援することになるが,その軍事力は三国抗争に影響を与えるほどのものでなかった。
[第4期――宮廷貴族連合時代]
 538年に聖王は王都を熊津から泗沘(しひ)(現,忠清南道の扶余)へ移した。泗沘は水陸交通の要衝で,西海岸地域を支配し,加羅諸国,中国の南梁,大和王朝などと積極的な外交交渉を進めるのに格好の地であった。…

【朝鮮美術】より


[百済]
 朝鮮半島の南西部を占めた百済は,高句麗との抗争の間に3度都を変えた。4世紀にソウル近くの漢山城に都を定め,470年ころには錦江中流の熊津に,538年には錦江下流の泗沘(現,扶余)に遷り,660年に唐・新羅連合軍と争って滅亡した。百済は3国のなかでも最も築城が多く,木柵と土城の多いのが特徴である。…

【扶余】より

…郡の中心は錦江の左岸に位置する扶余邑で,人口3万1000(1980)の市街地をもつ。この町は三国時代,百済王朝が首都とした古都泗沘(しひ)であり,多くの遺跡から発掘された遺物は国立扶余博物館に収められている。百済王朝滅亡時,3000人の官女が投身したという,扶蘇山が錦江に臨む絶壁落花岩などもあり,歴史の町として観光地化している。…

※「泗沘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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