基本情報
正式名称=大韓民国Republic of Korea
面積=9万9897km2
人口(2010)=4888万人
首都=ソウルSǒul(日本との時差なし)
主要言語=韓国語(朝鮮語)
通貨=ウォンWǒn
第2次世界大戦後の米ソ両国による朝鮮の南北分割占領を背景に,1948年8月15日に南朝鮮に成立した国家。韓国と略称される。分断国家として北緯38度線をはさんだ南北対峙状況のもとで,歴代政権は反共を旗印とする強権的政治体制を維持し,民主化と統一を求める民衆との対立をつねにかかえこんできた。経済的には,1960年代以降,外国資本に依存しつつ輸出を起動力とするめざましい工業化・高度成長を遂げ,新興工業国(中進国)として脚光を浴びるにいたった。対外関係の特徴は,国家成立以来あらゆる面でアメリカへの依存の強いこと,また65年の日韓条約締結以降は日本への経済的依存が強まったことであるが,70年代には開発途上国との,さらに80年代には社会主義圏との交流にも目を向けるようになった。
1945年8月15日に日本が無条件降伏すると,かねて独立運動をになってきた呂運亨,安在鴻ら民族主義者はただちに朝鮮建国準備委員会を結成し,朴憲永らによって再建された朝鮮共産党も加えて自主的な行政機構の創出を進め,地方ごとに人民委員会を組織していった。アメリカ軍の進駐を目前にした9月6日には,李承晩から金日成にいたるまで内外で日本帝国主義の支配に抗して闘ってきた人士を左右を問わず幅広く指導部に網羅した朝鮮人民共和国が発足した。しかし38度線以南に進駐したアメリカ軍は,呂運亨ら左派民族主義者や共産主義者が主導権をもつ人民共和国を全面否定して強力な軍政をしき,45年12月にモスクワで開かれた米英ソ3国外相会議では,米ソ合同委員会の管理下で臨時政権樹立を具体化し,同政権を米英ソ中4ヵ国の5年間の信託統治下に置くことなどが合意され,即時独立を求める民衆の志向は無視された。
46年から47年にかけて,戦後冷戦体制への移行のなかで,南朝鮮内部では信託統治をめぐって反対する右派と支持する左派との対立が激化し(朝鮮信託統治問題),他方で米ソ合同委員会はモスクワ協定の解釈をめぐる米ソの対立によって機能停止に陥り,47年9月アメリカは一方的に朝鮮独立問題を国連に持ち込むにいたった。この結果,国連に臨時朝鮮委員会が組織され,同委員会の監視下で朝鮮全土の総選挙を実施することが決議されたが,北朝鮮人民委員会とソ連が臨時朝鮮委員会の38度線以北への立入りを拒絶すると,48年2月アメリカは南朝鮮単独選挙実施の国連決議をとり,南北朝鮮の分断を決定的なものとした。南朝鮮民衆は,済州島の48年4月3日を期した武装蜂起をはじめとして広範な単独選挙反対の運動を展開したが,5月10日に選挙は強行され,5月31日の制憲国会開会,7月12日の憲法承認を経て,8月15日に大韓民国が成立した。初代大統領は李承晩,1960年までの第1共和国時代が始まった。
発足直後の李政権は,済州島四・三蜂起に連動した麗水・順天における軍隊の反乱(1948年10月),智異山一帯を根拠地とするパルチザン闘争,米軍撤退(1949年6月)等の難局に直面し,50年5月の第2回総選挙では与党は少数派に転落した。だが同年6月25日に勃発した朝鮮戦争の結果,韓国の反共体制は強化され,アメリカの軍事・経済援助の増大に支えられて李政権の専制支配体制が確立していった。しかし政権永久化のために,大統領選出方法の国会議員による間接選挙から国民による直接選挙への変更,大統領任期の3選禁止条項の撤廃等の憲法改定を強引に行ったことが,かえって民衆の不満を集積させ,経済的危機を背景としつつ60年の学生を中心とする四月革命によって李政権は崩壊した。代わって成立した第2共和国では,李独裁体制への批判から,大統領権限を大幅に縮小した責任内閣制に転換し,李政権時代の野党(民主党)を基盤とする張勉政権(尹潽善大統領)が登場したが,四月革命を生起させた民衆のエネルギーは張政権の規制を乗りこえ,民主化と統一を求める運動は空前の高揚を示した。
こうして南北分断状況に新たな局面が開かれるかにみえたとき,61年5月16日に軍事クーデタ(五・一六クーデタ)が勃発し,軍人を主体とする朴正煕政権(第3共和国)が成立した。新憲法では再び大統領権限が強化され,しかも朴正煕は政権永続化を意図して69年には李承晩同様に大統領任期の3選禁止条項を改定した。朴政権は軍事面での対米依存という点で李政権の政策を継承し,ベトナム戦争に参戦する一方,経済面では李政権の反日政策から対日接近に転じ,65年には国内の反対運動を押しきって日韓条約を締結した。70年代初頭,米中接近という国際情勢の変動を要因として,南北赤十字会談および政権当事者間の対話が試みられ,72年7月4日に統一に向けた南北共同声明が発表されたが,その直後に朴政権は内外情勢の急変に対処するためと称して強権的政治体制を飛躍的に強化する〈十月維新体制〉(第4共和国)を成立させた。維新憲法によって,新設の統一主体国民会議(大統領選出母体で,2359名から成る)による大統領選出(1972年12月23日),大統領任期は6年で重任制限なしというように,政権永続化を保障する制度的基礎は一段と整えられたが,これに対して維新体制撤廃を求める民主化運動が盛りあがりをみせていった。その指導者で野党の大統領候補であった金大中(1925-2009)が,政敵抹殺をねらった朴政権によって73年8月に東京で拉致されると,南北対話は中断され,日韓関係も以後緊張の度を加えていくことになる。維新体制に対する民衆の批判を高度経済成長の実現によってかわしながら長期政権を維持した朴正煕は,79年の第2次石油危機を契機とする不況と,それを背景とした労働運動の高揚,野党=新民党(総裁,金泳三)の急進化,釜山・馬山の民衆暴動等の一連の政治的危機の深まりのなかで,10月26日に腹心の部下である金載圭中央情報部長に射殺され,衝撃的な最期を遂げた。
以後80年前半にかけて民主化運動は急激に発展,次の政権をねらう野党系の金大中,金泳三(1927- )と朴政権直系の金鍾泌(1926- )が民主化で歩調を合わせ,〈三金時代〉と呼ばれる韓国政治の新時代が始まるかにみえたが,急速な政治変革を恐れた軍部は,80年5月17日の非常戒厳令の全国化によって実権を掌握し,抵抗する光州の学生・市民多数の虐殺(光州事件,85年の政府報告では死者192人)を通して,再び軍人中心の全斗煥(1931- )政権(第5共和国)を成立させた。全政権は88年ソウル・オリンピック開催などで韓国の国際的評価の向上に努めたが,強権的政治体制と民主化運動という対抗基軸が,依然として韓国の政治を規定する基本的要因であることに変りはなかった。
85年の総選挙で在野指導者の金大中,金泳三らが率いる野党新民党が善戦,86年に入ってからは学生を中心とする在野勢力とともに大統領直接選挙制を盛りこんだ憲法改正を求め,反政府運動を激化させた。87年全政権は改憲要求を受けいれ,10月の国民投票で新憲法が承認された。同年12月の大統領選挙では激戦の末,与党民主正義党の盧泰愚(1932- )が当選したが(88年2月就任,第6共和国),翌88年4月の総選挙では与党が第1党の地位は保ったものの,議席は過半数を大きく下回った。88年のソウル・オリンピックを史上最大の規模で開催した盧政権は北朝鮮との対話,社会主義圏との外交で得点を稼ぐ一方,政権基盤を強化するために,90年には与党民正党と野党民主党(金泳三総裁),共和党(金鍾泌総裁)の3党合同に踏み切り,巨大与党民主自由党(民自党)を成立させた。野党側にも,これによる政権獲得の期待があり,盧泰愚から金泳三への政権委譲,議院内閣制への転換等の密約があったという。
しかし,もともと系譜が異なる3党が唐突に合同したため,内部対立が絶えず,国民の支持率はきわめて低く,政局はむしろ混迷していった。91年には地方自治制を復活させるべく,基盤地方議会選挙(市,郡,区),広域地方議会選挙(特別市,広域市,道)が実施された。92年末に大統領選挙が実施され,与党民自党の金泳三,野党民主党の金大中,それに現代財閥総帥で国民党を旗揚げした鄭周永の3人の争いの結果,金泳三が勝利した。93年2月に発足した金泳三政権は,32年ぶりの文民政権として思い切った行政や人事の改革に取り組んだ。その一環として,軍人政権時代の歴史の再評価,清算を進め,ついには元大統領の全斗煥,盧泰愚に対して,光州事件等の責任を追及し,重刑を科するにいたった。一方,与党は金鍾泌が離党するなどなお内紛をかかえ,95年の統一地方選挙では野党が勝利をおさめたため,民自党は過去の軍事政権との決別の意味を込めて党名を新韓国党に変更した。1996年には念願のOECD(経済協力開発機構)加盟を実現した。
分断国家として成立し,朝鮮戦争という惨劇を体験した韓国では,朝鮮民主主義人民共和国との対決姿勢が一貫して社会の基調となっているが,反面で同一民族であることに由来する緊張緩和への模索も試みられている。南北間の緊張状態の存続は,強権的政治体制を正当化し,高度経済成長へと国民を動員し,また外国からの援助をひき出す効果を生んだ。その一方で,反共法(1963)から国家保安法(1980)への変化にみられるように,自己の体制を前提としたうえでの南北対話と統一への提案が繰り返し行われてきた。南北双方の思惑が一致して南北対話が実現したのは,米中接近を背景とした72年の赤十字会談,南北共同声明と,84年の水害救援物資受入れを発端とするスポーツ交流・経済交流への動きである。韓国側は,経済建設の面で北朝鮮より優位に立ったとの認識のもとに,南北の関係改善に積極性を示しており,87年ビルマ(現,ミャンマー)沖での大韓航空機行方不明事件,88年ソウルでのオリンピック単独開催などで激しい対立はあったものの,90年には初の南北総理会談が行われた。91年9月の国連総会では,北朝鮮が南北単一加盟方針を転換した結果,南北朝鮮の国連同時加盟が実現した。
韓国の憲法は1948年7月の制定以来,しばしば改定が加えられてきたが,その重要な焦点は大統領の任期,選出規定等,政権の長期化にかかわる条項の変更であった。1987年10月発効の第6共和国憲法では,大統領は国民の直接選挙で選出され,任期は5年,重任禁止と定められている。行政府における大統領の権限はきわめて強く,国務総理および国務委員(各部長官)の任命権をもち,国務会議(内閣)の議長となる。国会は張勉政権時代を除き一院制で,第6共和国憲法では議員定数は,小選挙区制による地方区224人,比例代表制による全国区75人の計299人で,任期4年と規定されている。地方行政機構は,京幾,江原,忠清南・北,全羅南・北,慶尚南・北,済州の9道と,ソウル特別市,釜山,大邱,仁川,光州,大田,蔚山(ウルサン)の6広域市(もと直轄市といった)とに区分される。
地方自治は1961年の軍事クーデタ以降,機能停止の状態が続いていたが,1991年から地方議会選挙,地方自治体首長選挙が順次復活してきた。
全般に大統領権限の肥大化の著しいのが韓国の政治制度の特徴であるが,朴政権下に創設された韓国中央情報部(全政権下で国家安全企画部に改組)が,大統領直属機関として政権維持に特殊な役割を果たしてきた。
韓国の主要政党は与野党を問わず保守的性格が強く,社会主義的政党は,社会主義インター加盟の小党(1970年代の統一社会党など)が存在したとはいえ,ほとんど活動の余地を与えられていなかった。与党は大統領によって創立され,政権の崩壊とともに解体する特徴をもっていた。李承晩政権時代の与党は,当初は李承晩直系の大韓独立促成国民会で,これに地主・有産階級を基盤とする韓国民主党が準与党として加わっていたが,後者はその後野党化し,前者を中心に1951年に自由党が結成された。60年の四月革命後の張勉政権では,李政権時代の野党であった民主党が与党となったが短命に終わり,朴正煕政権下で新与党として民主共和党が創立された。全斗煥政権になると,既成政党はすべて解散させられ,新たな与党として民主正義党が発足した。盧政権は民主正義党を引きついだが,90年に与党と第2野党民主党,第3野党共和党とが合同,新たに民主自由党が誕生した。96年には新韓国党に改称している。
与党は権力の存在を結集軸にしているため,政権交代につれて系譜が断絶する傾向があったのに対して,野党はそれなりに歴史をもってはいるが,派閥対立が激しく離合集散がめまぐるしい。代表的野党の系譜をたどると,起点は李承晩政権発足時の準与党であった韓国民主党に求められる。同党が民主国民党,さらに民主党へと改編されつつ野党第一党を維持し,張勉政権の与党に転じる際に分裂して野党として新民党が結成された。61年の軍事クーデタで政党活動が禁止され,解除後に群小野党の乱立となったが,67年の新民党創立によって統合が果たされた。同党は維新体制下で民主化運動の隊列に加わるにいたったものの,80年には解散を余儀なくされた。88年の総選挙で野党勢力は大きく議席を伸ばしたが,90年に第2野党,第3野党が与党と合同したため,主要野党は金大中が率いる平和民主党のみとなった。その後の再編を経て97年夏の時点では,第1野党は新政治国民会議(金大中総裁),第2野党は自由民主連合(金鍾泌総裁)であった。97年12月の大統領選挙を控えて,新韓国党は民主党と合流して〈ハンナラ党〉と改称し,李会昌候補を立てたが,金鍾泌と組んだ国民会議の金大中が勝ち,韓国史上はじめて野党から大統領が出ることになった。従来の慶尚道人脈とは対立する全羅道出身という点でも注目された。
韓国の代表的野党は伝統的に親米反共の保守的性格が濃く,政府批判勢力としては急進的でないため,反政府運動の先頭に立つのはつねに学生運動であった。60年の四月革命は学生革命といわれるし,60年代の日韓条約反対闘争,70年代の一連の民主化運動なども,学生運動をぬきにしては考えられない。学生の先鋭な運動に触発されて,野党指導者,言論・知識人,キリスト者などが反政府運動の統一組織を結成するのが一般的なパターンであり,74年12月結成の民主回復国民会議はその一例といえる。言論機関の世論に対する影響力は伝統的に大きいため,政府はマスコミの規制に非常に配慮をしている。政府の報道規制に対して74-75年に《東亜日報》記者が〈自由言論実践宣言〉を掲げて起こした運動は,国際的にも大きな注目を集めた。さらに70年代の反政府運動の特徴として,工業化とともに成長してきた労働者階級の自立した運動が,民主化闘争のなかで重要な位置を占めるようになった点を指摘できる。
労働組合の全国組織としては,解放直後に大衆的基盤をもって結成された左派系の朝鮮労働組合全国評議会(全評,1945年11月結成)が米軍政庁に弾圧されて以降,対抗的に組織された右派系の大韓独立促成労働総連盟(大韓労総,1946年3月結成。李政権下で大韓労働組合総連合に改組)が唯一の存在であったが,御用団体的性格が強かったため,民主的労働運動を求める勢力は59年に新たに全国労働組合協議会を結成した。61年5月の軍事クーデタですべての労働団体が解散させられ,8月に朴政権は大韓労総の人脈を中心に韓国労働組合総連盟(韓国労総)を組織し,労働運動を体制内に統合する機能を果たさせた。これに対して強権的政治体制のもとで奪われていた労働基本権の回復を求める自立した労働運動が,70年11月ソウル平和市場の縫製労働者全泰壱の焼身自殺を皮切りに70年代に各地で展開されていった。それを支えるうえで有力な役割を演じたのは都市産業宣教会(プロテスタント系,1958年結成),カトリック労働青年会などのキリスト教団体であった。
18世紀末に導入されて以降,受難と抵抗の歴史をもつ韓国のキリスト教は,李政権時代以来勢力拡張を続け,80年代には信者数は公称で1000万人近くに達したという。はじめはカトリックが導入されたが,やがてアメリカの影響下でプロテスタントが多数派になっていった。全国いたるところに大きな教会の建物が見られることは,韓国におけるキリスト教の影響力の強さを物語っている。教会組織は国際的広がりをもっており,民主化運動に国際的支持を集めることができるため,政府側も対応に配慮せざるをえなかった。また76年3月1日にソウルの明洞大聖堂で開かれた祈禱会で〈民主救国宣言〉が発表されたことに示されるように,教会の祈禱会はしばしば運動を推進する役割を演じている。
80年代以降も在野の民衆運動勢力は多様な運動を繰り広げ,全国組織として民主統一民衆運動連合(民統連,1985年),全国民族民主運動連合(全民連,1989年),民主主義民族統一全国連合(全国連合,1991年)などが結成されている。労働運動では,体制的な韓国労総を批判しつつ87年以後に躍進を遂げた急進的な民主労組が,90年に全国労働組合協議会(全労協)を結成している。学生運動では,韓国社会の把握と戦略課題をめぐって路線対立が生じたが,87年に全国大学生代表者協議会(全大協)が結成された。しかし,民主化過程の帰結として金泳三政権が成立すると,民族民主運動は目標をあらためて捉え直す局面に入っていった。民衆政党の結成,労働・農民運動の強化,経済正義(格差是正・不正腐敗防止等)・環境・生協等を課題とする市民運動の組織化など,さまざまな方向が模索されつつある。
朝鮮戦争の悲劇を経験した韓国の歴代政権は,〈北の脅威〉を唱えながらたえず軍事力の増強につとめてきた。陸軍を中心に陸海空3軍からなる韓国軍の総兵力は,常備軍のみでは約60万人で一定しているが,そのほかに予備役や郷土予備軍などの名称で民間人後方組織が編成されてきた。南北の軍事力バランスをみると,主力戦車,艦艇,戦闘機等の数では韓国側が少ないものの,性能の面ではすぐれており,ほぼ均衡がとれているとみられる。国民の軍事負担は重く,成人に達した男子には原則として2~3年の兵役の義務があるほか,軍事支出はGNPの3~4%,国家予算の約4分の1の水準に達している。軍事産業の育成は政府の重点政策であり,各種兵器のライセンス生産を推進している。
アメリカの軍事援助が韓国の軍備増強に果たしてきた役割は絶大であり,1953年10月調印の米韓相互防衛条約に基づき米軍は韓国に駐留をつづけてきた。在韓米軍は長期的には削減の方向にあるとはいえ,95年現在でも陸軍,空軍を主体に約3万6000人の兵力を維持し,核兵器を含む最新鋭装備を擁している。在韓米軍司令官は,朝鮮戦争以来,名目的には国連軍司令官を兼任し,韓国軍に対する作戦統制権をもっていたが,94年末に平時の統制権については韓国側に返還された。1978年以来大規模化した米韓合同軍事演習(チーム・スピリット)には,在日米軍はもちろんのこと,日本の自衛隊も事実上参加しており,日米韓軍事一体化の進展を示すものとなっている。
韓国成立の経緯からみても,その後の軍事同盟関係からみても,韓国にとってつねに最も重視しなければならないのはアメリカとの関係である。李承晩政権の外交はアメリカ一辺倒であって,アメリカの軍事・経済援助なくしては政権の存立はありえなかったし,アメリカはアジア戦略遂行のために李政権を支持したのであった。この相互関係は朴正熙政権となっても変わらず,1965年にはアメリカの要請に応じてベトナム派兵に踏みきっている。1970年代に韓国内のキリスト者などをめぐる人権問題で米韓関係にきしみが生じたが,アメリカは対ソ戦略上の最前線基地である韓国への支援を断つわけにはいかず,結局は強権的政権を支持せざるをえなかった。このことは,反政府勢力も含めて親米的な韓国の国民感情のなかに,徐々に反米感情を生み出す根拠となった。
次に重要なのは日本との関係であるが,李承晩政権は抗日独立運動の伝統を尊重するがゆえに,いわゆる李承晩ラインに象徴される徹底した反日政策を堅持していた。朴正煕政権になると,主としてアメリカの援助削減を背景とする経済上の動機から対日接近政策が積極化し,1965年に日韓条約を締結した。以後,経済面を中心に日本との関係は急速に緊密化し,73年の金大中事件,82年の教科書問題,90年代の従軍慰安婦問題,さらに竹島問題等の紛糾を繰り返しながらも,対日外交の課題は軍事から文化まで広範な領域に拡大しつつある(後述の[日本との関係]を参照)。
1960年代までの韓国外交の対象はアメリカ,日本等の西側陣営にほぼ限られていたが,70年代以降は開発途上諸国,さらには社会主義圏との交流にも力を注ぐにいたっている。その要因の一つは韓国経済の工業化に伴う輸出市場拡大と資源確保の要請である。輸出拡大を至上命令としてきた韓国にとって,アメリカなど先進工業国の保護貿易主義の高まりは新市場開拓の必要性を増大させ,また石油危機後の資源問題の深刻化は資源保有国との交流拡大を焦眉の課題としたからである。別の要因として,朝鮮民主主義人民共和国と対抗しつつ国際的地位の上昇を図るねらいがあげられる。75年の国連総会では韓国支持派決議案と並んで北朝鮮支持派決議案が採択され,北朝鮮の対非同盟諸国外交の成果と評価されたため,韓国は対抗上非同盟諸国への接近を図ることとなった。83年10月,全斗煥大統領一行が非同盟諸国歴訪の途上,ビルマのラングーン(現,ヤンゴン)で爆弾テロに見舞われた事件は,韓国の影響力拡大をおそれた北朝鮮側の工作員による行為(ビルマ政府の報告書)とされている。また1960年代以来の中ソ対立,70年代からの米中接近,80年代後半からの米ソの緊張緩和に示される国際政治の多極化は,反共を国是とする韓国に社会主義国と交流する契機を与える意味をもち,90年にはソ連と,また92年には中国と国交を樹立するに至った。なお,南北統一問題については〈朝鮮〉の項目を参照されたい。
韓国の経済は,日本の植民地支配によるゆがみ,解放後の南北分断による不均衡,朝鮮戦争による破壊といった二重三重の困難から出発しなければならなかった。李承晩政権時代はアメリカの援助への全面依存として特徴づけられる。アメリカの影響下で朝鮮民主主義人民共和国の土地改革と対抗しつつ1950年から実施された農地改革は,農家経済の自立と農業生産力の増進による農民生活の向上という目的を達成できず,むしろアメリカの余剰農産物援助に圧迫されて,〈春窮麦嶺〉と称する端境期には〈絶糧農家〉すら生じた。工業生産の面では,小麦,砂糖,綿花等の援助物資を加工する〈三白工業〉(製粉業,製糖業,綿工業)が成長し,政権と癒着した三星財閥等の〈特恵財閥〉の肥大化をもたらしたが,重化学工業の発展はみられず,経済構造は全体として著しく均衡を失していた。50年代末にアメリカの援助が削減に向かうとともに経済的危機が深刻化し,これが李政権崩壊の一つの背景となった。
朴正煕政権は1962年以降,経済開発5ヵ年計画を作成・実行し,工業化を基軸にした高度成長を実現していくことになる。5ヵ年計画の目標には自立経済の達成が掲げられ,援助経済からの脱却が志向されていたが,当面は外資導入に依存せざるをえないという背理を含むものであった。65年に懸案の日韓条約が締結された要因として,5ヵ年計画遂行に要する外資の導入ルートを開く必要に迫られていた点が重要である。60年代後半,借款導入による工業化の進展がみられたが,その反面,借款企業の経営悪化(いわゆる〈不実企業〉の発生),工業化に伴う輸入拡大と借款元利金返済の増大を原因とする国際収支危機などの新たな問題が生じ,外資導入政策は直接投資の促進と輸出産業の育成へと重点を移行させていった。外資企業への優遇措置と低賃金労働とを結びつけ,輸出向け生産のみを行う馬山輸出自由地域の設置(1970)は,この転換の象徴であった。こうして60年代後半から70年代後半まで,韓国経済は外資に依存しつつ輸出の顕著な伸びを実現し,高度成長を持続することができた。GNPの年平均成長率は,第1次5ヵ年計画(1962-66)では8.5%,第2次5ヵ年計画(1967-71)では10.5%,第3次5ヵ年計画(1972-76)では10.9%と,それぞれ当初の目標を上回る成果を記録した。この間に産業構造は農業中心から工業中心に転換し,しかも重化学工業化が着実に進展した。政府の保護を受けながら,現代財閥,大宇財閥などの新興財閥が重化学工業部門に進出し,タコ足的に事業基盤を拡大していくのもこの時期にあたる。
このような経済的躍進が第1次石油危機(1973)を契機とする世界的不況と対照的に実現したため,韓国は70年代に登場したシンガポール,台湾などの新興工業国家群(NICSあるいはNIEs)の代表として国際的に注目を集め,発展途上国の開発モデルと評価されるにいたった。しかし,対外依存度の高さと国民経済としての不均衡という韓国経済の構造的問題点がこの間に解決されたわけではなく,79年の第2次石油危機とともに累積した矛盾が一挙に露呈し,朴政権崩壊の要因を作り出すことになった。80年には60年代以来初めてマイナス成長に転落し,第4次5ヵ年計画(1977-81)の年平均成長率は目標の9.2%を下回る5.5%にとどまった。全斗煥政権はこの経済的難局の乗り切りを主要課題として,混乱の元凶と目される重化学工業の過剰投資の整理に着手したが,世界経済の不振が続くなかで,かつての輸出主導型の高度成長の再現は容易でなく,第5次5ヵ年計画(1982-86)は大幅な計画縮小を余儀なくされた。特に過去の大量の借款導入の帰結である対外債務累積問題は深刻であった。
その後80年代前半の調整過程を経た韓国経済は,86年から88年にかけてGNP成長率が3年連続10%を超える高度成長を実現した。これは原油価格の低下,国際金利の低下,ドル・レート(ウォン・レート)の低下(円高)という〈三低〉要因によるもので,輸出が大幅に伸びて86年に経常収支は念願の黒字化を達成した。こうした国際的要因の影響が大きいことは,韓国経済の対外依存的体質を反映しているが,それを活用できるほどに工業生産力が備わってきたことが重要である。もっとも,89年になると民主化運動,労働運動の激化で賃金が高騰し,ウォン・レートの上昇も加わって輸出が頭打ちとなり,成長率は低下せざるをえなかった。しかし90年代に入り,民間投資,建設投資などの内需が成長を支える側面が強くなってきた。民主化政策は,韓国経済の輸出主導型という体質をある程度変化させ,内需の役割を引き上げたわけである。他方,内需の活況は過剰消費,株式・土地価格の高騰,インフレ,輸入増大を招き,経常収支は再び赤字に戻っていった。
しかし,97年に入って輸出の伸び悩みと経済成長の急減速から下降局面にさしかかり,財閥系企業の経営危機の続発や主要銀行への政府緊急融資という事態に陥って,11月には外貨不足に端を発した金融危機でウォン相場が大暴落し,株価も急落するに至り,遂にIMFの緊急支援を受けることとなった。
工業化を基軸とする高度成長によって,70年代前半に韓国は農業国から工業国に転換し,表に示されるように国民総生産の産業別構成比(経常市場価格)は73年に鉱工業が農林漁業を抜き,就業人口に占める農林漁業の比率も73年の50%から93年には15%以下に低下している。貿易面でも輸出に占める工業品の比率は64年にはようやく50%台に達したにすぎなかったが,70年に80%台に到達し,79年以降は90%台を維持している。しかも工業部門における重化学工業の比率は,1970年代後半に軽工業を凌駕するにいたった。重要な製造業は軽工業では繊維,重化学工業では鉄鋼,化学,造船,電子,機械等で,ソウル周辺や慶尚道を中心に各種の工業団地(韓国輸出産業工業団地,亀尾電子工業団地,昌原機械工業団地等)が設立され,蔚山(うるさん)と麗水の石油化学コンビナート,浦項の巨大製鉄所などの重化学工業基地が築かれていった。
こうして粗鋼年産850万tの浦項総合製鉄,100万トン・ドックの蔚山造船所をもつ現代重工業といった,アジアでも有数のビッグ・ビジネスが出現したが,その反面,資本,技術,原資材等の対外依存度の高さ,財閥系大企業の肥大化と対照的な中小企業の脆弱(ぜいじやく)性,労働者の地位の低さなど,韓国工業の構造的問題点はなお解決されたとはいえない。めざましい工業化の影に隠れた形の農業部門では,全羅道,慶尚道等の穀倉地帯を中心に米穀の自給を達成するため70年代に統一稲等の多収穫品種の導入を図り,米穀生産は年産500万t台に達しているが,天候や病虫害に制約されて増産政策は限界に直面している。政府は農村経済の活性化のために70年代初頭からセマウル運動を展開し,道路整備,農家の屋根の葺替え,電化などにより農村の景観は一変した。
工業化と歩調を合わせた交通の発達にも目をみはるものがある。陸上交通の骨格をなす鉄道は,ソウルと釜山を結ぶ幹線(京釜鉄道)をはじめとする主要路線がすでに1945年以前の植民地時代に成立していたが,発展の速度では自動車交通に大きく遅れをとった。高速道路網の建設は60年代末から開始され,首都と地方主要都市を相互に結ぶ〈全国土一日経済圏化〉が進展している。自動車保有台数は1969年に10万台,76年にようやく20万台を超える程度であったが,その後の伸びは著しく,85年には100万台を突破,97年には1000万台を超えた。鉄道についても高速鉄道の導入,ソウルと釜山の地下鉄建設など,大量輸送機関としての役割が見直されている。こうした社会資本の整備においては,日本や欧米の経済援助が不可欠の役割を果たしてきた。
韓国経済の変貌は政府の主導によるところが大きく,財政と金融が政策手段として動員されている。国家財政の規模は一般会計と特別会計を合わせるとGDPの約4分の1に及び,95年度に70兆ウォン台(約10兆円)に到達した。一般会計の歳出項目は軍事費,教育費,経済開発費などがおもなものである。歳入面では,高度成長とともに租税負担率が上昇し,80年代にはGNP比20%近くに達した。おもな税目は所得税,法人税,付加価値税である。
金融構造の特徴としては,中央銀行である韓国銀行(1950年,朝鮮銀行を改組して発足),長期資金を供給する韓国産業銀行,貿易金融を担当する韓国外換銀行等の政府系金融機関による政策金融の役割が大きいことがあげられる。市中銀行に対する政府の統制も強かったが,金融自立化の名のもとに80年代初頭に政府保有株式の売却が進められ,民営化が進展した。経済成長を追求する政策金融によって経済のインフレ体質が定着し,通貨価値は下落を続けている。ウォンの対ドル為替レートは60年代中期の270ウォン台が70年代後半に480ウォン台になり,80~90年代は700~800ウォン台で推移している。政府主導型の経済成長を遂げた韓国の企業は資本の内部蓄積が乏しく,資本市場が未発達なため資金需要の多くを借入金に依存してきた。資金繰りに苦しむ企業の場合,制度的な金融機関を通さない高利の私債を応急の運転資金に利用することが多かった。私債市場のおもな貸手は専門的高利貸業者であるが,その基礎には庶民の小口資金を集積する契や伝貰金(でんせいきん)と称する多額の不動産権利金などの存在が指摘できる。高利の私債市場は,企業の財務構造を脆弱(ぜいじやく)なものとし,しばしば金融市場のかく乱を招くため,政府は70年代前半から私債規制と企業の株式公開を通じた資本市場の育成策を展開した。その結果,80年代から90年代にかけて証券市場は急速な発達を遂げた。
韓国経済の高度成長を支えてきたのは輸出の驚異的な伸びであった。60~70年代の年平均輸出伸び率は40%近い実績をあげ,64年にわずか1億ドルにすぎなかった輸出額は,71年に10億ドル,77年に100億ドルを超え,95年には1200億ドルを超えた。GNPに対する輸出の比率は60年代前半の10%以下から80年代前半には40%近くに上昇した。だが80年代以降,世界不況と先進工業諸国の保護貿易主義の高まりに加えて,輸出の急増を支えてきた低賃金構造が,国内のインフレと,より低賃金の後発途上国の工業化によって限界に直面し,輸出の伸びは頭打ちとなっている。主要輸出品目は当初は繊維類が首位を占めていたが,産業構造の高度化に伴い,82年には重化学工業品が輸出全体の50%を超えた。なかでも半導体など電子製品の伸びが著しい。輸出相手国はアメリカと日本に偏っていたが,アジア,ヨーロッパ等への多角化が追求され,アメリカ,日本両国の構成比は1980年に50%以下に低下した。輸出主導型の工業化は輸入を誘発する性格をもっており,輸入もまた64年の4億ドルが77年100億ドル,95年1300億ドルと急増を記録した。おもな輸入品は工業化に要する原油と機械類で,相手国はやはり日本とアメリカが大きなシェアを占めているが,両国の構成比は輸出同様に1980年に50%を割り,ここでも中東,アジア等への多角化が進展している。
工業化を支えた外資導入状況をみると,公共借款は国際金融機構,アメリカ等から社会間接資本へ,商業借款はヨーロッパ,アメリカ,日本等から製造業へというのがおもな流れである。直接投資は日本が半ばを占めて,アメリカがこれに次ぎ,主として製造業(化学,電機,電子工業等)に向けられている。国際収支の動向では,輸出の拡大にもかかわらず貿易収支が赤字基調を脱しきれないため,政府は中東への建設労働力輸出,観光客誘致など貿易外収支の受取増大に努めてきた。しかし経常収支の赤字は解消しておらず,結局外資導入に依存せざるをえなくなるが,それはまた借款元利金負担の増大に帰結,83年末の累積債務額は約400億ドルと国際的にも上位5位以内にランクされる大債務国となった。ただその反面,70年代後半から市場開拓,資源確保を目的に韓国企業の対外進出が活発化してきており,資本受入れと資本輸出の両面が見られるようになった。90年代にはODAの受入国から供与国への転換が図られ,対外債権が増大したため,対外純債務は100億ドル程度に減少した。
しかし,97年末の外貨不足に端を発した経済危機に際してIMFや日米欧諸国の緊急支援に依存せざるをえなくなったように,韓国経済の構造的弱点の克服は大きな課題である。
韓国の社会・文化状況は,一面では伝統的なものを根強く残しながらも,南北分断やアメリカ,日本等からの影響を受けつつ高度成長の過程で著しい変容を遂げている。同一民族が南北二つの社会体制を異にする国家に分断され,しかも朝鮮戦争という惨劇とその後の厳しい緊張関係が継続した結果,国民の間には広範な反共意識が定着していった。これは歴代政権の徹底した反共政策・反共教育の効果でもあるが,38度線を越えて南に定住することになった多数の北朝鮮出身者の存在も見逃せない。しかしここに生じた1000万人を超すといわれる離散家族の問題は,南北交流への強い希求を生み出している。〈日帝36年〉といわれる日本の植民地統治の傷痕もまた韓国の社会と文化のあり方を規定する大きな要因である。李承晩政権時代の親米・反日政策は,朴正煕政権時代に日韓条約締結によって軌道修正されたが,底流にある反日意識が簡単に解消するはずはなく,それはより積極的な民族主義の提唱,民族文化の強調へと進んだ。全斗煥政権時代には,日本統治の影響を受けていないハングル世代が社会の中堅に進出し,〈反日から克日へ〉というスローガンが現れるにいたった。
韓国社会の基礎には,上下の身分序列をもつ家族およびそれを拡大した親族組織が社会の最も重要な構成単位であるとする家族主義の原理が存在する(〈家〉[朝鮮]の項参照)。長子相続権をもつ家を中心にチェサ(祖先祭祀)を親族全体で行い,その団結をはかるという韓国の家族主義は,族譜の尊重によく表現されている。家族内でも男女により居住空間が区別され女子より男子が重視されること,兵役義務で一人息子が優遇されたこと(3代続きの一人息子の兵役免除など)にも,この原理の貫徹が見いだされる。血縁関係,地縁関係,学閥の強さ,官界,政界,実業界,学界その他あらゆる社会に派閥が形成されるという韓国社会の特質は,この原理から派生したものといえる。財閥の経営陣を家族や親族で独占する傾向は血縁重視の現れである。地縁的結合の強さは地方主義を生み,地域間の対立を招くことになる。慶尚道出身の朴大統領が慶尚道の経済開発に力を注ぎ,全羅道出身の金大中をライバル視したことはしばしば指摘されている。80年の光州事件の背後にこの両地域の対立感情があったことは,84年開通の大邱(慶尚北道)と光州(全羅南道)を結ぶ88オリンピック高速道路が〈和合の大動脈〉と位置づけられた点によく示されている。私債の根強い存続,各種の契の盛行も,こうした集団志向意識と無縁ではない。家族主義はまた社会的地位上昇への強い執着を生み,学校教育における有名校志向を強めている。有名校を卒業して高い社会的地位につくことは一族全体の誇りであり,また一族の構成員に実利をもたらすとみられているからである。同族の誰かが高い社会的地位につけば,その縁故で特権を行使できるし,過ちを犯した場合には見逃されて当然とする社会意識があるのである。ここに公私混同,権力の濫用,権力者の不正蓄財,権力者周辺の者の詐欺事件などが繰り返しひき起こされる根拠がある。
一方,家族主義の上下身分秩序は,企業における労働者の無権利状態と低賃金を招いてきた。学歴,企業規模,性別等によって賃金格差の著しいのが韓国の特徴であるが,一般の労働者の地位が低いのは,輸出優先の政府の政策によるばかりでなく,労使関係を主従関係とみる意識が強いからである。社会福祉の立ち遅れも,共同体内の相互扶助と共同体外への排他的傾向によるところが大きい。こうした家族主義原理に基づく社会の特徴は簡単に消滅するものではないが,変容の兆しはみられる。一つは,高度成長の結果,伝統的な農村社会が縮小し,都市人口の増大(首都ソウルに全人口の4分の1に当たる1000万人が集中)と核家族化が進行していることである。もう一つは工業化社会では西欧流の合理主義が必然的に生じてくることである。財閥における企業公開や専門経営者の登用は避けられないし,民主化運動に連動した労働運動や女性解放運動はすそ野を広げていくであろう。韓国社会の国際化は,この傾向に拍車をかけることになる。
70年代に強調されはじめた民族文化論を文学の領域でみると,50年代の純粋文学論を批判しつつ60年四月革命後に登場した参与(アンガージュマン)文学論,さらには60年代末からのリアリズム論の発展として70年代に提唱されたのが民族文学論であった。政権側の官製民族文化論と一線を画し民衆の参与による分断の克服を主張する文芸評論家の白楽晴,同じく民衆的伝統の継承を通じた民衆主体の確立を強調する詩人の高銀らがその代表的論客であり,詩人のキムジハ(金芝河),作家の黄晳暎,尹興吉ら四月革命とともに青春をすごした〈四・一九世代〉もこの潮流に位置づけられる。ここからパンソリや仮面劇(〈朝鮮演劇〉の項参照)といった民衆に基盤を置いた伝統文化が再評価・再認識されることになる。歴史学の領域でも分断時代の史学を提起した姜万吉を先頭に,民族史学の確立が課題とされた。
こうした動向は民主化運動の発展と不可分の関係にあるが,政府批判の役割を果たしてきた報道機関をみると,言論活動の自由は大幅に制限されてきた。全斗煥政権は成立直後に新聞社,放送局,通信社の大規模な再編統合を断行し,報道内容の統制から報道機関そのものの統制に踏み込んだ。その結果,中央紙は朝刊紙の《朝鮮日報》《韓国日報》《ソウル新聞》,夕刊紙の《東亜日報》《京郷新聞》《中央日報》の6紙に,放送局は公共放送のKBS(韓国放送公社。それまでの国営放送を改組して1973年発足)と民放のMBC(文化放送。1961年設立)の2局に,また通信社は連合通信1社に整理された。同時に中央紙と地方紙の取材活動の分担が強制され,通信社の報道窓口の一本化とも相まって,全体として報道統制が一段と容易になった。しかし80年代後半からの民主化過程で,状況は大きく変化していった。88年に〈権力と資本からの自由〉を看板とした《ハンギョレ新聞》が創刊されたことは,その象徴といえよう。1956年に始まったテレビ放送は,80年末のカラー放送開始を経てさらに発展し,受像機の普及率は4人に1台となっている。電話の普及率はそれを上回る。出版活動は盛んであるが,共産主義関係の出版物は建国以来禁書扱いであった。しかし,80年代後半に自由化され,北朝鮮の主体思想までもが半ば公然と流入するほどになっている。
教育制度は初等学校,中学校,高等学校,大学の6・3・3・4制で,初等学校の6年間が義務教育制であるが,中学校進学率は90%台,高校は80%台,大学も30%台に達しており,国民の教育熱は非常に高い。特にソウル大学校を頂点とする有名大学を目ざして激しい受験競争が展開されているが,これはソウル大学校,延世大学校,高麗大学校等の有名校出身者による学閥の力が強く,有名大学卒業者が優遇される学歴社会の風潮のためであり,一族の格を上げるという家族主義イデオロギーのためでもある。外国留学熱も盛んで,特にアメリカ留学が最も権威あるものとされている。先進工業国を目ざす韓国にとって,科学技術の振興は重要課題の一つであり,科学技術処を中心に政府主導型の集約的な技術開発が進められている。反面,民間企業の技術開発投資は概して低調で,外国技術の導入に多く依存している。技能労働者の質は高く,国際技能オリンピックでは毎回好成績をおさめており,先端技術を消化吸収する能力は高い。ただアメリカへの頭脳流出の激しいことが科学技術振興に限界をもたらしているとの指摘もある。
スポーツは国際競技会では国威発揚の手段とされ,朝鮮民主主義人民共和国との対抗意識が強い。1988年ソウル・オリンピックを目標に82年には政府に体育部が新設され,全般的な選手強化策を進めた。82年に始まったプロ野球は,ソウル,釜山,大邱,仁川,光州,大田,全州の7都市を本拠地とする都市対抗の性格をもち,娯楽を求める国民の広範な関心を集めている。その他にも空手に似た跆拳道(テコンドー),朝鮮相撲として知られるシルム,柔道など格技が盛んであり,レジャーでは登山に人気がある。
韓国と日本との関係は,対等で友好的な隣国同士の間柄といってすますことのできない屈折した複雑に入り組んだ構造をもっている。1910-45年の日本の植民地統治は,朝鮮人の間に根深い反日意識,また日本人の間に拭いがたい朝鮮人差別意識を植えつけたが,それと同時に韓国の支配層内に植民地時代の〈親日派〉が居座り,侵略と植民地支配に対する責任追及を免れた日本の支配層との間に不透明な〈癒着〉の構造を作り出していった。李承晩政権時代には,徹底した反日政策のために支配層間の交流は希薄であったが,朴正煕政権下で65年の日韓条約締結以後は相互の往来が活発化し,両国で政府レベルの日韓定期閣僚会議(1967- ),財界人を集めた日韓民間合同経済委員会(1969- ),国会議員を結集した日韓議員連盟(1972- ),ロビイストの集まりとみられる日韓協力委員会(1969- )など,各種の組織が相次いで動きはじめた。朴大統領自身が満州軍官学校,日本陸軍士官学校出身であることに象徴されるように,朴政権下で日本と関係の深い人脈が形成され,日本からの経済援助の一部を不正に政治資金に流用するメカニズムが創出されたとみられる。
1973年8月,前大統領候補の金大中が韓国中央情報部によって白昼東京のホテルから拉致されるという金大中事件が生じて以後,こうした両国支配層間の一体化に亀裂を生じさせる事件が続発し,そのたびに関係修復の試みが繰り返された。73年11月,金鍾泌国務総理が朴大統領の親書を携行して来日し,陳謝とともに,金大中は自由の身であると言明して日本側の了解をとりつけた(第1次政治決着)。しかし,駐日韓国大使館の金東雲書記官の事件関与の問題,74年8月の在日韓国人文世光による朴大統領狙撃事件などがあったため,75年7月に韓国側は改めて金東雲の不起訴と公務員資格剝奪,文世光事件の捜査要請等を日本側に伝達し,宮沢外相はこれを受け入れた(第2次政治決着)。他面,金大中事件を契機に,韓国の民主化運動と,これに呼応する日本の日韓連帯運動が盛り上がりを示し,民衆レベルの交流に深さと広がりがみられるようになった。
全斗煥政権が成立すると,朴政権を支えた少なからぬ人々が排斥され,〈癒着〉の人脈に一定の断絶が生じ,政権中枢にはアメリカ留学の経験をもつハングル世代(日本語を知らない解放後の世代)が進出したが,83年1月の中曾根首相訪韓,84年9月の全大統領来日と両国首脳が相互にそれぞれ初めて公式訪問を行い,〈日韓新時代〉が提唱されるなど,両国関係は新しい段階に入った。以後,両国政府首脳の往来は盛んである。全大統領訪日の際に昭和天皇が行った過去の植民地支配に対する〈謝罪発言〉,盧大統領訪日(1990年5月)の際の現天皇の〈謝罪発言〉は,両国の友好促進を意図したものだったが,かえって双方の世論の反発を招く複雑な結果を残した。韓国側の反日感情は依然として根強いものがあり,1982年の教科書問題は独立記念館建設運動に発展したし(1987年,忠清南道に開館),日本の閣僚による植民地支配を正当化する発言に対しては鋭い批判が繰り返されている。1990年代には従軍慰安婦問題が新たな焦点となった。
経済面では韓国にとって,対日貿易の構造的逆調が最大の問題となっている。韓国は工業化の過程で機械類,部品,素材等を日本に依存する体質を定着させた反面,工業製品の主要輸出市場を日本ではなくアメリカに見いだしたため,対日貿易の不均衡は不可避となった。このことは両国の産業の発展段階の差に起因しており,しかも日本の工業構造が自給自足的・自己完結的性格をもち,工業製品の輸入依存度が低いことが,不均衡の程度をいっそう増幅した。韓国側は対日輸出の主力商品の繊維製品や魚介類に対する日本の輸入規制の撤廃を求めるとともに,産業構造高度化を目ざして先進技術の供与を日本側に要請してきたが,繊維から始まって建設,造船,鉄鋼等へと順次国際競争力をつけてきた韓国経済に対して,日本の業界では追上げ・競合とみて警戒心を強め,技術移転を抑制する傾向が生じてきており,長期的な国際分業のあり方をめぐって摩擦が避けられなくなっている。
日本企業の韓国進出動向では,1980年代末に撤退の事例が目だつようになった。これは労働運動の高揚によって賃金が上昇し,低賃金労働力利用型の企業にとって進出のうまみがなくなったためである。そうした企業は東南アジアや中国に転進したが,その際,手続きを無視して強引に撤退しようとした場合には,深刻な労働争議が起こることもあった。他方,より技術集約的な業種では,日本の円高を要因に新たな企業進出がみられ,また力をつけてきた韓国企業が日本に進出を図るケースも珍しくなくなった。経済協力に関しては,韓国が援助受入れ国から〈卒業〉する段階に至ったため,韓国へのODA供与は90年度までで基本的に終了した。
文化的な側面では,植民地時代に押しつけられた日本文化を〈倭色文化〉と呼び,これを排斥しなければならないとする民族的課題が存在し,李承晩政権の極端な排日政策が朴正熙政権以降緩和されつつあるとはいえ,日本文化の浸透に対する抵抗は根強い。70年代の民族文学論に代表される民族文化論の台頭もこのことと関連している。その反面,日本の文化状況への関心も高く,芥川賞受賞作品等の話題を呼んだ出版物は時を移さず翻訳,出版され,また日本の映画,歌謡曲等の導入は原則として禁止されてきたものの,カセット・テープなどは半ば公然と流布している。日本のマンガ,アニメなどの浸透は著しいものがある。日韓条約締結以後,日本との関係が深まるにつれて日本語学習への関心が高まり,70年代には高校に日本語課程が開設され,大学入試科目に日本語が登場するほどになった。この背景には日本語ができれば就職に有利だという動機も作用している。日本側では,88年のソウル・オリンピックの前後に韓国ブームが起こり,84年にはNHKハングル講座が開設されている。両国間の人の往来では,総数では日本から韓国への旅行者の方が多く,70年代後半には年間40万人台に達したが,その時点では男性が9割以上と圧倒的に多く,いわゆる妓生(キーセン)観光が盛んなことをうかがわせた。90年代には年間150万人台に増加し,女性が半ば近くを占めるようになった。高校生の修学旅行も九州を中心に70年代後半以降韓国を目指す学校がふえている。これとは別に,在日韓国人学生の母国留学,朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)系在日朝鮮人の祖国訪問も70年代から進められていくが,前者には1971年の徐勝・徐俊植兄弟事件に典型的にみられるスパイ容疑事件による検挙,後者には民団(在日本大韓民国居留民団。現在は〈居留〉の2字を外している)による朝鮮総連の組織くずしという南北分断の政治状況の影がつきまとってきた。韓国から日本への渡航者も,特に80年代になってからの伸びが著しい。これは88年ソウル・オリンピックを契機とする韓国政府の一連の開放政策の一環として,海外旅行,海外留学が自由化されていったためである。
→朝鮮
執筆者:金子 文夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
韓国と略称される。朝鮮半島の南半部に位置する大統領中心制の民主主義国家。首都はソウル。日本降伏後,北緯38度線を境界として,朝鮮半島は米ソ両軍によって分割占領され,1948年8月には,南側に大韓民国が誕生した。新しい国家は国際連合監視下の総選挙(5月)をへて樹立され,初代大統領には独立運動の英雄である李承晩(イ・スンマン)が選出された。朝鮮戦争後は,幅4kmの非武装地帯が南北を隔てる境界線となった。反共と反日を掲げた李承晩の家父長的政治は長期化するにつれて独裁政治に堕し,60年4月には不正選挙に反対する学生革命を招来した。革命後,議院内閣制の張勉(チャン・ミョン)政権が誕生したが,61年5月には朴正熙(パク・チョンヒ)少将の率いるクーデタ(軍事革命)が発生した。民政移管後,朴正熙は大統領として執権し,79年10月に暗殺されるまで,開発独裁体制をしき,韓国の経済発展を達成した。軍部の政治介入は全斗煥(チョン・ドゥホアン)政権に引き継がれたが,国民的な民主化運動に直面して,87年12月には大統領直接選挙が実施され,軍出身の盧泰愚(ノ・テウ)が当選した。また,92年には金泳三(キム・ヨンサム),97年には金大中(キム・デジュン),2002年には盧武鉉(ノ・ムヒョン)が当選した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
朝鮮半島南部に位置する共和国。第2次大戦後朝鮮半島は北緯38度線を境に米・ソが二分して占領。アメリカの軍政下の南半で1948年5月10日単独総選挙が実施され,李承晩(りしょうばん)を大統領とする大韓民国が成立した。しかし50年朝鮮戦争が勃発。60年3月大統領選挙の不正を契機に4月革命がおこると,李は亡命し,南北統一への気運が高まったが,61年5・16軍事クーデタがおこり,朴正熙(ぼくせいき)の軍事独裁政権が成立した。朴政権は65年日韓基本条約を締結して経済の建直しを図ったが,79年朴は暗殺され,80年再度の軍事クーデタにより全斗煥政権が樹立された。しかし87年民主化宣言を余儀なくされ,翌年の盧泰愚政権をへて,93年本格的な文民政権の金泳三政権が誕生。2000年6月,金大中政権下で分断後初めての南北首脳会談が実現した。その後,盧武鉉・李明博・朴槿恵と大統領が続くが,南北間の宥和は進んでいない。首都ソウル。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新