扶余(読み)フヨ(その他表記)Puyǒ

デジタル大辞泉 「扶余」の意味・読み・例文・類語

ふよ【扶余/夫余】

前1世紀~5世紀に中国東北地方から朝鮮半島北部で活動したツングース系の民族。また、その建てた国。1~3世紀に全盛期を迎えたが、494年に同じツングース系の勿吉もっきつに滅ぼされた。
(扶余)大韓民国忠清南道の郡。538~660年、百済くだらの都の置かれた地。半月城・百済王陵などの遺跡がある。プヨ

プヨ【扶余】

ふよ(扶余)

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精選版 日本国語大辞典 「扶余」の意味・読み・例文・類語

ふよ【扶余・夫余】

  1. [ 一 ] 紀元前一世紀から五世紀まで、中国東北部(旧満州南部)から朝鮮北部にかけて活躍したツングース系部族。また、その建てた国。一世紀から三世紀が全盛期で、松花江流域平野を占め、のち鮮卑の一族、慕容(ぼよう)氏に滅ぼされた。高句麗・百済も扶余の出という。
    1. [初出の実例]「復高麗之旧居、有扶余之遺俗」(出典:続日本紀‐神亀五年(728)正月甲寅)
  2. [ 二 ] ( 扶余 ) 韓国忠清南道扶余郡に所在する、三国時代百済の首都。五三八年(聖明王一六年)都を所夫里(泗沘)に遷し、その名称を「南扶余」と改名したのがその起源。扶蘇山城・平済塔・軍守里廃寺跡など、多くの遺跡がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「扶余」の意味・わかりやすい解説

扶余 (ふよ)
Puyǒ

韓国,忠清南道南部の郡。人口15万3817(1980)。錦江中流の広い平野地帯にあり,米作を中心として,ニンジンカラムシなどの特用作物を栽培する農村地帯である。郡の中央および北部には残丘状の丘陵地がみられ,金鉱など希少鉱物の埋蔵がみられる。特に林川金鉱山は古くから開発された歴史をもつ。郡の中心は錦江の左岸に位置する扶余邑で,人口3万1000(1980)の市街地をもつ。この町は三国時代,百済王朝が首都とした古都泗沘(しひ)であり,多くの遺跡から発掘された遺物は国立扶余博物館に収められている。百済王朝滅亡時,3000人の官女が投身したという,扶蘇山が錦江に臨む絶壁落花岩などもあり,歴史の町として観光地化している。かつては江景などとともに錦江沿いの米集散地としてにぎわったが,鉄道や道路交通が発達した結果,論山,裡里に商圏を奪われている。
執筆者:

百済は,538年(聖王16)に,公州からその南西方およそ36kmの泗沘に遷都し,660年(義慈王20)の滅亡まで,6代120余年間にわたって,王都とした。百済後期の泗沘は,現在の扶余にあたる。扶余地方の歴史は,櫛目文土器時代(新石器時代)にさかのぼるが,地域としての発展は,無文土器時代(青銅器時代)に入ってからのことである。扶余郡草村面松菊里には,その時代の大規模な集落遺跡があり,その一隅にある石棺墓からは,遼寧式銅剣と磨製石剣・石鏃・管玉などが出土した。同じく蓮華里では,竪穴式石室のなかから細形銅剣や多鈕(たちゆう)粗文鏡などが出土しており,ともに地域的集団の首長層の所産と思われる。扶余の歴史的記念物は,扶余邑内に遺存する百済後期の遺跡群に,目をみはるものが多い。大きく湾曲する錦江(白馬江)の東岸に面した独立丘陵に扶蘇山城があり,土塁や軍倉跡などが認められる。扶蘇山城の南麓は,王宮跡と推定され,また,そこから南方1kmほどのところに宮南池という庭園跡がある。百済後期には仏教が隆盛し,扶蘇山の南西麓から南方に開ける台地の随所に寺院址がある。伽藍配置は,定林寺(じようりんじ)址軍守里廃寺址のように,日本でいう四天王寺式,すなわち単塔系式が特徴的であるが,東南里廃寺址のように,複塔系式の可能性があるものもある。これらの遺跡群は,羅城によって囲まれた範囲内に位置する。そして,羅城の外,扶余邑の中心部から東方3kmあまりのところに,陵山里古墳群があって,そのころの百済王族の墳墓地とされる。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「扶余」の意味・わかりやすい解説

扶余【ふよ】

韓国,忠清南道南西部の郡,白馬江(錦江)に臨み,流域の内浦平野の中心。付近は高麗ニンジンの産地。また農産物も豊富である。かつては江景などとともに錦江沿いの米の集散地としてにぎわった。郡の中央および北部には残丘状の丘陵地がみられ,金鉱など希少鉱物の埋蔵がみられる。林川金鉱山は古くから開発された歴史をもつ。郡の中心は錦江の左岸に位置する扶余邑,百済(くだら)の都泗耕であり,538年熊津より遷都,以来660年の百済滅亡まで120年間王都であった。多くの遺跡から発掘された遺物は,国立扶余博物館に収められている。百済王朝滅亡時,3000人の官女が投身したという,錦江に臨む扶蘇山の絶壁落花岩などもあり,歴史の町として観光地となっている。扶余邑内に遺存する百済後期の遺跡群には,目をみはるものが多い。錦江東岸に面した独立丘陵に扶蘇山城があり,土塁や軍倉跡なども残る。扶蘇山城の南麓には,王宮跡,宮南池という庭園跡がある。また百済後期の仏教の隆盛を示す,寺院址も多数。伽藍配置は,定林寺址や軍守里廃寺址のように,日本の四天王寺式に共通するものも多い。扶余邑の中心部の東方に,陵山里古墳群があり,そのころの百済王族の墳墓地とされる。定林寺址の国宝平百済塔は,唐・新羅連合軍が百済を滅ぼした際に,塔身に「大唐平百済国」の文字が刻まれ,その名があるが,現在は「定林寺五重塔」と呼ばれている。扶余郡の人口は7万3000人(2005)。
→関連項目忠清南道

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「扶余」の意味・わかりやすい解説

扶余(大韓民国)
ふよ / プヨ

韓国(大韓民国)、忠清南道を蛇行する錦江(きんこう)下流の平野部にある扶余郡(面積624.48平方キロメートル、人口8万3571、2000)の邑(ゆう)(町)。人口2万7109(2000)。百済(くだら)の故都として知られる。百済は高句麗(こうくり)の南下に押されて、都を漢城(ソウル付近の京畿(けいき)道広州)から熊津(ゆうしん)(忠清南道公州)に移した(475)が、聖明王16年(538)に錦江をすこし下ったこの扶余(当時の泗沘(しひ)あるいは所夫里(そふり))にふたたび遷都して、国号も南扶余と改めた。以後、扶余は、百済が唐と新羅(しらぎ)の連合軍に滅ぼされる660年まで約130年間、国都として文化が花開いたが、百済が滅びるや、唐の将軍の劉仁願(りゅうじんがん)はここを拠点に、熊津など5か所に都督(ととく)府を設け、百済の故地を支配した。まもなく鬼室福信(きしつふくしん)らが、百済再興の兵をあげて失敗すると(662)、新羅がかわって百済の故地を収め、扶余を所夫里州とした(671)。いまの扶余邑内には、百済時代の遺跡が数多くあり、遺物の多くは、国立扶余博物館に保管されている。

 郡内の丘陵には、聖興山城をはじめ山城が多く残り、邑内の扶蘇山(ふそさん)城の軍倉址(ぐんそうし)からは、炭化した穀物が多量に発見されている。また劉仁願の軍功を刻んだ「唐劉仁願紀功碑」が博物館の前庭に立ち、定林寺址の五層石塔の下段には「唐平百済碑」の文が陰刻され、これら3点は百済の亡国の歴史を今日に伝えている。ほかに定林寺址には、石仏坐像(ざぞう)が塔と面して立ち、陵山里には壁画をもつ王陵が多い。

[浜田耕策]


扶余(中国)
ふよ / フーユイ

中国、吉林(きつりん)省北西部の松原(しょうげん)地級市に属する県級市。第二松花江(しょうかこう)の右岸、嫩江(どんこう)との合流点から約40キロメートル上流に位置する。常住人口77万1700(2011)。粛慎(しゅくしん)、渤海(ぼっかい)の時代よりツングース(エベンキ中華人民共和国での公称は鄂温克族)が扶余とよび、ハルビンが建設されるまでは東北地方北部でもっとも繁栄した町であったといわれる。中華人民共和国成立後、防砂林が造成され、大豆、コウリャン、トウモロコシ、アワ、小麦、スモモ、ブドウ、リンゴなどの農産物や、フナ、コイ、タナゴなどの水産物を豊かに産出する。金(きん)の世宗(せいそう)が建てた得勝陀頌碑(とくしょうだしょうひ)がある。

[浅井辰郎・編集部 2017年7月19日]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「扶余」の解説

扶余(ふよ)
Fuyu

前2世紀後半~494

夫余とも書く。中国東北部の北半にトゥングース系の貊(ばく)人が建てた国。中国の政治的・文化的な影響を受けて1~3世紀に松花江中流域を中心に大勢力となり,鮮卑(せんぴ)高句麗と対立した。3世紀後半からしだいに両者の圧迫を受け,前燕の慕容皝(ぼようこう)に346年に襲撃されて衰退し,494年に勿吉(もっきつ)に滅ぼされた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「扶余」の意味・わかりやすい解説

扶余
ふよ
Fu-yu; Fou-yü

夫余とも書く。中国,東北地方に居住したツングース系の一部族。すでに『史記』貨殖列伝に,前2世紀頃漢人との間に交易を行なっていたことが記されている。前1世紀頃に国家を形成,1~3世紀に繁栄したが,3世紀後半から強大となった高句麗鮮卑に圧迫されて次第に弱化し,494年勿吉 (もっきつ) によって滅ぼされた。その生活様式や文化は,匈奴のそれに似たものであったと伝えられる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「扶余」の解説

扶余
ふよ

夫余・泗沘(しひ)とも。百済(くだら)の最後(3番目)の王都。現在,韓国忠清南道扶余邑。538年聖王は百済の再興を企てて狭隘な熊津(こまなり)からここに遷都し,国号を南扶余と改めた。錦江に面する扶蘇(ふそ)山に王城をおき,羅城が王都をかこみ,遠く山城が王都の防衛ラインを形成,内には官衙や定林(じょうりん)寺などの寺院が配された。660年百済が滅び,663年倭軍と百済の復興軍も新羅・唐軍に白村江(はくそんこう)で敗れると,唐の熊津都督府がおかれた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「扶余」の解説

扶余
ふよ

①古代,朝鮮半島南西部にあった百済 (くだら) の旧都
②前1〜後5世紀,中国東北部から朝鮮半島北部にかけて住んだツングース系狩猟農耕民,またその国名
538〜660年間の百済の都城である半月城があった。仏教中心の文化が栄えた。
1〜3世紀が全盛期。5世紀末,支族高句麗に圧迫されて消滅した。

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