韓国,忠清南道南部の郡。人口15万3817(1980)。錦江中流の広い平野地帯にあり,米作を中心として,ニンジン,カラムシなどの特用作物を栽培する農村地帯である。郡の中央および北部には残丘状の丘陵地がみられ,金鉱など希少鉱物の埋蔵がみられる。特に林川金鉱山は古くから開発された歴史をもつ。郡の中心は錦江の左岸に位置する扶余邑で,人口3万1000(1980)の市街地をもつ。この町は三国時代,百済王朝が首都とした古都泗沘(しひ)であり,多くの遺跡から発掘された遺物は国立扶余博物館に収められている。百済王朝滅亡時,3000人の官女が投身したという,扶蘇山が錦江に臨む絶壁落花岩などもあり,歴史の町として観光地化している。かつては江景などとともに錦江沿いの米集散地としてにぎわったが,鉄道や道路交通が発達した結果,論山,裡里に商圏を奪われている。
執筆者:谷浦 孝雄
百済は,538年(聖王16)に,公州からその南西方およそ36kmの泗沘に遷都し,660年(義慈王20)の滅亡まで,6代120余年間にわたって,王都とした。百済後期の泗沘は,現在の扶余にあたる。扶余地方の歴史は,櫛目文土器時代(新石器時代)にさかのぼるが,地域としての発展は,無文土器時代(青銅器時代)に入ってからのことである。扶余郡草村面松菊里には,その時代の大規模な集落遺跡があり,その一隅にある石棺墓からは,遼寧式銅剣と磨製石剣・石鏃・管玉などが出土した。同じく蓮華里では,竪穴式石室のなかから細形銅剣や多鈕(たちゆう)粗文鏡などが出土しており,ともに地域的集団の首長層の所産と思われる。扶余の歴史的記念物は,扶余邑内に遺存する百済後期の遺跡群に,目をみはるものが多い。大きく湾曲する錦江(白馬江)の東岸に面した独立丘陵に扶蘇山城があり,土塁や軍倉跡などが認められる。扶蘇山城の南麓は,王宮跡と推定され,また,そこから南方1kmほどのところに宮南池という庭園跡がある。百済後期には仏教が隆盛し,扶蘇山の南西麓から南方に開ける台地の随所に寺院址がある。伽藍配置は,定林寺(じようりんじ)址や軍守里廃寺址のように,日本でいう四天王寺式,すなわち単塔系式が特徴的であるが,東南里廃寺址のように,複塔系式の可能性があるものもある。これらの遺跡群は,羅城によって囲まれた範囲内に位置する。そして,羅城の外,扶余邑の中心部から東方3kmあまりのところに,陵山里古墳群があって,そのころの百済王族の墳墓地とされる。
執筆者:西谷 正
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韓国(大韓民国)、忠清南道を蛇行する錦江(きんこう)下流の平野部にある扶余郡(面積624.48平方キロメートル、人口8万3571、2000)の邑(ゆう)(町)。人口2万7109(2000)。百済(くだら)の故都として知られる。百済は高句麗(こうくり)の南下に押されて、都を漢城(ソウル付近の京畿(けいき)道広州)から熊津(ゆうしん)(忠清南道公州)に移した(475)が、聖明王16年(538)に錦江をすこし下ったこの扶余(当時の泗沘(しひ)あるいは所夫里(そふり))にふたたび遷都して、国号も南扶余と改めた。以後、扶余は、百済が唐と新羅(しらぎ)の連合軍に滅ぼされる660年まで約130年間、国都として文化が花開いたが、百済が滅びるや、唐の将軍の劉仁願(りゅうじんがん)はここを拠点に、熊津など5か所に都督(ととく)府を設け、百済の故地を支配した。まもなく鬼室福信(きしつふくしん)らが、百済再興の兵をあげて失敗すると(662)、新羅がかわって百済の故地を収め、扶余を所夫里州とした(671)。いまの扶余邑内には、百済時代の遺跡が数多くあり、遺物の多くは、国立扶余博物館に保管されている。
郡内の丘陵には、聖興山城をはじめ山城が多く残り、邑内の扶蘇山(ふそさん)城の軍倉址(ぐんそうし)からは、炭化した穀物が多量に発見されている。また劉仁願の軍功を刻んだ「唐劉仁願紀功碑」が博物館の前庭に立ち、定林寺址の五層石塔の下段には「唐平百済碑」の文が陰刻され、これら3点は百済の亡国の歴史を今日に伝えている。ほかに定林寺址には、石仏坐像(ざぞう)が塔と面して立ち、陵山里には壁画をもつ王陵が多い。
[浜田耕策]
中国、吉林(きつりん)省北西部の松原(しょうげん)地級市に属する県級市。第二松花江(しょうかこう)の右岸、嫩江(どんこう)との合流点から約40キロメートル上流に位置する。常住人口77万1700(2011)。粛慎(しゅくしん)、渤海(ぼっかい)の時代よりツングース(エベンキ。中華人民共和国での公称は鄂温克族)が扶余とよび、ハルビンが建設されるまでは東北地方北部でもっとも繁栄した町であったといわれる。中華人民共和国成立後、防砂林が造成され、大豆、コウリャン、トウモロコシ、アワ、小麦、スモモ、ブドウ、リンゴなどの農産物や、フナ、コイ、タナゴなどの水産物を豊かに産出する。金(きん)の世宗(せいそう)が建てた得勝陀頌碑(とくしょうだしょうひ)がある。
[浅井辰郎・編集部 2017年7月19日]
前2世紀後半~494
夫余とも書く。中国東北部の北半にトゥングース系の貊(ばく)人が建てた国。中国の政治的・文化的な影響を受けて1~3世紀に松花江中流域を中心に大勢力となり,鮮卑(せんぴ)や高句麗と対立した。3世紀後半からしだいに両者の圧迫を受け,前燕の慕容皝(ぼようこう)に346年に襲撃されて衰退し,494年に勿吉(もっきつ)に滅ぼされた。
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夫余・泗沘(しひ)とも。百済(くだら)の最後(3番目)の王都。現在,韓国忠清南道扶余邑。538年聖王は百済の再興を企てて狭隘な熊津(こまなり)からここに遷都し,国号を南扶余と改めた。錦江に面する扶蘇(ふそ)山に王城をおき,羅城が王都をかこみ,遠く山城が王都の防衛ラインを形成,内には官衙や定林(じょうりん)寺などの寺院が配された。660年百済が滅び,663年倭軍と百済の復興軍も新羅・唐軍に白村江(はくそんこう)で敗れると,唐の熊津都督府がおかれた。
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〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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