百済(読み)くだら(英語表記)Paekche

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

百済
くだら
Paekche

朝鮮,古代三国の一つ(4世紀前半~663)。日本では「くだら」と呼びならわされているが,「ひゃくさい」と呼ぶのが妥当であろう。『三国志』魏志東夷伝によると,古代の朝鮮南部は馬韓辰韓弁辰(弁韓)の三つに分立していたが,楽浪郡,帯方郡の滅亡を機会に 4世紀前半頃,馬韓の地から建国したらしい。百済の歴史が史実の対象となるのは近肖古王(在位 346~375)以後で,北方の高句麗を討って,かつての楽浪,帯方の地にまで侵入したが,その後は高句麗に攻められ南部へ圧迫されたので,東部の新羅や日本と結んだ。大和政権(→大和朝廷)に対しては種々の文化交流を行なって,中国,特に南朝文化を日本にもたらした。高句麗に広開土王が出現してから後退の一路をたどり,蓋鹵王21(475)年首都を落とされて国王以下が殺された。新首都を熊津に移したが,聖王16(538)年にはさらに南下して泗沘に移った。その頃中国では,続いてが成立したが,新羅は唐と結び,義慈王20(660)年,二国の連合軍は百済を攻めて義慈王以下一族多数を唐に連行した。当時の大和政権は水軍を出して救援し,王子や遺臣の鬼室福信らを助けたが,白村江に敗れ大和政権にも昔日の勢力はなく,また百済も内部対立が生じ,百済の祖国回復はならず,豊王3(663)年完全に滅亡した。

百済
ひゃくさい

百済」のページをご覧ください。

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デジタル大辞泉の解説

くだら【百済】

古代朝鮮の三国の一。朝鮮半島西南部に拠った王国。4世紀半ばに部族国家馬韓(ばかん)北部の伯済国が建国。都を漢城としたが、のち高句麗(こうくり)に圧迫され、熊津(ゆうしん)・夫余と変えた。建国当初より日本とは友好関係を保ち、日本に仏教その他の大陸文化を伝える。660年、新羅連合軍に滅ぼされた。ひゃくさい。
《古代、百済などからの渡来人が多く住んだところから》摂津の国東南部(現在の大阪市生野区辺り)の古郡名。また、奈良県北西部、広陵町地名

ひゃくさい【百済】

くだら(百済)

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百科事典マイペディアの解説

百済【くだら】

朝鮮半島の南西部に4世紀前半から660年まで存続した国。〈ひゃくさい〉とも。馬韓の伯済国を中心として建国。始祖神話などからその王室は夫余高句麗(こうくり)系の移住民とされる。初期の王都は慰礼城(ソウル市城東区風納里に比定する説が有力)で,371年漢山城に移り,この年に平壌城を攻めて高句麗を破った。翌年中国の東晋から冊封をうけ,384年には仏教も伝えられた。しかし475年高句麗の攻勢により,都を熊津(ゆうしん)(現,忠清南道の公州)へ移し,新羅(しらぎ)と結んで高句麗の南下を阻止しようとするが,このころから本格的な三国時代となる。538年泗【ひ】(しひ)(現,忠清南道の扶余)に遷都し,中央集権的な宮廷貴族制を整えて三国抗争に備えた。552年に漢江下流域を回復するが,翌年には新羅に奪われ,百済支配下にあった加羅諸国も562年に新羅の手に落ちた。640年代に百済は新羅に攻勢をかけるが,660年唐と新羅の連合軍に敗れて滅亡した。王族の鬼室福信らの残存勢力が倭(日本)と結んで百済復興をはかるが,663年に白村江の戦における日本軍の大敗により降服した。百済と倭は4世紀から交流があるが,大和王朝との国交は6世紀からとみられる。百済滅亡前後に多くの渡来人が日本に来た。2015年に百済歴史遺跡区がユネスコ世界遺産に登録された。登録された百済歴史遺跡は,公州の公山城・松山里古墳群,扶余の官北里遺跡および扶蘇山城・陵山里古墳群・定林寺跡・羅城,全羅北道益山の王宮里遺跡・弥勒跡など計8ヵ所。
→関連項目阿直岐厩坂冠位十二階鬼室集斯国中公麻呂遣新羅使三国遺事三国史記七支刀千字文全州帯方郡高野新笠忠清南道朝鮮朝鮮人平野神社平百済塔王仁

百済【ひゃくさい】

百済(くだら)

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防府市歴史用語集の解説

百済

 日本が古墳時代の頃、朝鮮半島は3つの国にわかれており、そのうちの1つです。朝鮮半島南西部に勢力を持っていました。663年にほろびます。

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世界大百科事典 第2版の解説

くだら【百済 Paekche】

朝鮮古代の国名で,4世紀前半~660年に及ぶ(図)。〈ひゃくさい〉と音読するのが一般的であるが,日本では大村などを意味する朝鮮の古語を訓読して〈くだら〉と呼びならわしている。百済の建国年次は,その前身の馬韓伯済国から百済国にかわる時期とみ,《三国史記》による3世紀の古爾王代とする説もあるが,《晋書》馬韓伝などから4世紀前半とした。百済の建国者は始祖神話などから夫余・高句麗系の移住民とされる。初期の百済の領域は漢江流域で,この地域は南方の韓族系文化と北方の高句麗系文化の共存地域であり,そのことが百済史の特徴にもなっている。

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大辞林 第三版の解説

くだら【百済】

朝鮮古代の三国の一。四世紀半ば、馬韓ばかん北部に成立。のち高句麗こうくりに圧迫され半島西南部へ移動。王族は高句麗系の夫余族といわれる。日本との関係が深く、仏教など大陸文化を伝え、日本古代文化の形成に大きな影響を与えた。660年に唐・新羅しらぎの連合軍に滅ぼされた。ひゃくさい。 〔「くだら」は日本における称で、大村を意味する古代朝鮮語によるという〕
◇ 古代、朝鮮からの渡来人の住んだことから名付けられた地名。
奈良県北葛城かつらぎ郡広陵町の地名。
大阪市生野区あたりと推定されている古郡名。

ひゃくさい【百済】

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精選版 日本国語大辞典の解説

くだら【百済】

(古く「た」の清濁不詳)
[一] 朝鮮の三国時代、半島西南部にあった国。四世紀初の馬韓から起こるが、伝説ではその前身伯済国の始祖温祚(おんそ)王は高句麗(こうくり)から移った扶余の系統と伝える。首都は漢山、のち熊津。任那(みまな)の滅亡後、新羅(しらぎ)、高句麗と抗争。日本、中国南朝とは友好関係を保ち、わが国に仏教その他の大陸文化を伝える。六六〇年、新羅・唐連合軍に滅ぼされた。
[二] (古代、百済などからの渡来人が多く居住したため名づけられた地名) 摂津国東南部の古代の郡名。現在の大阪市東部、生野区周辺の一帯と思われる。また、奈良県北西部、広陵町の地名。百済寺があった。
※蔭凉軒日録‐文明一九年(1487)正月二八日「自花頂殿百済二荷折二合
[語誌](1)「百済」をクダラと訓む由来には諸説あるが、馬韓地方に原名「居陁羅」と推定される「居陁」という地名があり、これがこの地方の代表地名となり、百済国成立後、百済の訓みになったという説が最も合理的か。
(2)「書陵部本名義抄」に「百済琴」を「久太良古度(クタラコト)」と清音に訓んでいるところから、第二音節の清濁は、古くは清音との推定もされている。

くだら【百済】

姓氏の一つ。

はくさい【百済】

(「はく」は「百」の漢音) 朝鮮の三国時代、西南部にあった国。くだら。はくさいこく。ひゃくさい。
※平家(13C前)七「然者則日本の外、新羅、百済(ハクサイ)(高良本ルビ)、高麗、荊旦、雲のはて、海のはてまでも、行幸の御供仕て、いかにもなり候はん」

ひゃくさい【百済】

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世界大百科事典内の百済の言及

【三国時代】より

…古代朝鮮で,313‐676年にわたり高句麗百済新羅の3国が鼎立・抗争した時代。この時代には三国が貴族連合体制の国家となったが,中国の植民地支配を脱したものの,なお強力な軍事介入のあった時代である。…

【馬韓】より

…また〈蘇塗(そと)〉というアジール的な存在があったことが記されているが,その解釈については諸家に異論がある。のちの朝鮮古代三国の一つ百済(くだら)は,馬韓諸国の一つ伯済国が中核となって4世紀半ばころ成立したものといわれている。百済三韓【村山 正雄】。…

【百済】より

…〈ひゃくさい〉と音読するのが一般的であるが,日本では大村などを意味する朝鮮の古語を訓読して〈くだら〉と呼びならわしている。百済の建国年次は,その前身の馬韓伯済国から百済国にかわる時期とみ,《三国史記》による3世紀の古爾王代とする説もあるが,《晋書》馬韓伝などから4世紀前半とした。百済の建国者は始祖神話などから夫余・高句麗系の移住民とされる。…

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