くだら【百済】
[二] (
古代、百済などからの
渡来人が多く居住したため名づけられた
地名)
摂津国東南部の古代の郡名。現在の大阪市
東部、生野区周辺の
一帯と思われる。また、奈良県北西部、
広陵町の地名。百済寺があった。
※
蔭凉軒日録‐文明一九年(1487)正月二八日「自
二花頂殿
一見
レ恵
二百済二荷折二合
一」
[語誌](1)「百済」をクダラと訓む由来には
諸説あるが、馬韓地方に原名「居陁羅」と
推定される「居陁」という地名があり、これがこの地方の代表地名となり、百済国成立後、百済の訓みになったという説が最も合理的か。
(2)「書陵部本名義抄」に「
百済琴」を「久太良古度
(クタラコト)」と
清音に訓んでいるところから、第二音節の清濁は、古くは清音との推定もされている。
はくさい【百済】
(「はく」は「百」の
漢音) 朝鮮の三国時代、西南部にあった国。くだら。はくさいこく。ひゃくさい。
※平家(13C前)七「然者則日本の外、新羅、百済(ハクサイ)(高良本ルビ)、高麗、荊旦、雲のはて、海のはてまでも、行幸の御供仕て、いかにもなり候はん」
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デジタル大辞泉
「百済」の意味・読み・例文・類語
くだら【百済】
古代朝鮮の三国の一。朝鮮半島西南部に拠った王国。4世紀半ばに部族国家の馬韓北部の伯済国が建国。都を漢城としたが、のち高句麗に圧迫され、熊津・夫余と変えた。建国当初より日本とは友好関係を保ち、日本に仏教その他の大陸文化を伝える。660年、新羅・唐連合軍に滅ぼされた。ひゃくさい。
《古代、百済などからの渡来人が多く住んだところから》摂津の国東南部(現在の大阪市生野区辺り)の古郡名。また、奈良県北西部、広陵町の地名。
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百済【くだら】
朝鮮半島の南西部に4世紀前半から660年まで存続した国。〈ひゃくさい〉とも。馬韓の伯済国を中心として建国。始祖神話などからその王室は夫余・高句麗(こうくり)系の移住民とされる。初期の王都は慰礼城(ソウル市城東区風納里に比定する説が有力)で,371年漢山城に移り,この年に平壌城を攻めて高句麗を破った。翌年中国の東晋から冊封をうけ,384年には仏教も伝えられた。しかし475年高句麗の攻勢により,都を熊津(ゆうしん)(現,忠清南道の公州)へ移し,新羅(しらぎ)と結んで高句麗の南下を阻止しようとするが,このころから本格的な三国時代となる。538年泗【ひ】(しひ)(現,忠清南道の扶余)に遷都し,中央集権的な宮廷貴族制を整えて三国抗争に備えた。552年に漢江下流域を回復するが,翌年には新羅に奪われ,百済支配下にあった加羅諸国も562年に新羅の手に落ちた。640年代に百済は新羅に攻勢をかけるが,660年唐と新羅の連合軍に敗れて滅亡した。王族の鬼室福信らの残存勢力が倭(日本)と結んで百済復興をはかるが,663年に白村江の戦における日本軍の大敗により降服した。百済と倭は4世紀から交流があるが,大和王朝との国交は6世紀からとみられる。百済滅亡前後に多くの渡来人が日本に来た。2015年に百済歴史遺跡区がユネスコ世界遺産に登録された。登録された百済歴史遺跡は,公州の公山城・松山里古墳群,扶余の官北里遺跡および扶蘇山城・陵山里古墳群・定林寺跡・羅城,全羅北道益山の王宮里遺跡・弥勒跡など計8ヵ所。
→関連項目阿直岐|厩坂|冠位十二階|鬼室集斯|国中公麻呂|遣新羅使|三国遺事|三国史記|七支刀|千字文|全州|帯方郡|高野新笠|忠清南道|朝鮮|朝鮮人|平野神社|平百済塔|王仁
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百済
くだら
Paekche
朝鮮,古代三国の一つ(4世紀前半~663)。日本では「くだら」と呼びならわされているが,「ひゃくさい」と呼ぶのが妥当であろう。『三国志』魏志東夷伝によると,古代の朝鮮南部は馬韓,辰韓,弁辰(弁韓)の三つに分立していたが,楽浪郡,帯方郡の滅亡を機会に 4世紀前半頃,馬韓の地から建国したらしい。百済の歴史が史実の対象となるのは近肖古王(在位 346~375)以後で,北方の高句麗を討って,かつての楽浪,帯方の地にまで侵入したが,その後は高句麗に攻められ南部へ圧迫されたので,東部の新羅や日本と結んだ。大和政権(→大和朝廷)に対しては種々の文化交流を行なって,中国,特に南朝文化を日本にもたらした。高句麗に広開土王が出現してから後退の一路をたどり,蓋鹵王21(475)年首都を落とされて国王以下が殺された。新首都を熊津に移したが,聖王16(538)年にはさらに南下して泗沘に移った。その頃中国では隋,続いて唐が成立したが,新羅は唐と結び,義慈王20(660)年,二国の連合軍は百済を攻めて義慈王以下一族多数を唐に連行した。当時の大和政権は水軍を出して救援し,王子や遺臣の鬼室福信らを助けたが,白村江に敗れ大和政権にも昔日の勢力はなく,また百済も内部対立が生じ,百済の祖国回復はならず,豊王3(663)年完全に滅亡した。
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百済
くだら
「ひゃくさい」とも。朝鮮古代の三国の一つ(前18?~後660)。高句麗の始祖朱蒙(しゅもう)の子温祚が,漢山の慰礼(いれい)城(現,ソウル市東郊の風納里(ふうのうり)土城か)に都をたてたという。王姓は扶余(ふよ)または余。「三国志」魏書の韓伝にみえる伯済(はくさい)国が帯方郡や楽浪郡と交渉を重ねて成長し,4世紀初めに馬韓(ばかん)55国の多くを統合して王権を確立したとみられる。王は372年,東晋に朝貢して鎮東将軍領楽浪太守に叙され,さらに倭王に七支刀(しちしとう)を贈って高句麗に対抗したといわれるが,396年広開土王に敗れて一時高句麗に従属した。475年南の熊津(こまなり)(現,公州市)に遷都,武寧(ぶねい)王のとき中興。538年聖王(聖明王)は泗沘(しひ)(現,扶余)に遷都し,国家体制の再編を図った。倭と結んで新羅・高句麗に対抗したが,660年義慈(ぎじ)王のとき唐・新羅軍に都を落とされた。663年には復興軍も白村江(はくそんこう)の戦に敗れて滅亡した。
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百済(ひゃくさい)
Paekche
4世紀前半から660年まで存在した朝鮮古代の国名。日本では「くだら」とよぶ。馬韓(ばかん)の伯済(はくさい)国が発展してできた国で,北方の高句麗と対立した。371年,漢城に都を置いたが475年,高句麗の圧迫により,熊津(ゆうしん)に,続いて泗沘(しひ)(扶余(ふよ))に遷都した。6世紀末以降,朝鮮半島では高句麗,新羅とともにしばらく三国鼎立時代が続いた。百済は中国の隋唐とも友好関係を保ち,また日本とも親交があったが,660年唐は高句麗を討つため,その背後にある百済を新羅と連合して滅ぼした。
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くだら【百済 Paekche】
朝鮮古代の国名で,4世紀前半~660年に及ぶ(図)。〈ひゃくさい〉と音読するのが一般的であるが,日本では大村などを意味する朝鮮の古語を訓読して〈くだら〉と呼びならわしている。百済の建国年次は,その前身の馬韓伯済国から百済国にかわる時期とみ,《三国史記》による3世紀の古爾王代とする説もあるが,《晋書》馬韓伝などから4世紀前半とした。百済の建国者は始祖神話などから夫余・高句麗系の移住民とされる。初期の百済の領域は漢江流域で,この地域は南方の韓族系文化と北方の高句麗系文化の共存地域であり,そのことが百済史の特徴にもなっている。
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百済
くだら
古代,朝鮮半島南西部にあった国家(350ころ〜660)
「ひゃくさい」とも読む。4世紀中ごろ馬韓50余国を統一して建国。百済は日本にとって大陸交通の要地にあたり,一方百済は,高句麗・新羅 (しらぎ) と対抗するために,軍事的援助を求めて日本に接近し,その間には密接な関係が保たれた。百済からは博士・僧侶・技術者などが日本に渡来し大陸の文物が伝わり,古代文化の形成に著しい影響を与えた。欽明朝(531〜571ころ)の仏教公伝などが有名。660年新羅・唐の連合軍に滅ぼされたのち,多くの人びとが日本に渡来した。
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百済
ひゃくさい
朝鮮古代の国名。日本史では「くだら」と読む
伯済国は313年高句麗とともに帯方郡を滅して百済を建て,朝鮮半島の南西部を支配した。その後高句麗に圧迫されて475年熊津 (ゆうしん) (公州)に,新羅との抗争の中で538年泗沘 (しひ) (夫余)に遷都し,日本の大和朝廷とも国交を開いて仏教を伝えた。中国の南朝と通交し,その文化を摂取した。660年唐と新羅の連合軍に滅ぼされ,日本の援軍も白村江で敗北した。
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百済
日本が古墳時代の頃、朝鮮半島は3つの国にわかれており、そのうちの1つです。朝鮮半島南西部に勢力を持っていました。663年にほろびます。
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世界大百科事典内の百済の言及
【三国時代】より
…古代朝鮮で,313‐676年にわたり高句麗,百済,新羅の3国が鼎立・抗争した時代。この時代には三国が貴族連合体制の国家となったが,中国の植民地支配を脱したものの,なお強力な軍事介入のあった時代である。…
【馬韓】より
…また〈蘇塗(そと)〉というアジール的な存在があったことが記されているが,その解釈については諸家に異論がある。のちの朝鮮古代三国の一つ百済(くだら)は,馬韓諸国の一つ伯済国が中核となって4世紀半ばころ成立したものといわれている。百済三韓【村山 正雄】。…
【百済】より
…〈ひゃくさい〉と音読するのが一般的であるが,日本では大村などを意味する朝鮮の古語を訓読して〈くだら〉と呼びならわしている。百済の建国年次は,その前身の馬韓伯済国から百済国にかわる時期とみ,《三国史記》による3世紀の古爾王代とする説もあるが,《晋書》馬韓伝などから4世紀前半とした。百済の建国者は始祖神話などから夫余・高句麗系の移住民とされる。…
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