百済(読み)クダラ(英語表記)Paekche

デジタル大辞泉 「百済」の意味・読み・例文・類語

くだら【百済】

古代朝鮮の三国の一。朝鮮半島西南部に拠った王国。4世紀半ばに部族国家の馬韓ばかん北部の伯済国が建国。都を漢城としたが、のち高句麗こうくりに圧迫され、熊津ゆうしん・夫余と変えた。建国当初より日本とは友好関係を保ち、日本に仏教その他の大陸文化を伝える。660年、新羅連合軍に滅ぼされた。ひゃくさい。
《古代、百済などからの渡来人が多く住んだところから》摂津の国東南部(現在の大阪市生野区辺り)の古郡名。また、奈良県北西部、広陵町の地名。

ひゃくさい【百済】

くだら(百済)

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精選版 日本国語大辞典 「百済」の意味・読み・例文・類語

くだら【百済】

  1. ( 古く「た」の清濁不詳 )
  2. [ 一 ] 朝鮮の三国時代、半島西南部にあった国。四世紀初の馬韓から起こるが、伝説ではその前身伯済国の始祖温祚(おんそ)王は高句麗(こうくり)から移った扶余の系統と伝える。首都は漢山、のち熊津。任那(みまな)の滅亡後、新羅(しらぎ)、高句麗と抗争。日本、中国南朝とは友好関係を保ち、わが国に仏教その他の大陸文化を伝える。六六〇年、新羅・唐連合軍に滅ぼされた。
  3. [ 二 ] ( 古代、百済などからの渡来人が多く居住したため名づけられた地名 ) 摂津国東南部の古代の郡名。現在の大阪市東部、生野区周辺の一帯と思われる。また、奈良県北西部、広陵町の地名。百済寺があった。
  4. [ 三 ]くだらでら(百済寺)[ 四 ]
    1. [初出の実例]「自花頂殿百済二荷折二合」(出典:蔭凉軒日録‐文明一九年(1487)正月二八日)

百済の語誌

( 1 )「百済」をクダラと訓む由来には諸説あるが、馬韓地方に原名「居陁羅」と推定される「居陁」という地名があり、これがこの地方の代表地名となり、百済国成立後、百済の訓みになったという説が最も合理的か。
( 2 )「書陵部本名義抄」に「百済琴」を「久太良古度(クタラコト)」と清音に訓んでいるところから、第二音節の清濁は、古くは清音との推定もされている。


はくさい【百済】

  1. ( 「はく」は「百」の漢音 ) 朝鮮の三国時代、西南部にあった国。くだら。はくさいこく。ひゃくさい。
    1. [初出の実例]「然者則日本の外、新羅、百済(ハクサイ)(高良本ルビ)、高麗、荊旦、雲のはて、海のはてまでも、行幸の御供仕て、いかにもなり候はん」(出典:平家物語(13C前)七)

ひゃくさい【百済】

  1. くだら(百済)

くだら【百済】

  1. 姓氏の一つ。

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改訂新版 世界大百科事典 「百済」の意味・わかりやすい解説

百済 (くだら)
Paekche

朝鮮古代の国名で,4世紀前半~660年に及ぶ。〈ひゃくさい〉と音読するのが一般的であるが,日本では大村などを意味する朝鮮の古語を訓読して〈くだら〉と呼びならわしている。百済の建国年次は,その前身の馬韓伯済国から百済国にかわる時期とみ,《三国史記》による3世紀の古爾王代とする説もあるが,《晋書》馬韓伝などから4世紀前半とした。百済の建国者は始祖神話などから夫余・高句麗系の移住民とされる。初期の百済の領域は漢江流域で,この地域は南方の韓族系文化と北方の高句麗系文化の共存地域であり,そのことが百済史の特徴にもなっている。

伯済国の故地とされるソウル市南部には,初期の古墳が多数ある。伯済国は帯方郡治に近かったため,その影響を早くからうけて馬韓の大国となっていた。伯済国は,丘陵や谷間にあった初期農耕集落が連合してできた国家で,その社会は集約的な農耕生産を基調としていた。そのため,村落構成員の権限が強い社会であったとみられる。3世紀の伯済国は,魏・晋の帯方郡の勢力下にあって,主として文化的・経済的な面で発展した。314年に高句麗とともに帯方郡を滅ぼすと,近隣の諸国と連合して百済国を建設した。百済の始祖神話や初期の伝承によると,百済の建国には国際問題が新羅などより重要視されていたことが知られる。この漢江下流域は三国時代を通じて争奪の地であり,その後も長く東アジア諸文化交流の要衝の地ともなったところである。この地理的条件は百済建国当初からのもので,百済史の特質ともなったものである。

王都慰礼城の位置は,近年の発掘調査の結果,ソウル市城東区風納里とする説が有力となった。この期の百済領域は,南漢江下流域を中心とする地方とみられる。《三国史記》の契王以前の百済記事から次のことが推測される。国際関係では高句麗,靺鞨(まつかつ),楽浪郡と対立し,帯方国とは親密な関係にあった。国内問題では,王位継承が王家の血縁によるとする記事が多いが,第11代比流王の即位では臣民の推戴としている。おそらく後者の形式が当時の即位形式であろう。王者の性格も,戦争の記事にひかれて勇将に描かれることが多い。しかし,その祭祀記事や農耕関係記事からみると,高句麗や新羅の王者と同様シャーマン的存在で,農耕生産の維持・発展のための祭祀が,百済王の主要な任務であった。政治史では古爾王代の真氏の台頭が注目される。真氏は慰礼城地方の旧小国の勢力を背景とする貴族で,貴族連合体制のまとめ役として中央政界で活躍する。一方,武将としても功績をあげ,さらに王妃を出す氏族として重視された。伯済国から百済国への発展は,厳しい国際環境に対応するためもあるが,主として,すぐれたシャーマンを王者に擁立して,農耕生産の維持・発展をはかるためであった。

この時期の百済は,国際的にも国内的にも大きな変化があった。国内政治では,371年に王都が慰礼城から漢山城に移った。漢山城の位置は数説あって確定できないが,南漢山周辺で,慰礼城から5~20km以内にあったとみられる。そのため,真氏など旧王都地域を基盤とする貴族たちは遷都後も勢力を保持していたが,漢山地方を基盤とする解氏らにしだいに押さえられた。文化面では,384年の仏教公伝近肖古王代の博士高興による文字の伝来など,多方面にわたる中国文物の受容が行われたが,これらは政治面,経済面にも大きな影響を与えた。

 国際関係では,東方の強国高句麗と対立し,371年には平壌城を攻め落とし,故国原王を討ちとった。この戦勝によって百済の国際的地位が飛躍的に向上し,翌年はじめて東晋に朝貢すると,東晋は近肖古王を鎮東将軍領楽浪太守に封じた。その後,歴代の百済王は北朝の秦や南朝の宋・南斉などに朝貢し,その称号も累進して,〈使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王〉となった。勢いに乗った百済は,370年代の一時期に遼西郡方面に進出した。《日本書紀》引用の〈百済記〉やこれに付会した伝承記事によれば,大和王朝は366年に加羅諸国と,翌年に百済と国交を開いた。さらに369年から485年までに,大和王朝は5回も出兵して新羅や百済を討伐したとしている。しかしこれらの伝承記事は,6世紀中葉の事情をもとに年代を遡及させた記事で,8世紀初頭に作られたものとみられる。397年に阿莘王は南下する高句麗広開土王の勢力と対抗するため,太子腆支を人質として倭国に送った。また,百済が倭と結んで396年以降5度にわたって高句麗と戦ったことは,広開土王碑文にもみられる。これらの〈〉国を,日本の学界では《日本書紀》の記述にしたがって大和王朝にあてるものが多いが,中国,朝鮮の史料では朝鮮南部ないしは北九州とみている。百済側の史料によれば,大和王朝との国交は6世紀に始まる。

 この対倭同盟の結果高句麗の南下を一応阻止したが,貴族連合体制内部に変化が生じ,腆支王を擁立した解氏が真氏にかわって中央政界の世話役となり,王の外戚ともなった。百済での王者擁立の争いは,高句麗,日本ほど激しくなかったが,第2期から第3期にかけて,しばしばみられる。

 475年に王都漢山城が高句麗に攻め落とされ,蓋鹵(がいろ)王は殺害された。蓋鹵王はこの敗戦を事前に察知し,子の文周を南方に逃がし,百済の再建を計った。蓋鹵王は王権を拡張するため,王城,宮殿,王陵などを改修した。王権の強化を好まない貴族たちはこれに反発して旧小国の保全につとめ,対高句麗戦に参加しなくなった。蓋鹵王の敗北は領主的貴族の連合体制を軽視したためで,王権の弱さを暴露したものである。

文周王を擁立して第2の百済を建設した木劦満致や祖弥桀取などは,熊津(現,忠清南道公州)地方の勢力を代表するものであった。彼らが百済王を擁立した理由は,この地方の小国を統合して,高句麗に対抗するとともに,前代に築いた百済の国際的地位を利用して,中国文化の導入を図ろうとしたことにある。そのため,基盤を失った真氏や解氏なども貴族連合体制の運営能力および外交手腕などを買われて,王族とともに宮廷貴族として重視された。しかし,文周王は擁立者の木劦氏らを重視したため,貴族連合体制の代表者解仇と対立し,477年に殺害された。翌年,解仇は新興貴族の燕信と結んで反乱を起こした。これは貴族内部の権力闘争で,腆支王即位のとき,反対派となったため,逼塞していた真氏がこの反乱を鎮定した。この反乱を契機に熊津地方の勢力を背景とする沙氏,燕氏,氏などの諸氏が台頭してきたが,これは当時の貴族制が前代同様地域の利益代表者として領主的な性格の強かったことを示している。

 国際関係では,東城王代に新羅と国交を開き,高句麗の南下を阻止しようとした。この時期から本格的な三国時代となり,現在の忠清北道を中心に三国の攻防がつづいた。当時はなお旧小国の勢力が強かったので,三国はこれらの旧小国を勢力下におさめるため相争った。また地方政策にも種々対策が講じられ,《梁書》百済伝には,全国を22地区に分け,それぞれに王族を分封したとある。また,宋や南斉に対し,王だけでなく家臣の軍号・官号も請求した。家臣への称号の授与は,438年に倭王珍が13人の家臣に将軍号を求めたことに始まる。これら家臣への除授は,家臣の国際的な序列だけでなく,地方住民への権威付けでもあった。また,倭王の軍号は百済王のそれよりつねに低位で,倭の百済支配の意図はうかがえない。倭王とその家臣とは身分差が少ないが,百済王とその家臣とでは身分差が倭国より大きいことが知られる。また,458年に除授をもとめた百済家臣11名中8名が王族の余氏であったが,490年には7名中3名となり,495年には余氏がなく沙氏,解氏,木氏の諸氏各1名で,東城王代の貴族の多様化がみられる。東城王は王権の拡充を計り,貴族勢力を抑圧しようとしたが,百済の貴族連合体制はなお強固であったため,かえって東城王は廃位,殺害された。

 東城王代には,百済の勢力が朝鮮南西部,耽羅(済州島)から西部の加羅諸国にまで及んでいた。武寧王代には,加羅諸国の支配権をめぐり新羅と対立し,これを打開するため,大和王朝と国交を開いた。その後,百済は大和王朝の外交的・軍事的支援を求めるため,513年から五経博士などを派遣して,百済の儒教文化を組織的に提供した。538年には高句麗・新羅連合軍と対抗するため,大和王朝に仏教を供与して救援軍の派遣を要請した。大和王朝は百済からの新文物にひかれ,外交上のみならず軍事的にも百済を支援することになるが,その軍事力は三国抗争に影響を与えるほどのものでなかった。

538年に聖王は王都を熊津から泗沘(しひ)(現,忠清南道の扶余)へ移した。泗沘は水陸交通の要衝で,西海岸地域を支配し,加羅諸国,中国の南梁,大和王朝などと積極的な外交交渉を進めるのに格好の地であった。

 百済では三国抗争の激化に伴って,中央集権的体制を取る必要に迫られ,泗沘遷都を契機に領主的貴族制を脱皮し,中央集権的な宮廷貴族制に移行した。その政治体制は前代までと同様,貴族連合体制を維持し,中央官制は内臣佐平(首格),内頭佐平(大蔵大臣格),内法佐平(宮内大臣格),衛士佐平(近衛大将格),朝廷佐平(法務大臣格),兵官佐平(軍務大臣格)の六佐平を頂点に,内官・外官の官職も整備された。これらの運営には貴族の合議制・請負制をとっていた。戦時体制が強化されると,王都を五部に分け,各部に貴族を配置するとともに,それぞれ兵500人をおいた。地方は軍政色のきわめて強い行政制度で,全国を五方にわけ,各方の所在地を方城,長官を方領,副長官を方佐といった。各方には700~1200人の軍隊と6~10郡とがあり,郡には郡将がいた(五方・五部)。

 552年に百済は漢江下流域を回復するが,翌年この地を新羅に奪われた。554年王子余昌(威徳王)の救援に向かった聖王が,新羅軍と戦って戦死した。聖王の戦死によって内政では中央集権体制の整備に支障をきたし,対外的には562年に百済の支配下にあった加羅諸国を新羅に奪われた。また,威徳王は聖王の戦死を大和王朝の救援が遅れたためと考え,対日外交を一時中止し,北朝の斉・周,南朝の陳との外交を緊密にした。581年に隋が建国すると,ただちに隋と国交を開いた。一方,大和王朝が加羅諸国の復興政策をとったので,597年に王子阿佐を派遣して大和王朝との国交を強化した。607年,隋に高句麗出兵を要請するなど外交活動は活発であったが,三国間での軍事行動は比較的少なかった。

 唐代になると,百済の僧侶や儒学生などが大量に唐に留学した。このような平和な国際関係の裏で,唐は朝鮮支配の準備を着々と進めていた。これに対応するため,百済でも642年に政変が起こった。前年義慈王が即位し,その年に王母が死ぬと,王子翹岐(ぎようき)ら40余名が追放されて,大和王朝に亡命してきた。

 戦時体制を整えた百済は,642年新羅を攻め,洛東江中流域の40余城や同江下流域の中心地大耶城などを奪い,唐への要衝党項城を襲撃した。645年には唐の第1回高句麗侵略戦争に便乗して,百済は新羅王都近郊まで軍隊を進めた。しかし,この百済軍は新羅の善徳王の霊感によって撃破された。その後,三国末期の激しい戦闘が続くが,660年,突然唐が戦略を改め,新羅と同盟して百済を攻撃した。百済は準備不足のため,戦線の整備もできないまま,わずか10日間の戦闘で降服した。

 百済の滅亡直後から,王族の鬼室福信や僧道琛らは百済復興軍を組織し,631年から大和王朝の人質となっていた王子豊(豊璋)を擁立し,高句麗や日本の支援をうけて,新羅・唐連合軍と戦った。663年に,内部の権力闘争と白村江の戦での日本軍の敗戦とで,百済復興軍も降服した。

百済の貴族文化は,全時代を通じて,高句麗・中国両系統の文化の影響を受けていた。しかしその庶民生活をささえる基層文化では,加羅,新羅などの文化とともに韓族文化を形成していた。第3期以降では,貴族文化が飛躍的な発展をみせた。そのため,庶民文化とかけ離れ,百済滅亡の一因ともなったが,新羅,日本の文化には,大きな影響を与えた。百済では政治制度や行政組織をはじめ,あらゆる分野で中国文化を積極的に受容したが,その典型は漢学と仏教の受容である。文字の使用は近肖古王代(346-375)から始まるが,425年からしばしば国書を宋に送り,472年には優れた漢文の国書を北魏に送っている。また,541年には《涅槃(ねはん)経》などの経典や毛詩博士を梁に求め,のちには洗練された文章の中に老荘思想を盛りこんだ砂宅智積(さたくちしやく)碑などを作っている。《周書》や《旧唐書》によれば,6~7世紀の百済人は,高句麗と同様,馬術や弓術を好むとともに,儒学の五経や歴史書をよく読んでいたと伝えている。

 仏教は384年に西域の僧侶摩羅難陀によって中国東晋から伝えられた。526年には謙益がインドから律宗関係の経典をもち帰り,これを翻訳したので,百済の仏教は律宗を中心に発達した。また,百済の王室は仏教受容を積極的に推進し,新しい宗教・思想体系を導入するとともに,仏像彫刻寺院建築などの新文物をも受容した。また,当時の国際情勢から,百済の仏教は護国的な性格が強く,王都扶余の王興寺はその中心であった。百済の仏教美術の特色は,優雅で気品に富むところにある。国立中央博物館所蔵の金銅弥勒半跏像や瑞山の磨崖三尊仏像などは,優雅な百済彫刻の代表である。石塔では木造の塔の建築様式を伝える益山弥勒寺址の石塔や,簡素な形式のうちに美を凝結させた宗林寺址の石塔などが代表的なものである。風納里土城址などから出土した青銅器類からも,初期の百済文化が高句麗の影響をうけていることが知られる。1971年に完全な形で発掘された武寧王陵は,中国南朝の影響を受けた塼(せん)築墳であり,その誌石の文字は北魏形式の優美な楷書であって,当時の東アジアの美術が,百済文化としてここに結晶したといえる。

 百済文化の特色は中国や高句麗の文化を受容するとともに,地域文化と巧みに結合し,独特な文化を作りだしたところにある。例えば百済の王都は,初期の漢山城では中国の邑城形式を一部取り入れたが,後期の熊津や扶余では,高句麗で発生し,この地方で発展した山城群による防衛を主とし,これを結ぶように中国式の羅城が採用されている。また,墳墓も高句麗式の積石墳から始まって,中国風の横穴石室墳・塼築墳などが採用されたが,この地域独自の甕棺墓は根強く存続し,栄山江下流域では,とくに盛行した。

第2期の漢山城時代の遺跡には,慰礼城跡とみられる風納里土城の南方の石村洞3号墳のように,高句麗の将軍塚より大規模な積石塚(つみいしづか)がある。これらは,4~5世紀のころ,高句麗から南下してきた百済の建国者たちの古墳ともいわれている。この付近の江東区可楽洞などには封土墳がある。これらの古墳は方形または長方形で南面し,天井は壁を内傾させ,上に板石をのせ,側壁は割石積みで石灰を塗っている。この形式は楽浪古墳の影響とみられる。この時期の土器には,縄蓆文の上に等間隔の沈線を数条めぐらした金海式土器の文様が多く,その基層文化は韓族の文化であることがわかる。

 第3期の熊津時代の墓制では,積石塚がなくなり,高句麗式石室墳と中国南朝系の塼築墳とがあらわれ,前期の平地墳から加羅式の丘陵墳に変化した。公州邑宋山里6号塼築墳には,高句麗の壁画から影響をうけた四神壁画があるが,その特異な玄室の形式や使用されている花文塼などは,中国湖南省長沙の南斉時代の塼築墳とまったく同じである。武寧王陵も中国南朝との関係がきわめて明瞭にみられる。ただし,遺体を南枕にしている点で,北枕の中国と異なっている。その誌石の字形は,北朝から高句麗を通じて伝えられたものとみられる。武寧王陵出土品のうち,金製の冠飾りは高句麗のものに類似し,耳飾りの心葉形垂飾は新羅のものと類似している。また,この時期の百済土器にみられる三足土器(足に三角形などの透し窓がある土器)は,中国南朝の土器に由来し,広底土器も中国や高句麗土器の影響であるが,新羅からの影響とみられる新羅式高坏(たかつき)や波状沈線文の使用も広くみられる。

 第4期の扶余時代の墓制は,公州時代に始まった羨道つきの箱形石室墓が中心であるが,全羅北道南原・鎮安地方では加羅式の石槨墓が中心である。扶余邑の陵山里古墳群は丘陵の南斜面にあって,横穴式の長方形の石室墓で,切石をていねいに積みあげた高句麗式の築造法である。陵山里1号墳には高句麗の四神の壁画がある。天井には高霊加羅の古墳壁画と同じ飛雲文,蓮華文などがあって,加羅諸国との関係をうかがわせる。全羅南道南西部の栄山江下流域には,先史時代の墓制の発展した甕棺墓の群集がある。その封土には日本の前方後円墳に類似した外形もあり,前方後円墳の祖形とする説もある。また,この甕棺墓から新羅の冠と同一系統の金銅冠が出土したこともある。

 百済の仏教遺跡・遺物には,寺院址,石塔,仏像彫刻などがある。扶余邑の軍守里寺址は一塔式伽藍配置で,初期の日本の寺院配置の原型をなしている。全羅北道益山郡金馬面の弥勒寺址の石塔は,百済石塔の最古の形式で,7世紀初頭の建立とみられ,木造建築を忠実に模倣したものである。〈大唐平百済国碑銘〉のある扶余邑の定林(じようりん)寺址石塔の屋根は,勾配がゆるく,軒がかろやかにのび,その四隅がわずかに反っているなど,百済式石塔の典型を示している。国立中央博物館所蔵の金銅弥勒半跏像をはじめ現存の百済仏像は,6世紀後半以後の制作で,南朝の影響が強く独特の〈百済の微笑〉を浮かべている。これらは日本の飛鳥仏に大きな影響を与えた。忠清南道瑞山郡の二つの磨崖仏群は,いずれも百済末期に近いものであるが,南朝様式を伝えている。これらは中国の石窟寺院の影響をうけたもので,統一新羅時代の石窟寺院や磨崖仏群の先駆である。

百済と倭との国交は,近肖古王時代から始まるとみられる。広開土王碑文の倭や,南朝宗に称号を求めた倭を大和王朝とし,大和王朝が百済を支配したとする説がある。しかしこの倭は,朝鮮南部ないしは北九州地域の倭である。大和王朝と百済との国交は,武寧王代(501-523)から始まるとみられる。大和王朝は百済と国交を開いて,新文物を積極的に受容しようとした。6世紀前半から中葉にかけての百済は,加羅地方に進出し,加羅諸国や新羅と対立した。そこで,百済は遠交近攻外交政策をとり,大和王朝と国交を開き,外交上のみならず軍事的にも支援を得ようとした。554年聖王が新羅軍と戦って戦死すると,その子威徳王は大和王朝との国交を579年まで中断した。その後,両国間の国交は再開されたが,百済の外交は隋・唐を中心とし,対日外交は積極性を欠いた。660年に百済が滅亡すると,日本に派遣されていた王子豊を奉じて百済復興軍を結成し,新羅・唐連合軍と戦った。663年にこの復興軍を支援するため,大和王朝は初めて大軍を朝鮮半島に送ったが,白村江の戦などで敗れた。この前後に百済からの亡命貴族が多数日本に渡来し,その後各方面で活躍した(帰化人)。そのうちには,百済王一族のように,8世紀末に,桓武,嵯峨,仁明など諸天皇と姻戚関係を結ぶようになったものもいる。

 百済は,中国王朝との国交で受容した儒教や仏教の文化を,国交を通じて日本の貴族層に伝えた。4世紀中葉に百済で文字が使われはじめると,369年には銘文をもった七支刀が倭王に贈られ,阿直岐(あちき)や王仁(わに)が漢字や漢学を伝えたとされている。また541年に百済は南朝の梁に仏典,毛詩博士,工匠,画師を求めながら,他方では,大和王朝に五経博士などを派遣し,仏像や仏教経典を伝えている。百済は中国の新文物を自国で使用するだけでなく,日本や新羅に伝え,外交,貿易等で優位に立とうとした。百済のこの外交政策は成功しなかったが,日本の古代文化に与えた影響はきわめて大きかった。例えば,《日本書紀》の年次構成で,556年以前は百済の史料(《百済記・百済新撰・百済本記》)によって作られることになった。また寺院建築,仏像彫刻など,飛鳥・白鳳時代の美術・工芸をはじめ,百済楽など音楽,舞踊などにも大きな影響を与えた。また朝鮮式山城(さんじよう)といわれる古代の城郭も,百済からの亡命貴族の指導によるもので,古代の貴族文化だけでなく,庶民生活にかかわりをもつ基層文化にも影響を与えている。
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百済 (ひゃくさい)

百済(くだら)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「百済」の意味・わかりやすい解説

百済(くだら 朝鮮)
くだら

朝鮮古代の国名(4世紀前半~660年)。「ひゃくさい」とも読む。日本では大村などを意味する朝鮮の古語を訓読して「くだら」という。その前身は馬韓(ばかん)の伯済(はくさい)国で、4世紀前半に建国した。その基層文化には、南方の韓族系文化と北方の高句麗(こうくり)系文化とが共存している。

井上秀雄

前史(伯済国時代 4世紀前半まで)

伯済国は現在のソウル市南部にあって、この地方の丘陵や谷間にあった初期農耕集落の連合体で、その社会は集約的な農耕生産を基調としていた。伯済国は帯方(たいほう)郡治に近かったので、早くから中国文化の影響を受け、経済的にも発展していた。伯済国は、313年に高句麗とともに帯方郡を滅ぼすと、近隣諸国と連合して百済国を建設した。

[井上秀雄]

小国統合時代(4世紀前半~346年)

王都慰礼(いれい)城は、ソウル市城東区風納里(ふうのうり)にあり、その領域は南漢江流域であった。伯済国から百済国への発展は、新しい農耕生産と厳しい国際環境に対応するため、小国が連合したためである。そのため政治の実権は旧小国の勢力を背景とする貴族たちにあった。

[井上秀雄]

領主的貴族連合時代(346~475年)

国内政治では、371年に王都が慰礼城から漢山城(京畿(けいき)道広州)に移った。漢山城が慰礼城に比較的近かったので、真氏など旧王都地域を基盤とする貴族たちは、遷都後も勢力があったが、漢山地方を基盤とする解氏らに、しだいに押さえられた。文化面では360年ごろの博士高興による文字の伝来や、384年の仏教公伝など、多方面にわたる中国文物の受容が行われた。国際関係では、371年には平壌城を陥落させ、高句麗の故国原(ここくげん)王を討ち取った。この戦勝によって百済の国際的地位が飛躍的に向上し、百済の近肖古(きんしょうこ)王は東晋(とうしん)から鎮東将軍領楽浪(らくろう)太守の称号を与えられ、その後、歴代の百済王は中国王朝から内臣の称号を与えられた。勢いにのった百済は、370年代の一時期、遼西(りょうせい)郡方面に進出した。396年以後倭(わ)国と同盟して高句麗の南下を阻止したが、この倭国は朝鮮南部ないしは北九州の倭国で、日本の大和(やまと)王朝との国交は6世紀になって始まる。5世紀に入ると、貴族連合体制内部に変化が生じ、腆支(てんし)王を擁立した解氏が真氏にかわって中央政界の主導権を握り、王の外戚(がいせき)ともなった。

 475年に、王都漢山城が高句麗に攻め落とされ、蓋鹵(がいろ)王は殺害された。蓋鹵王は王権を拡張しようとしたが、これを好まない貴族たちが反発し、対高句麗戦に参加しなかった。蓋鹵王の敗北は領主的貴族の連合体制を軽視したためで、王権の弱さを暴露したものであった。

[井上秀雄]

宮廷貴族発生期(475~523年)

蓋鹵王の子文周王は熊津(ゆうしん)(忠清南道公州)に都を移した。文周王の擁立者は、熊津地方の勢力を代表する木劦満致(ぼくきょうまんち)らである。彼らはこの地方の小国を統合して高句麗に対抗するとともに、百済の国際的地位を利用して、中国文化の導入を図った。そのため、真氏や解氏など前代の貴族たちを宮廷貴族として迎え入れた。しかし、文周王は擁立者の木劦氏らを重視したため、貴族連合体制の代表者解仇(かいきゅう)と対立し、478年に殺害された。翌年解仇らは反乱を起こしたが、真氏がこれを鎮定した。

 この反乱を契機に、熊津地方の勢力を背景とする沙(さ)氏、燕(えん)氏、(はく)氏などの諸氏が台頭した。当時の貴族制は前代同様地域の利益代表者として、領主的性格が強かった。

 高句麗の南下を阻止するため、東城王(在位479~501)は新羅(しらぎ)と国交を開き、本格的な三国時代となった。しかし、なお小国の勢力が強かったので、三国はこれらの小国を自国の勢力下に入れるため相争った。地方政策では全国を22地域に分け、それぞれに王族を分封した。地方住民への権威づけのため、宋(そう)(南朝)などに、王だけでなく家臣の称号を求めた。このとき倭の五王が宋に求めた軍号は、百済王のそれよりつねに低位で、倭が百済を支配したとはいえない。東城王は王権の拡充を図り、貴族勢力を抑圧しようとし、かえって廃位、殺害された。武寧王(在位501~523)代には、加羅(から)諸国の支配権をめぐり新羅と対立し、これを打開するため大和王朝と国交を開いた。その後、百済は大和王朝の外交的、軍事的支援を求めるため儒教、仏教の新文化を供与した。

[井上秀雄]

宮廷貴族連合時代(523~660年)

538年に聖王(聖明王)は王都を熊津から泗沘(しひ)(忠清南道扶余(ふよ))へ移した。泗沘遷都の目的は、積極的な外交交渉を進めるためであった。泗沘遷都を契機に、領主的貴族制を脱皮し、中央集権的な宮廷貴族制に移行した。中央官制は六佐平を頂点に、内官、外官の官職も整備されたが、その運営は貴族の合議制、請負制をとった。王都を5部に、地方を5分に分け、軍政色の強い行政制度とした。554年に聖王が新羅との対戦で戦死したため、中央集権体制の整備に支障をきたし、加羅諸国を新羅に奪われることになった。その後、外交面、文化面では盛んに活動するが、軍事行動は比較的少なかった。642年に政変が起こり、戦時態勢を整えると、加羅地方に進出し、645年には新羅王都近郊まで侵入した。その後三国末期には唐の高句麗出兵も加わり激しい戦闘が続くが、660年に突然唐が戦略を改め、新羅と同盟して百済を攻撃し滅亡させた。滅亡直後から百済復興軍が新羅・唐連合軍と戦ったが、663年に、内部の権力闘争と白村江(はくそんこう)の戦いでの日本軍の敗戦とで、百済復興軍も降服した。

[井上秀雄]

『李丙燾著、金思燁訳『韓国古代史』上下(1979・六興出版)』『井上秀雄著『古代朝鮮』(NHKブックス)』『井上秀雄著『古代朝鮮史序説――王者と宗教』(1978・東出版寧楽社)』『井上秀雄著『変動期の東アジアと日本――遣唐使から日本国の成立』(1983・日本書籍)』



百済(くだら 奈良県の地名)
くだら

奈良県北西部、北葛城(きたかつらぎ)郡広陵(こうりょう)町の一地区。旧百済村。葛城川と曽我(そが)川の中間に位置する水田農業地帯である。地名は朝鮮半島からの渡来人の居住地に由来する。『日本書紀』に記される百済大井宮(おおいのみや)、百済大寺、百済宮、百済川の所在地とするのが通説である。現在の百済寺が、寺伝によれば舒明(じょめい)天皇11年(639)百済川畔に創建された百済大寺であるといわれ、三重塔(鎌倉時代の再建で国指定重要文化財)がある。広陵町は靴下製造が盛んで、百済には靴下団地がある。

[菊地一郎]


百済(ひゃくさい 朝鮮)
ひゃくさい

百済

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百科事典マイペディア 「百済」の意味・わかりやすい解説

百済【くだら】

朝鮮半島の南西部に4世紀前半から660年まで存続した国。〈ひゃくさい〉とも。馬韓の伯済国を中心として建国。始祖神話などからその王室は夫余高句麗(こうくり)系の移住民とされる。初期の王都は慰礼城(ソウル市城東区風納里に比定する説が有力)で,371年漢山城に移り,この年に平壌城を攻めて高句麗を破った。翌年中国の東晋から冊封をうけ,384年には仏教も伝えられた。しかし475年高句麗の攻勢により,都を熊津(ゆうしん)(現,忠清南道の公州)へ移し,新羅(しらぎ)と結んで高句麗の南下を阻止しようとするが,このころから本格的な三国時代となる。538年泗【ひ】(しひ)(現,忠清南道の扶余)に遷都し,中央集権的な宮廷貴族制を整えて三国抗争に備えた。552年に漢江下流域を回復するが,翌年には新羅に奪われ,百済支配下にあった加羅諸国も562年に新羅の手に落ちた。640年代に百済は新羅に攻勢をかけるが,660年唐と新羅の連合軍に敗れて滅亡した。王族の鬼室福信らの残存勢力が倭(日本)と結んで百済復興をはかるが,663年に白村江の戦における日本軍の大敗により降服した。百済と倭は4世紀から交流があるが,大和王朝との国交は6世紀からとみられる。百済滅亡前後に多くの渡来人が日本に来た。2015年に百済歴史遺跡区がユネスコ世界遺産に登録された。登録された百済歴史遺跡は,公州の公山城・松山里古墳群,扶余の官北里遺跡および扶蘇山城・陵山里古墳群・定林寺跡・羅城,全羅北道益山の王宮里遺跡・弥勒跡など計8ヵ所。
→関連項目阿直岐厩坂冠位十二階鬼室集斯国中公麻呂遣新羅使三国遺事三国史記七支刀千字文全州帯方郡高野新笠忠清南道朝鮮朝鮮人平野神社平百済塔王仁

百済【ひゃくさい】

百済(くだら)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「百済」の意味・わかりやすい解説

百済
くだら
Paekche

朝鮮,古代三国の一つ(4世紀前半~663)。日本では「くだら」と呼びならわされているが,「ひゃくさい」と呼ぶのが妥当であろう。『三国志』魏志東夷伝によると,古代の朝鮮南部は馬韓辰韓弁辰(弁韓)の三つに分立していたが,楽浪郡,帯方郡の滅亡を機会に 4世紀前半頃,馬韓の地から建国したらしい。百済の歴史が史実の対象となるのは近肖古王(在位 346~375)以後で,北方の高句麗を討って,かつての楽浪,帯方の地にまで侵入したが,その後は高句麗に攻められ南部へ圧迫されたので,東部の新羅や日本と結んだ。大和政権(→大和朝廷)に対しては種々の文化交流を行なって,中国,特に南朝文化を日本にもたらした。高句麗に広開土王が出現してから後退の一路をたどり,蓋鹵王21(475)年首都を落とされて国王以下が殺された。新首都を熊津に移したが,聖王16(538)年にはさらに南下して泗沘に移った。その頃中国では,続いてが成立したが,新羅は唐と結び,義慈王20(660)年,二国の連合軍は百済を攻めて義慈王以下一族多数を唐に連行した。当時の大和政権は水軍を出して救援し,王子や遺臣の鬼室福信らを助けたが,白村江に敗れ大和政権にも昔日の勢力はなく,また百済も内部対立が生じ,百済の祖国回復はならず,豊王3(663)年完全に滅亡した。

百済
ひゃくさい

百済」のページをご覧ください。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「百済」の解説

百済
くだら

「ひゃくさい」とも。朝鮮古代の三国の一つ(前18?~後660)。高句麗の始祖朱蒙(しゅもう)の子温祚が,漢山の慰礼(いれい)城(現,ソウル市東郊の風納里(ふうのうり)土城か)に都をたてたという。王姓は扶余(ふよ)または余。「三国志」魏書の韓伝にみえる伯済(はくさい)国が帯方郡や楽浪郡と交渉を重ねて成長し,4世紀初めに馬韓(ばかん)55国の多くを統合して王権を確立したとみられる。王は372年,東晋に朝貢して鎮東将軍領楽浪太守に叙され,さらに倭王に七支刀(しちしとう)を贈って高句麗に対抗したといわれるが,396年広開土王に敗れて一時高句麗に従属した。475年南の熊津(こまなり)(現,公州市)に遷都,武寧(ぶねい)王のとき中興。538年聖王(聖明王)は泗沘(しひ)(現,扶余)に遷都し,国家体制の再編を図った。倭と結んで新羅・高句麗に対抗したが,660年義慈(ぎじ)王のとき唐・新羅軍に都を落とされた。663年には復興軍も白村江(はくそんこう)の戦に敗れて滅亡した。


百済
ひゃくさい

百済(くだら)

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「百済」の解説

百済(ひゃくさい)
Paekche

4世紀前半から660年まで存在した朝鮮古代の国名。日本では「くだら」とよぶ。馬韓(ばかん)の伯済(はくさい)国が発展してできた国で,北方の高句麗と対立した。371年,漢城に都を置いたが475年,高句麗の圧迫により,熊津(ゆうしん)に,続いて泗沘(しひ)(扶余(ふよ))に遷都した。6世紀末以降,朝鮮半島では高句麗,新羅とともにしばらく三国鼎立時代が続いた。百済は中国の隋唐とも友好関係を保ち,また日本とも親交があったが,660年唐は高句麗を討つため,その背後にある百済を新羅と連合して滅ぼした。


百済(くだら)

百済(ひゃくさい)

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旺文社日本史事典 三訂版 「百済」の解説

百済
くだら

古代,朝鮮半島南西部にあった国家(350ころ〜660)
「ひゃくさい」とも読む。4世紀中ごろ馬韓50余国を統一して建国。百済は日本にとって大陸交通の要地にあたり,一方百済は,高句麗・新羅 (しらぎ) と対抗するために,軍事的援助を求めて日本に接近し,その間には密接な関係が保たれた。百済からは博士・僧侶・技術者などが日本に渡来し大陸の文物が伝わり,古代文化の形成に著しい影響を与えた。欽明朝(531〜571ころ)の仏教公伝などが有名。660年新羅・唐の連合軍に滅ぼされたのち,多くの人びとが日本に渡来した。

百済
ひゃくさい

くだら

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旺文社世界史事典 三訂版 「百済」の解説

百済
ひゃくさい

朝鮮古代の国名。日本史では「くだら」と読む
伯済国は313年高句麗とともに帯方郡を滅して百済を建て,朝鮮半島の南西部を支配した。その後高句麗に圧迫されて475年熊津 (ゆうしん) (公州)に,新羅との抗争の中で538年泗沘 (しひ) (夫余)に遷都し,日本の大和朝廷とも国交を開いて仏教を伝えた。中国の南朝と通交し,その文化を摂取した。660年唐と新羅の連合軍に滅ぼされ,日本の援軍も白村江で敗北した。

百済
くだら

ひゃくさい

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防府市歴史用語集 「百済」の解説

百済

 日本が古墳時代の頃、朝鮮半島は3つの国にわかれており、そのうちの1つです。朝鮮半島南西部に勢力を持っていました。663年にほろびます。

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世界大百科事典(旧版)内の百済の言及

【百済】より

…〈ひゃくさい〉と音読するのが一般的であるが,日本では大村などを意味する朝鮮の古語を訓読して〈くだら〉と呼びならわしている。百済の建国年次は,その前身の馬韓伯済国から百済国にかわる時期とみ,《三国史記》による3世紀の古爾王代とする説もあるが,《晋書》馬韓伝などから4世紀前半とした。百済の建国者は始祖神話などから夫余・高句麗系の移住民とされる。…

【三国時代】より

…古代朝鮮で,313‐676年にわたり高句麗百済新羅の3国が鼎立・抗争した時代。この時代には三国が貴族連合体制の国家となったが,中国の植民地支配を脱したものの,なお強力な軍事介入のあった時代である。…

【馬韓】より

…また〈蘇塗(そと)〉というアジール的な存在があったことが記されているが,その解釈については諸家に異論がある。のちの朝鮮古代三国の一つ百済(くだら)は,馬韓諸国の一つ伯済国が中核となって4世紀半ばころ成立したものといわれている。百済三韓【村山 正雄】。…

※「百済」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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