朝日日本歴史人物事典 「津田永忠」の解説
津田永忠
生年:寛永17(1640)
江戸前期の岡山藩士。岡山生まれ。幼名は又六,のち重二郎。通称は佐源太。津田佐源太貞永と安藤伝左衛門の娘寧の3男。承応2(1653)年に藩主池田光政の御側児小性となり,万治3(1660)年新知150石。以後横目役,大横目役,郡代職などを勤める。土木工事に精通し,主家の和意谷墓地の造営,藩校,手習所の設立,閑谷学校の創設などに当たる。光政の次男政言の下では物頭を勤め藩営新田の造成,田原・坂根の用水や倉安川などの用水路を開削した。その他多彩な事業を手がけ,テクノクラートとしての名声は「佐源太造り」「永忠普請」の言葉で語り継がれている。在地の土豪や技術集団と妥協しながらも防衛用の堀を用水路に改修するなど,池田家の支配体制を確立していく際に大きく貢献した。
(藤實久美子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報