津田永忠(読み)つだ・ながただ

朝日日本歴史人物事典 「津田永忠」の解説

津田永忠

没年:宝永4.2.5(1707.3.8)
生年:寛永17(1640)
江戸前期の岡山藩士。岡山生まれ。幼名は又六,のち重二郎。通称は佐源太。津田佐源太貞永と安藤伝左衛門の娘寧の3男。承応2(1653)年に藩主池田光政の御側児小性となり,万治3(1660)年新知150石。以後横目役,大横目役,郡代職などを勤める。土木工事に精通し,主家の和意谷墓地の造営,藩校,手習所の設立,閑谷学校創設などに当たる。光政の次男政言の下では物頭を勤め藩営新田造成,田原・坂根の用水倉安川などの用水路を開削した。その他多彩な事業を手がけ,テクノクラートとしての名声は「佐源太造り」「永忠普請」の言葉で語り継がれている。在地の土豪や技術集団と妥協しながらも防衛用の堀を用水路に改修するなど,池田家の支配体制を確立していく際に大きく貢献した。

(藤實久美子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「津田永忠」の解説

津田永忠 つだ-ながただ

1640-1707 江戸時代前期の武士
寛永17年生まれ。備前岡山藩士。藩主池田光政・綱政につかえる。寛文4年大横目となる。10年郷校閑谷(しずたに)学校を設立。天和(てんな)2年郡代として郡政を刷新。社倉米制度を活用して新田開発,河川開削などをおこなった。宝永4年2月5日死去。68歳。通称は重二郎,佐源太。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の津田永忠の言及

【池田光政】より

…1654年(承応3)の大洪水で危機に直面したとき,地方(じかた)知行制度の大変革を断行して,家臣統制の強化と領民直接支配の促進をはかり,仁政理念に基づく農政を推進した。また,土木功者津田永忠を起用して新田開発,用・排水路の開削に努め,藩校閑谷(しずたに)学校を創設して士庶の教育に異常な情熱を注ぎ,儒教的合理主義の立場から独自の寺社政策を断行した。好学で世に〈名君新太郎少将〉とうたわれた。…

【岡山藩】より

… 光政は蕃山などの儒者を登用して文教の振興に努め,全国にさきがけて藩校を創設し,ついで庶民教育のための手習所を郡中123ヵ所に設けたが,これらは綱政治世に郷学として著名な閑谷(しずたに)学校に統合された。また,土木功者とうたわれた津田永忠を起用して新田開発・治水(百間川)などの土木事業を積極的に推進し,綱政以後もよく踏襲して児島湾周辺に約13万石の新田高が創出され,ほかに約5万石の改出高があった。この新田地帯を中心に木綿・菜種などの商品作物の栽培が発達し,ひいては文化・文政前後から木綿機業を主体とした農村家内工業が勃興し,児島塩業などとともに商品生産・流通の展開をみた。…

【後楽園】より

…後楽園と通称されるものには,東京都文京区後楽にある小石川後楽園と岡山市後楽園にある岡山後楽園の二つがあり,ともに江戸時代の典型的な大名の回遊式庭園である。その名称はともに中国宋代の范文正《岳陽楼記》の〈士当先天下之憂而憂 後天下之楽而楽〉からつけられた。
[小石川後楽園]
 水戸藩初代の徳川頼房が徳川家光から江戸中屋敷として与えられた地に1629年(寛永6)築造を始めた。2代光圀(みつくに)もこれを継承し,中国明の遺臣朱舜水の意見を用いて中国趣味を付け加え,市民にも観覧を許可した。…

【児島湾】より

…岡山藩治下での干拓は,北岸から南下する形で初めは民営で行われ,土豪開発の米倉新田(30町)や町人請負の金岡新田(232町)が注目される。17世紀後半になると,藩主池田光政は津田永忠を起用して藩営新田の造成に主力を注いだ。最初の藩営新田は1679年(延宝7)に完成した倉田新田(300町)で,ついで84年(貞享1)幸島(こうじま)新田(562町),92年(元禄5)沖新田(1540町)が造成された。…

※「津田永忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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